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天使と黒曜石の魔術師  作者: 水底 眠
第1章 天使は屋根の上
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天使は屋根の上_3

 ルチアは大聖堂の敷地を囲む塀を乗り越え、民家の屋根へ上り、さらに屋根から屋根へ飛んだ。勢いで出てきたが、行き先は決めていたため目的地までほとんどまっすぐに進んだ。

 茶葉の良い香りが漂ってきたあたりで地面に降り立つと、『マルコの茶葉専門店』と書かれた金属製の釣り看板のある店の扉を開けた。

 ルチアが店内に入ると、買い付けにきた商人たちでにぎわう店内が徐々に静かになり、突如来訪した天使についてひそひそと言葉が交わされるようになる。

 マルコの茶葉専門店は天使が時々姿を現す店として知られていた。店主はそれを取り立てて宣伝に使うことはせず、ルチアをそっとしておいてくれた。

 噂をされる状況にすっかり慣れているルチアは、今さら気にせず混雑した店内を縫うように進む。すると、いらっしゃいと声をかけられる。店長の娘のサラだった。一つ年上の友人である。

「ルチア、久しぶり。あら、あなたなんだかご機嫌斜め?」

 サラはお茶を用意してルチアを店内の端にある試飲席に案内してくれた。

 サラの背後には石の祭壇があったが、いつからか神々への供物は置かれなくなり、代わりに茶葉の説明が書かれた板が置かれるようになっていた。今日のおすすめは大麦茶と書かれている。

 近頃は、この店のみならず、家庭では神々に祈りを捧げることが減っているようだった。ルチアが子どもの頃であれば、王都を歩けばどこかしこで神への捧げ物を売っていたが、いつの間にかそれは魔道具と呼ばれるものに取って代わっていた。

 魔道具があれば、水の神に祈らなくても水を清めることができるし、火の神に祈らなくても夜の街を明るく照らすことができる。そんな宣伝文句が、王国の人々の心を掴んだのだという。

 もっとも、ルチアは魔道具の仕組みも知らず、世界を想像力で上書きする普通の魔術とどう違うのかも知らないので、単なる便利な道具という認識でいる。天使居館では諸神への祈りや供儀は行われないため、全ては伝聞だった。

 お茶を一口飲んでほっと息を吐いた。大麦を煮出したお茶は、ささくれた心によく効いた。

「追いかけっこが始まってから忙しいんでしょう。あなたが時々走り回ってるのを私も見たわ。今日は街中で普通に出歩いてるけど、大丈夫なの?」

「問題ない。今日までは追いかけっこしてたんだが、彼女は帰っていったから。新しい候補も来たんだが、彼は家でトルテを焼いている」

「変な魔術師ね。でも、追い掛け回されるよりましかしら。ルチアったら真面目なんだから、勝負なんて投げ出して早く出ていくべきよ、大司教様が怒ったって気にすることはないわ」

 ルチアはあいまいに笑ったが、サラは店内の様子を横目で見ていて気付かなかった。

「それで、その魔術師は何て名前なの?」

「ノイア・オブシウス」

「その名前、聞いたことある気がする」

「この店にはいろんなお客さんが来るから、魔術師の口に上ったことでもあるんだろう」

 二人がしばらく近況を報告し合っていると、店の扉の鈴が鳴った。店に入ってきたのはノイアだった。ルチアはぎょっとして立ち上がった。

 ノイアはルチアに気づいて、にこやかに片手を上げてみせた。しかし、近づいてくることなく店内を進み、買い物を始めてしまった。

「あの人がそうなの? 全然ルチアを捕まえる気がなさそうだけど」

「すまない、少し外す」

 ルチアは恐る恐るノイアへと近づいた。ノイアが不思議そうな顔でこちらを見てくる。

「どうしたの、友だちと話はいいの? ああ、もしかして追いかけっこの誘いかな? でもごめん、御覧の通り両手が塞がってるんだ。また今度ね」

「その話じゃない、なぜここにいる? 君はトルテを焼いているはずでは?」

「ここにはマルタさんに頼まれておつかいに来ただけだよ。甘いものにお茶は欠かせないからね。トルテは焼いてきたから安心して。今は窯の中、火加減は魔術で調整済みだよ」

「魔術って、使っている間はその場から離れられないんじゃないのか?」

 的外れな質問である気がしながらも、なけなしの知識との食い違いを指摘した。魔術は時間や空間を隔てて作用しないはずだった。火加減を調整できる魔道具も、天使居館には一つもない。

