天使は迷宮の中_8
洞窟内に一歩踏み込んだ瞬間、空気が完全に変わったのを感じ取った。魔力をはらんでねっとりと肌に纏わりつく、嫌な空気だった。
進むにつれて入り口から差し込む光が遠ざかっていくと、蝶が白い光を纏い始めた。
洞窟内は石や岩が転がっているばかりで、取り立てて珍しいものもなかった。
絶え間ない振動に重なるように、生臭い魔力を含んだ吐息の音と、時折り悲しげな呻き声が奥から響いてきた。それは奥へ進むにつれてはっきりと聞こえるようになっていく。
分かれ道に差し掛かると、ルチアは足を止めた。
「必ず目的地へ辿り着くという話だったが、本当にどちらへ進んでも同じなんだろうか?」
ルチアのすぐそばを飛んでいる蝶が、わからないとでも言うように右へ左へ揺れた。
「現状、その話を信じて進むしかないだろう。ルチア、君が選んで」
「わかった。じゃあ、左の道へ」
二人は左側の道を進んだ。辺りの風景が全く変わらないが、空気の淀みだけはますますひどくなっていく。
「蝶……。ちょうちょ、さん、君って生きているのか?」
素朴な疑問を口にすると、蝶はルチアの頭の上に止まった。やはり、どことなく意思を感じる動きだった。
ノイアが微妙な顔をしながら答えた。
「生きてはいない、蝶の形で作った魔道具だからね。だけど、俺の魔力で動いているから、俺の心と同調することがある。だから心があるように見えるんだろう」
へえ、とルチアは言って、人差し指をぴんと立ててみた。蝶はルチアの意を汲んで指先に止まった。ノイアに複雑な目を向けられても、蝶はルチアの指から離れなかった。
「なあ、もしも私が死んだとしたら、洞窟内で亡くなった二人の魔術師の遺体を回収して家族の元へ帰してほしい。それから、余力があれば私の分も」
蝶が指を離れ、ルチアの鼻に止まり、それから翅でぱたぱたとルチアの頬を叩いた。ちっとも痛くなかったが、怒りは伝わった。
ルチアも自分が不吉なことを言っている自覚はあったが、伝えておかなければいけなかった。
ノイアはというと、表情一つ変えずにいたが、体中から怒りややるせなさがあふれ出ていた。それでも彼は、淡々と言った。
「大丈夫、誰にも渡さない。必ず連れ帰って火葬する」
蝶も思案げに動きを止めたが、やがてひらりとルチアから離れ、二人の頭上を飛び始めた。
幾度かの分かれ道を進んで、時間の感覚が失せたころ、辺りの景色が急激に変貌し始めた。
「え……?」
ルチアの口から戸惑いの声が零れた。
岩肌はどこまでも続くなだらかな丘の景色へと変わり、駆ける風が緑の匂いを運んでくる。
二人の脇を子どもが通り過ぎた瞬間、ルチアは思わず足を止めていた。一切の気配を感じなかったのに、楽しそうに笑い声を上げて走っていく二人の子どもの姿が確かに見えたのだ。振り返ると、すでにその姿はなくなっていた。
「これは……、神域、なのか?」
それは神の持つ領地のことであり、天使の手記にもたびたび登場する単語だった。
手記に曰く、力のある神が持つとされる領域は、さながら小さい一つの別世界だった、と。その世界では主たる神が全てを支配し、全てを創り上げる。ある者は、神域とは神の見る夢そのものである、と言った。
「おそらくは。神域を保てるだけの力が残っているのかもしれない」
ノイアも同じ風景が見えているようで、戸惑い気味に言った。
ルチアは手を伸ばして洞窟の岩肌があったはずの場所へと手を伸ばすが、そこには穏やかな風が吹き抜けるばかりだった。
ルチアは蝶を手招きして肩に乗せると、再び奥を目指して歩き出した。
