黒曜石の魔術師、あるいは魔術の祖の再来_4
一人王宮に残ったノイアは、王女の部屋へと案内された。
フローライトはお茶を飲みながら待っていた。ノイアの姿を認めると、グレイ以外の召使いを下がらせた。
「ご用件は?」
ノイアが単刀直入に聞いた。グレイが小さく息を飲んだ、王族に対する不作法に驚きを隠せなかったのだ。
「不躾ね、挨拶さえしないなんて。牢に閉じ込められたいのかしら?」
フローライトは不機嫌そうに言った。気丈に振舞っていても、ノイアに対する恐怖を隠しきれてはいなかった。あの夜の出来事がフローライトの心に暗い影を落としていた。
「王宮には魔術師専用の牢があるんですよ」
グレイがこっそりとノイアに教えた。
「あなたなら牢を破れますか? でも無理か、魔力の流れをせき止める石でできた手錠があって、それを付けられると魔術が使えなくなっちゃうんですよ。怖いですよね……」
グレイはまだ話を続けようとしたが、フローライトに遮られた。
「静かにしてもらえるかしら、あなたは余計な話が多くていけないわ」
グレイは顔を真っ赤にし、体を縮こまらせた。フローライトは悩まし気な顔をしたが、そこに侮蔑の感情はなかった。
「貴方に礼儀を期待する気はないわ。話をしましょう、ノイア。こちらへ」
ノイアが椅子に座ると、グレイがティーポットを魔術で操作してお茶を注いだ。カップからは薔薇の香りがふわりと立ち上る。
冷ややかな声でフローライトは言った。
「ルチアを外に出したわね」
「天使様におあつらえ向きの危機をご用意されたというのに、邪魔をして誠に申し訳ないです」
フローライトの頬がさっと青ざめた。抜けるように白い肌から血の気が引くと、まるで陶器のようだった。
「……どうやったのかしら、首輪がなくたってあの子が外に出られるわけがなかったのに。月の魔術師も、魔術協会だって大司教の命で天使を監視していた。天使は生死を問わず有用ですもの。王都を出て行ったらすぐに気づかれるはずだった。でもまだ大ごとになっていない、大司教様だって気づいていないと聞くわ。そうでなくても行った先で騒がれないはずがない。だって、あの子は天使だもの」
「私はささやかな目くらましと錯視の魔術をかけただけです」
「魔術式というものかしら」
「ええ、よくご存じで。王都の魔術師はほとんどが古典魔術を専門としているので、現代魔術には対応しきれていないのです。想像力を四六時中働かせるのは人間には不可能です。そういった制約を受けない点が、現代魔術の優れた点ですね」
フローライトの後ろで控えているグレイが唇をつんと尖らせた。類まれなる想像力を持つ彼女は、かつて最高の魔術師の一人になるだろうと言われてきた。しかし、現代魔術の台頭によりそれは叶わなくなった。
「それが本題ではないでしょう?」
「ええ、そうよ。あなたを王宮魔術師に任命します、もちろん王女付きのね。当然、一介の魔術師に拒否権は認められないわ」
「急なお話ですね、私は天使様の護衛候補試験の最中です」
宮廷魔術師の任命にもノイアは全く驚かず、淡々と言うばかりだった。その様子にフローライトは苛立ちを募らせる。
「白々しい台詞を言うのはやめてもらえるかしら? 仕える存在がいなくなったのに護衛になれるはずがないわ、あなただって天使を捕まえられなかった間抜けな魔術師の一人に過ぎない」
フローライトは立ち上がって、グレイから鮮やかな瑠璃色のローブを受け取った。それは王族にのみ許される色であり、その所有物の証だった。
「さあ、立ちなさい、ノイア・オブシウス。指名手配犯になって、神だけでなく人からも追われる立場にはなりたくないでしょう」
「でっちあげるなら罪状は何です?」
「王女に夜這いした罪ではいかが?」
「慎んで拝命いたします」
ノイアはフローライトの前に跪いてローブを受け取った。
「それで、私に何をさせたいのでしょう?」
ノイアは無造作にローブを羽織った。背中に縫われた百合の紋章の刺繍が虹色にきらめく。
フローライトはノイアを支配下に置いてなお緊張した面持ちのままだった。
「ルチアを連れ戻して」
「おや、難しいご要望ですね。生憎ですが、どこにいるのか存じ上げません」
「それが世界一の魔術師の返事なの?」
「詐欺師の触れ込みを真に受けているようではいけませんよ」
どうなのかしら、とフローライトがグレイに水を向ける。グレイが忌々しそうに言う。
