天使は迷宮の中_3
魔性撃退に沸く人々を横目に、二人は並んで歩いていた。
王都を歩いていた時よりも、ルチアの背筋はぴんと伸びている。フードで顔を隠していても、それは少しもルチアの自尊心を削りはしなかった。
「その服、役に立っているみたいだね。君の活躍を助けられてよかったよ。それにしても、昨夜は随分派手に戦ったんだね。もしかして聖剣は見つかってないのかな?」
ルチアは笑顔を硬直させ、ノイアを凝視した。
「ああ、心配しないで。俺とイレネウス大司教以外はこのことを知らない」
「心配って、なんで君が、それを知って……?」
魔性と対峙したときと同じか、それ以上に鼓動が速まっていた。動揺のあまり他の疑問がすべて吹き飛ぶほどの衝撃を受けていた。誰にも教えたことがない、物心ついたころから隠し続けてきた、ルチアの最大の秘密だった。
ルチアはそろそろとフードを掴んで前を閉じて顔を完全に覆い隠した。とてもではないが、顔を見せられなかった。
「君、最初から全部知ってたのかよ。全部、全部、何もかも見透かされてたなんて、どんな顔していいかわからないじゃないか」
「さっきまでの呑気な顔をしてくれればいいよ」
「呑気な顔なんてしていられるか!」
ルチアはフードの中で唸って威嚇したが、やがて手を離してがっくりと肩を落とした。
「そうさ。私は剣を持たない剣の天使だ、未だに聖剣が在処を知らない。人々の言う通り、私は役立たずで、だから無理やりにでも王都を出ようとなかなか思えなかったし、いざ魔性を撃退したはいいけど噴水壊しちゃったし……。君がいなかったら今頃私はどうなっていたか……」
剣の天使は、太陽神から賜った聖剣で神を天へ還すことができるとされていた。聖剣は、地上にある武器の中でほとんど唯一の神々への対抗手段となる武器だった。
しかし、ルチアは自身が持っているとされている剣を、一度も見たことがないのだった。
その事実を大司教イレネウスからは口外してはならないと幼いころから言いつけられてきたし、ルチアは理由も理解したうえで約束を守ってきた。
その隠された不都合な真実を、ノイアはあっさりと知っていると宣ったのだ。
「ノイア、もしかしてそれも大司教様から聞いたのか?」
「いいや、ただの推測。およそ地上最強と呼べる兵器を保有しているにはあまりにも自信がなさそうだったのと、もし持っていたなら俺の作った首輪如きすぐに破壊できるはずだと思ってね」
「信じられない、そんな……。って、私の話はもういい! こんな話をしている場合じゃないんだろう? 君の話を聞かせてくれよ。私の質問に一つも答えてないじゃないか」
ノイアは、そうだったね、と軽い調子で言ったが、すぐに笑顔が消えた。
「王都に危機が迫ってる、君の力を貸してほしい」
ノイアはミラーレ神の洞窟の結界が綻び、王都侵攻が見込まれていることをかいつまんで話した。話が終わる頃には、ルチアの中では完全に覚悟が決まっていた。
「わかった、戦おう」
二つ返事で了承すると、ノイアは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「わかってはいたけど、随分とあっさりと承諾してくれるね」
「当然だ、私は天使だ。神が人間に対して攻撃意思を示しているなら、私に選択の余地はない」
急にノイアが足を止めて、ルチアもつられて止めた。
ノイアは静かに言う。
「君が嫌だと言ったなら、一緒に逃げるつもりだったのに」
「……思ってもないことを言うんだな、君。もうフローライトの魔術師になったのに」
咎めるような声色だったことにルチア自身が驚いていた。慌てて言葉を続けた。
「と、とにかく私はミラーレ神と戦う。すぐにここを発つよ、宿から荷物を持ってくるまで待っていてくれ。少し遅くなるかもしれない」
「宿は遠いの?」
「いいや、遠くは無いんだが……。街並みを見る時間がほしいんだ、もう少しだけ。もしかしたら二度と旅に出られないかもしれないからさ」
そう言って、ルチアは踵を返した。
「待ってるね」
ノイアが後ろで言った。ルチアは振り向かず軽く手を振った。すでに手遅れだと分かっていても、これ以上弱みを見せたくなかった。
ルチアは宿で荷物を取ってから、もう一度街を見て回った。
街では天使を讃える歌があちこちで歌われ、昼間から酒宴が催されていた。天使を探す人々も多くいたが、誰もルチアには気づかなかった。楽しそうな人々の中に混ざれないことを残念に思いながら、噴水広場へと向かった。
遠回りをしてから戻ってくると、ノイアが噴水のそばで待っていた。瑠璃色のローブはよく目立っていて、遠くからでもはっきり見えた。瑠璃色は王族にのみ許される色で、彼の立場は明確に示されていた。