周囲の景色はめまぐるしく変わっていく。急峻な山に挟まれた河や、風に揺れ黄金色に輝く小麦畑、荒涼とした赤茶けた岩場、金銀財宝が山と積まれた宝物庫。
それらすべての景色の中に二人の少年の姿があった。一人は徐々に身長が伸びて立派に成長していくが、もう一人は全く変わらず子どもの体のままだった。
景色はいつの間にか見覚えのあるものになっていた。何度も繰り返し同じ景色が周囲を流れていた。その中にいる子供たちの姿もまた同様で、一人は身長が伸びたり縮んだりしていた。
まるで二人の冒険譚の中のもっとも輝かしい部分だけを繰り返し見ているかのようだった。繰り返されるたびに色は褪せて、二人の表情がぼやけて見えなくなる。しかし、風だけはいつまでも豊かな自然の香りを運んでいた。
全てが灰色へと変わったとき、急に開けた空間に出た。蝶が放つ光が、驚くほどに高い天井を辛うじて照らす。
空間の中央には祭壇があった。周囲を見回すと、さらにいくつかの道へ繋がる大穴が見えた。
ずしん、とひときわ強い振動を感じ、ルチアは肩に止まっていた蝶をさっと懐に入れ、二人は岩陰に身を隠した。ルチアは呼吸の回数を徐々に減らし、瞬きを繰り返して闇に目を慣らす。
完全に呼吸を止めた時、一つの道から赤い鱗に覆われた巨躯が現れた。それは王都で見た書物の中の赤い竜そのものだった。赤い竜はマグノイアの説明よりも一回りも小さく見えた。
頭の後ろには神の証である光背が浮かんでおり、鈍くくすんだ輝きを放っていた。
竜は開けた空間に出ると、一度動きを止めた。次はどの道へ進むかを思案するように長い首を回す。足についた金属製の枷がじゃらじゃらと大きな音を立てていた。
ルチアは激しい心臓の動きを感じていた。強く訴えかけられている。獲物が来たぞ、と内なる囁きが聞こえてくる。
竜の薄く開いた口から厚みのある舌が覗き、蛇よろしくちろちろと舌を出し入れした。まるで空気を舐めるような動きだった。ミラーレが舌を出し入れする度に真っ黒なものがぼたぼたと垂れていた。それは唾液ではなく、壊れつつある神の体そのものだった。
やがて竜はぴたりと動きを止め、大きな瞳をぎょろりと動かしルチアたちの方へ向けた。闇の中で目が合った。ミラーレの片方の瞼は閉ざされたままで、縦に走った古傷が塞いでいた。
「誰だ?」
地響きのような声だった。その声に明確な意志を感じ、ルチアの中で急激に対話への期待が高まる。
「人間と、何だ、この匂い……、そうだ、陽だまりの匂いだ」
竜の尾が鞭のように振るわれ、地面を叩いた。呼吸が荒くなり、鱗の色が毒々しい紫へと変じていく。
ルチアは意を決して岩陰から出て、ノイアもすぐに続いた。
「不躾な訪問をお詫び申し上げる、ミラーレ神。私はルチア。貴方と話がしたい」
洞窟内に沈黙が降りた。ルチアは固唾を飲んで返事を待った。戦わずして戦意を喪失させられるのならそれに越したことはない。戦いは最後の手段であるべきだった。
「天使」
ミラーレは口の中で転がすようにその名を呼んだ。虚ろな目は遠い記憶を探るようにぎょろぎょろ動いた。
「久方ぶりにその名を聞いたな。人の腹から生まれる人間擬き、救世主気取りの人形の名だ」
ルチアは嘲りにも微動だにしなかった。敵対者からの嘲りは想定内だった。眉一つ動かさないルチアに、ミラーレは鼻白んだ様子だった。
「話とは何だ、愚かな平和主義者よ。王族を殺すのをやめろと言うか? 王都を落とすのをやめろと言うか?」
「そのお願いに参りました。こうしてお話ができているのです、どうか私の願いを聞き入れていただけないでしょうか」
交渉事に不慣れなルチアは、率直な願いをぶつけた。