「それは魔術式を使っているから問題は……。ああ、もしかして俺のことが気になってきた?」

 ルチアが沈黙すると、ノイアはふっと力の抜けた笑みを浮かべた。

「冗談のつもりだったけど、今のは俺が悪かったね。そんな怖い顔をする必要はない。本当にここへはお遣いに来ただけだよ」

「……そう、ならいいんだ。さっきは悪かった」

 ルチアはいまいち釈然としなかったが、素直に引き下がってサラの元へ戻った。冷めかけたお茶を飲んでも、まだ口の中に少し苦いものが残っている気がした。

 サラはじっとノイアを見つめながら言った。

「あの顔、女の子泣かせて故郷に戻れなくなったからあなたの護衛に志願したんじゃない?」

 それはほとんど悪口ではないかと思いながらも、ルチアは否定も肯定もできなかった。

 天使は恋愛感情を持っていなかった。人の顔立ちが整っていることは理解できるが、それに強く惹かれることがない。ルチアにとって恋は自分事ではなく常に他人事だった。けれども恋の話を聞くのは好きだった。

 買い物を終えたノイアが店から出ていくと、サラが両肘を机に突いて顎を両手に乗せた。

「追いかけないの?」

「な、なんだって?」

 サラは上目遣いにルチアを見ていて、その口元は楽しげに緩んでいる。

「だってあなた、なんだか気になって仕方ないって顔してる。捨てられた子犬みたいよ」

 かわいい、と言われ、ルチアは顔を赤く染めた。彼女にかわいいと言われるのは、いつまでも慣れなかった。まるで普通の女の子になったように感じられるからだ。

 ルチアは空になったカップを置いた。サラはお茶を注いではくれなかった。

「また来て、今度は追いかけっこが終わった後に」

 サラはすでにルチアが帰ることが決まっているように言って、手を振った。

「……わかったよ。今度はお菓子持ってくるから、またな」

 別れを告げて急いで店を出ると、ノイアが扉の横の壁に背中を預けて立っていた。そして、店から出てきたルチアを見て柔らかく微笑んだ。

「奇遇だね」

 待っているとは思ってもいなかったルチアは虚を突かれて、しばらく呆けた顔をしていた。

「君、私を罠にかけたのか? 何かの魔術か?」

「まさか、魔術なんて使ってないよ。ただ君が店から出てこないかって俺が勝手に期待してただけのことだ。俺は帰るよ。君はどうする?」

 ルチアはしばらく考えていたが、やがて無言で歩き出してノイアの横を通り過ぎた。少し遅れてノイアも追いついてくる。彼はまだにこにこしていた。疑っていたルチアは居たたまれず、おずおずとノイアの荷物を指さした。