宮廷魔術師になったことに対して不満を覚えた自分を思い出して恥ずかしくなり、下唇を噛む。護衛はいらない、一人でいいと言っておきながら、護衛になったノイアと旅に出ることを少しでも考えていた自分の愚かしさが嫌になった。
ルチアは深呼吸して平静を取り戻してからノイアに声をかけた。
「待たせたな。それで、どうやってミラーレ神のいる洞窟へ行く?」
「洞窟に行くより先に一度王都へ戻ってきてほしいんだ」
「時間が惜しいのに?」
「ああ、そうだね。でも、魔術協会でかき集めている最中のミラーレ神の情報を少しでも頭に入れてから戦いに臨んだ方がいい。それに、君を待っている人がいる」
ルチアの頭にはフローライトの顔が浮かんでいた。王都を離れてから、フローライトのことはずっと頭の片隅にあった。
「わかった。君の尽力を無駄にするようで申し訳ないが、一度王都へ戻るとしよう。どうやって王都まで戻る?」
「隣町まで歩いて、魔術協会支部に行く。それが一番近いんだ」
「どういうことだ? 王都にたどり着いてないじゃないか」
「着いたら説明するよ、楽しみにしてて。じゃあ行こうか」
ノイアは意味深な笑みを浮かべただけで、詳しくは説明しなかった。
街を出たのは昼下がりのことだった。街道を、王都の方角へ向かって歩いた。
「ここまでの旅は楽しかった?」
「それはもちろん! 素晴らしい経験だったよ」
ルチアはうっとりと目を閉じて思い出に浸った。街道を進み城壁のない広大な風景を眺め、知らない町で多くの人々と話をして、食べたことのない料理の数々を味わった。
「何より嬉しかったのは、私が役立たずじゃないとわかったことだ。それと、手放しでは歓迎できないけど、私の力を求めている人がいることを確信できたことだ」
「それが君にとって一番嬉しいことなんだね」
「当然だろう、そうでなくてはどうして今まで生きてきたっていうんだ」
言って、ルチアはからからと笑った。そしてふっと笑みを消した。
「だが、聖剣だけは見つかっていない。外に出れば手がかりがあるかと思っていたが、それさえ見つけられなかった。短慮だったよ」
ルチアは空っぽの手を握ってため息を吐いた。あの時、魔性の核に手が届かなかった感触が残っていた。おそらく聖剣であればここであってここでない場所に切っ先が届くはずだった。
「聖剣がないまま戦うことになったら死ぬかもしれないが、時間稼ぎはできるだろう」
君もそう思うだろうと言おうとしたが、口をつぐんだ。ノイアの瞳に映る悲しい色を見て取ったからだ。ルチアは無理やりに話題を変えた。
「そ、そうだ。道中で君の話も聞いた。知り合った魔術師が、君のことを魔術の祖の再来と呼んでいた」
「ああ、君の耳にそういう話を入れたくなかったのに……」
ノイアは珍しく嫌そうな顔をしてみせた。まるで唾棄すべき名を聞いたかのように。
ルチアが魔性を追う途中で乗合馬車に乗った際、リンナという魔術師と一緒になった。彼女は北方出身で、同郷であり魔術式の開発者であるノイアについて熱心に語ってくれた。
「ほかに何を聞いた?」
ノイアが厳しい声で追及するが、ルチアはあいまいに微笑んだ。
彼女は、ノイアが魔術式を開発したことで、血筋や生まれ持った才能だけが物を言う魔術の世界を変えたと熱く語った。しかし、リンナはノイアに権力欲がないことを残念がってもいた。いずれは魔術師の頂点に立ち、旧態依然とした魔術界を変えてくれることを期待していたと。
なお、彼女の語りに一番熱がこもっていたのは魔術学校時代のノイアの人気についてで、とてもではないがノイア本人には話せそうもなかった。
「君が魔術を変えたってこととか、様々な魔道具の開発者だって話をね。つまり、あの時の君がまったく教えてくれなかったことだ」
ノイアはなおも胡乱な目をやめなかった。ルチアが他の話も聞いたことはお見通しなのだろう。
「へえ、それで君はどう思った? 俺を護衛にしなくてよかったとでも? 言っておくけど、生憎と権力には興味がなくてね、魔術に関しても人生をかける気はなかった」
それは聞く人が聞けば卒倒するか激昂してもおかしくない発言だった。
ノイアはこの話題について触れてほしくないのか、ぴったりと口を閉ざしてしまった。
「なあ、ノイア。君の話も聞かせてくれよ。君は王都で何をしてた?」
「面白い話は何もないよ」
「そんなことないだろう。こうしよう、私が自分のことを話した分だけ君も君自身の話をする。なあ、いいだろう?」
ルチアがぐいぐい迫るので、ノイアは困ったように微笑む。
「やけに食い下がるね? でも、本当のことだ。君に話して聞かせるような話は一つもないよ」