ミラーレの尾が鋭く壁を叩き、一部が音を立てて崩壊した。砂埃が陽炎のように揺らめく。
「下らない、下らない、下らない……!」
ミラーレの声が洞窟内に響き渡り、砂埃さえもその吐息で吹き飛ばされた。
「話し合いなど時間の無駄だ。あれは私との約束を破った! やはりあの血族は許し難い、この世界に存在してはならない。あの血を根絶やしにしなければないない!」
血走った目で叫ぶミラーレは、やはり正気には見えなかった。興奮すればするほどに気配は禍々しいものに染まっていく。
「何があなたをそうさせるのです、ミラーレ神よ」
ルチアは最後の希望を込めて呼び掛けたが、ミラーレにはまるで響かなかった。交渉は完全に失敗していた。唇を噛み締め、こぶしを強く握った。それは悲しみや後悔による反応だったが、相反する感情を抑えるためのものでもあった。
「結界が解け始めている、兆しが、兆しが見える。我が神の思し召しに違いない。おお、我らが太陽よ、私こそ地上を平らかにして貴方様の勝利への道を作るもの……。魔神は打ち倒された、次は復讐の神を……。私は、行かねばならない、光の元へ、外に出るのだ、貴様を殺して」
興奮しているミラーレの発言はほとんど支離滅裂だったが、ミラーレ自身はそれに気づく様子はなく、狂気に浸る恍惚に全身を震わせるばかりだった。
現実を見ることを放棄したミラーレの口からは絶えず黒い魔力が流れ出し、確かな足取りで一歩一歩とルチアたちに近づき始めた。
「そう易々と殺される気はない」
ルチアは先ほどまでと打って変わって、ミラーレの覚えている昂ぶりと全く別種の興奮の乗る声色で言う。ミラーレは動きを止めた。
隠し切れない殺気がルチアの全身からあふれ出ていた。戦わずにこの場を収めたいという思いは紛れもなく本物だったが、それをあっけなく上回るほどの衝動が今にも体を突き動かそうとする。相対する神よりも矮小で、しかし戦うために生まれた体は、心も理性も置き去りにして、ひたすらに戦場を求め焦がれていた。
「復讐の神に羽虫の如くに殺され尽くした天使が何を言うか」
罵倒されてもルチアは不敵に微笑んだ。心臓が、かつて剣の形をしていた鋼が、迸る激情に応えて温度を上げた。
「だが、私は此処にいる」
体が黄金の光に包まれた。洞窟内は昼中のように明るく照らされ、驚いたミラーレがたたらを踏む。
光は全てを圧倒した。音でさえもその光の前に傅き静謐が満ち満ちた。この世で最も貴い黄金は世界の中心に在り、それは地上のさやけき小太陽だった。
体から放たれた光は心臓の真上に寄り集まり、黄金の光の円盤を形作った。そして、円盤の中央から黄金の剣の柄が出現した。ルチアは迷わず柄を掴んで引き抜いた。空を切り払うと、光の粒が零れ落ちて白銀の剣身が現れる。剣には傷一つなく、暗い洞窟にあって唯一光り輝く。
ルチアは剣身に映りこんだ自らの顔を見た。戦いに臨む悦びに満ち溢れた顔をしていた。
聖剣を見た瞬間、ミラーレはさらに一歩後ずさった。現実を拒むように長い首を振る。
「忌まわしい死の天使……! ああ、眷属であるその身で神を殺す冒涜者め、地上からもっとも早く消えるべきは、お前だったのに!」
「お褒めに預かり光栄だ」
ルチアはひるむことなく皮肉で答えた。
懐から蝶がひらりと抜け出した。蝶はルチアの髪を一つに結わえ、髪留めの代わりとなった。ルチアは小声で礼を言った。
ノイアがルチアの背中に触れて、服にかけられた防火魔術を強化した。
「気を付けて」
「君もな」
ミラーレがかっと口を開けた。喉の奥に真っ赤な炎が見えた瞬間、ルチアは地面を蹴って飛んでいた。ノイアもさっと身をひるがえして駆け出した。