「半分持とう。その量、茶葉だけじゃないだろう、何を買ったんだ?」

「調味料だよ」

 ルチアはノイアの手には触れないよう注意を払いつつ、重そうな方の紙袋をさっと取った。

 ノイアは空になった方の手をしばらくルチアの方に差し出していた。黒い革手袋に包まれた大きな手である。ルチアはその手と彼の顔を胡乱な目で見比べる。

「なんだその手は」

「荷物運びでも役に立つから、引き続き家に置いてもらえないかと」

「結構、それなら私の方が力が強い」

「それは残念だ」

 ノイアはあっさりと手をひっこめた。

 ルチアは引き続き警戒を怠らず、それとなく距離を保って歩くが、ノイアは全くこちらの隙を伺って捕まえようとする様子はなかった。

「警戒しすぎだよ、親睦を深めようとする俺がまだ信じられない?」

 ルチアの無言の肯定に、ノイアは困ったように笑う。

「今までの魔術師が君を追い掛け回すだけだったのがよくわかる反応だ」

「彼らは悪くない、そういう勝負なのだから。それに信じていないというより、戸惑っている」

「これでも必死だよ、故郷に帰るのが難しい身でね」

「……女の子を泣かせたから?」

 ルチアは口にしてすぐに後悔の念に苛まれた。嫌われるための発言だったが、心がひどく傷んだ。

しかし、ノイアはまるで気にする様子を見せずに言った。

「まさか。冬の神に北の地を踏んだら殺すと脅されているからだよ」

 予想をはるかに超える殺伐とした理由に、ルチアは心の痛みを完全に忘れて絶句する。

 王都には月の神しかいないが、王都の外には数多くの神々がいる。近年の人々の信仰の変化により古より数は減っていると聞くが、今なお神は大きな影響力を持っている。

 四季の神はそれぞれ四方に神殿を持つ強力な神だった。他三柱はすでに世界を去ったが、冬の神だけは今なお北方に在り、畏怖と信仰を集めていた。

「神様って基本的に魔術師嫌いだからさ、そんな顔をしなくていい」

 ルチアは反射的に謝ろうとするが、慌てて口を引き結んだ。仲良くなってはいけない、と自分に言い聞かせる。これまでの護衛候補と変わらず、彼も護衛にしてはいけないのだ。そんな危険な役目を人間に負わせてはいけない。

「「同情してもらえた?」」

 両耳から同じ声が聞こえ、ルチアはぎょっとする。気づけば両側にノイアがいて同じ顔で微笑んでいた。先ほどまで誰もいなかったはず右側にいるノイアの手は、ルチアの肩に置かれていた。しかし、まるで手の重みを感じない。

「安心して、そっちは幻影」

 途端、右側にいたノイアは消え去った。ルチアは背中に冷や汗が流れるのを感じつつ、動揺していない風を装った。

「なるほど、余裕があるのははったりじゃないんだな」

「本気の君に追いつけるほどかどうかは、またの機会に見てもらおう」

 魔術を発動させる時には、たいてい何らかの動作を伴うことが多い。少なくとも、ルチアがこれまで出会った魔術師はそうだった。しかし、ノイアは動作もなしに魔術を発動させていた。

 出会ったときの予感は完全に無視できないものになっていた。

 天使居館に戻ってくると、家の中は甘い匂いに満ちていて。考え事はすぐに棚上げされた。

「荷物持ってくれてありがとう。トルテを切り分けるから、居間で待ってて」

 ルチアは言われるまま居間で待っていると、ノイアが大きな盆を持って現れた。盆の上には切り分けたトルテとお茶のポットが乗っている。ルチアはもうそわそわしていた。

 マリアとマルタも呼ばれたらしく、ノイアの後から部屋に入ってきた。

「急に押し掛けて台所までお貸しいただきありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ重い荷物を運んでいただいてありがとうございました」

 マリアが言って、マルタも続けて礼を言った。二人はかなり打ち解けた雰囲気だった。ルチアが家を空けている間に親しくなったようだ。

「お待たせしました、天使様」

 ノイアがふざけた調子で言ったが、ルチアはついくすりと笑ってしまった。ノイアがにやりとして、ルチアは慌てて視線をそらす。しかし、つんけんした態度が崩れてしまうくらいにはトルテが美味しそうだったのだ。

 オレンジや蒸留酒漬けのレーズン、それにアーモンドのたっぷりはいったトルテだ。仕上げにレースの模様のように粉砂糖がまぶされている。お茶からはすっきりとした匂いがしていて、甘いトルテに合わせて選んだであろうことが伺える。

 ルチアがまごついている間に、マリアとマルタがトルテを食べて、口元をほころばせた。それを見たルチアもこわごわトルテを口に入れた。

 口いっぱいに小麦の旨味を感じ、次いで甘みと酸味の調和が取れた果物の味が広がった。

「……美味しい!」

 ルチアが目を真ん丸にして言うと、隣に座ったノイアが少し子供っぽい笑みを浮かべた。

「気に入ってもらえたみたいで良かったよ。これからどうぞよろしく」

 悔しさを覚えるくらいに美味しいお菓子の味で、積み上げようとした城壁のように頑なな態度はがらがらと崩れていってしまう。

 嫌われたいのに、遠ざけたいのに、仲良くなりたいと言われるとどうしようもなく嬉しい。天使はどうあっても人間に対して親しみを覚えてしまう生き物で、ルチアは甘いものと美味しいものにとことん弱い質だった。

「……ああ、ひとまずは五日間、よろしく」

 その時、ルチアは初めて素直な言葉を告げられたと思った。

 居間にはたっぷりと陽の光が差し込んでいて、ノイアの瞳の黒が透けていた。黒曜石の瞳の美しさが、暗い影のような予感さえ忘れさせた。

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