「そう言うなって。私と仲良くなる作戦はどうしたんだよ、急につれなくなるのはよせ」
ノイアは一瞬きょとんとして、それから歯を見せて笑った。ルチアはつい鋭い犬歯に目が吸い寄せられてしまった。なんだか悪いことをしている気分になって、慌てて視線を逸らす。
「思いのほか作戦が功を奏していたみたいで嬉しいよ」
「そうさ、今となっては悔しくもないが、君の作戦通りだ。私は君の焼いてくれたトルテの味を覚えているし、外套のポケットにこっそり入れてくれた干し無花果も大事に食べた」
ルチアはしばらく悩んだ末に、どうしても気がかりなことを尋ねた。
「……フローライトともそうやって仲良くなれたのか?」
ノイアがフローライトの寝室に侵入した晩のことを考えると、二人がうまくやっているところが想像できなかった。
「まさか。嫌われたままだよ。宮廷魔術師になったのも単なる命令だ。逆らえるものじゃない」
「……そうか。それで、彼女とは上手くやっていけそうか?」
ノイアはあいまいにほほ笑んだ。瞳は微塵も笑っておらず、さながら悪い冗談を聞いて白けたという様子である。
「そんなにも王女様のことが心配?」
「ああ、そうだ。あの時、私は突き放してしまったが、過ちだったと思う。あの子に謝りたいし、しっかりと話をしたい。同じ感情を返すことができないとしても……」
「それで君は納得のいく理由さえあれば首輪をつけたことを許すと? 何をされても人間を嫌いになれないのは天使の美徳とは呼べないな」
ルチアはついと顔を背け、首元を撫でさすった。もう過去のことであると言いたいが、ノイアは同意しかねるだろう。
「あれは、喧嘩のようなものだ」
ノイアはあきれたようにため息を零した。
隣町に到着すると、ノイアの案内で魔術協会支部に向かった。しかし、支部の建物には入らず、入り口の手前でノイアが足を止めた。
「あの台座が何か知ってる?」
ノイアは建物の入り口へと続く道の両脇に置かれた四つの黒い台座を指さした。
「いいや、知らない。だが、君の話から推察すると、あれが移動手段だな? 王都の外じゃ、人や物の移動は魔道具が手伝ってくれるんだろう?」
「素晴らしい回答だ。あれは転移魔術に使う台座だ、さあ乗って」
ルチアは導かれるまま台座の一つに乗り、続いてノイアも同じ台座に乗ってきた。
「本当に申し訳ないんだけど、転移魔術台は基本的に一人の移動用にしか作ってないんだ。すこしの間でいいから、俺の背中に手を回してもらっても?」
台座は二人で立つのがやっとの面積しかなかった。
何を謝っているのだろうと不思議に思いながら、ノイアの体に腕を回してぴったり密着する。
「……そ、そこまでくっつかなくてもいいよ」
「でも、この台狭いじゃないか、離れると落ちそうだ。やるならさっさと済ませよう」
ノイアは降参するように両手を上げていたが、やがてルチアの肩に手を置いた。
「これから王都に転移する。俺がいいって言うまで俺から離れないで」
ノイアが足先で台座の魔術式をなぞると、足元で魔力が廻り、転移魔術が発動した。
急に足元が消え去り、ルチアはとっさにノイアの背中に回した腕に力を込めた。悲鳴を上げる寸前でそれらは消え去り、足は地面に触れていた。
「着いたよ、離れて大丈夫」
ルチアはこわごわ転移台から降りた。部屋の窓からは大聖堂が見えていた。
「すごい、本当に移動している……!」
ルチアが感動の声を上げると、ノイアはどこか得意げな顔をした。
菫色のローブを纏った魔術師の男が転移室に駆け込んできて、ルチアの顔を見てぎょっとした後、ノイアの顔を見てにやっと笑った。
「よう、ノイア。まさか本当に天使と帰ってくるとは。それはさておき、お前が出て行った後に天使様がいないことがばれて、大司教やら執政官やらから文句の雨あられだ。しかもミラーレの話がどこからか漏れ始めている、王都が混乱に陥るのも時間の問題だ」
「それはそれは、では私の首は間一髪で繋がったようですね」
「ふざけたことを言っている場合か。おかげでこっちは大混乱に陥ってたんだぜ。王女様のところへ行ったらすぐに大聖堂に戻って二人で大司教に会いに行けよ。天使が帰還したことを大々的に知らしめてもらわにゃならん。それから、洞窟の結界は月の魔術師がどうにか持ち堪えさせてる。だが、もって三日だと報告があった。その間に対処できなければ王都はおしまいだ」
ルチアはノイアの方を向き直った。
「私をフローライトの下へ連れて行くのが君の宮廷魔術師としての仕事なのか?」
「うん、残念ながら。王女様は君に会いたいと仰せだ」
「わかった、時間が惜しいが、王宮へ向かうとしようか」
ルチアのじとっとした視線を受けると、ノイアは肩をすくめた。