「魔術の全く新しい分野を開拓したという点で彼に勝る者はありません。それに、考えなしで天使様を外に出すような迂闊な人とも思えません」
「同意見ね」
フローライトがノイアのローブを掴んで引き寄せ、ノイアの耳元でささやいた。
「あなたがルチアとの繋がりを簡単に手放せるわけないわ。どれだけ嘯いたって無駄よ。あの子の心が欲しいんでしょう。在りもしないものなど、手に入れられる筈もないのに。私の前で良い人ぶらないで、本当は天使の隣に立つことさえ憚られるような邪悪な心を持っている癖に」
フローライトはノイアを突き飛ばしたが、ノイアは少しもよろめかなかった。
「ルチアを連れ戻したら宮廷魔術師から解任してあげる、あなたに求めるのはそれだけよ」
「ありがとうございます、王女様。くれぐれも約束を破られぬように願います」
ノイアの刃のように鋭い視線を向けられたフローライトは、さっとグレイの後ろに隠れた。
「ただし、できなかったら一生こき使ってあげる、魔術だって使わせない」
「左様でございますか。では念のため庭師の職を希望しておきます、薔薇園の手入れをさせていただきたく存じますので」
「減らず口ばかり! おしゃべりはもうたくさん、早く行って」
フローライトはしっしっと手を振ってノイアを追い払おうとするが、ノイアはまだその場を動かなかった。
「最後に一つ伺っても? 洞窟の結界にはどうやって亀裂を入れたのですか?」
ノイアが断定的に言った。フローライトはもはや驚かず、不敵な笑みを作った。
「あの結界は、三つの石によって作られていたの。二つは洞窟の入り口に、そしてもう一つは影の責務を負う王の末子に」
フローライトはドレスの下からネックレスを引っ張り出すと、ノイアに見えるように掲げた。爪一つ分の大きさの水晶のペンダントがついている。水晶には蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。
「月の神の加護は常に王の第一子にだけのもの。他の子は影と穢れを背負って生きていくの。ミラーレのことも私の責務の一つに過ぎない。私は生涯自由を得られない、ルチアと違って」
吐き捨てるようにフローライトは言って、ペンダントから手を離した。胸元で揺れる水晶は今にも砕け散りそうだった。
「左様ですか」
温度のない声でノイアは言って、王女の部屋を後にした。
瑠璃色のローブを羽織ったノイアは、王宮中の視線を独占した。宮廷魔術師はノイアを除いて三名しかおらず、鮮やかな青い色は目立つことこの上なかった。
「フローライト様のされたこと、怒っていますか?」
ノイアを王宮の外まで見送るよう言いつけられたグレイがこわごわと言った。
「いいえ、怒る資格がありませんので」
「へえ、怒りに資格の有無とか必要とするなんて、面倒な人ですね」
グレイはにこやかに言ってから自らの発言を省みて、すみませんと消え入るように言った。
「こんな話がしたいんじゃないのに、脱線して失礼なこと言ってしまって……。私の話はともかく、今のフローライト様の心の支えは天使様ただおひとりなんです、だから危険な真似をしてでも帰ってきてほしいと願われているのです」
「そのためには人々が犠牲になってもいいとお考えなのですね」
「人々で一括りにするなんて本当に無礼ですね。王族の命と市井の人々の命の重みはまるで違うじゃありませんか」
グレイは当然のように言った。身分に関係なく命を平等に見ているのは、神々かルチアくらいのものだった。
「しかし、神を唆し王都へ襲撃をさせるなど、王国に対する反逆に等しい行いでは?」
ノイアの問いに、グレイは不敵でいてぞっとするような諦めのにじむ瞳で答えた。
「全くその通りです。フローライト様は国王陛下を試しておられるのです。悪逆がどこまで許されるのか、可愛い娘と王国の民の平和と命を天秤にかけて、自らへの愛を知りたがっている。陛下はフローライト様の行いを咎められたことがないのです。生まれてすぐに王妃様が亡くなって、母親のいないフローライト様を哀れんでのことでしたが、徐々に恐怖によるものへと変わりました」
「そして、ついには王国を転覆させかねない行いをし始めた、と。殿下が命を狙われたのも、それが原因ですか?」
「さあ、まだ首謀者は捕まっていませんから何とも言えません、現在も捜査中です。実行犯は取り囲まれた際に自死してしまって、何も聞き出せなかったそうです」
グレイは唇を噛んで虚空を睨み始めた。肝心な時に現場に居合わせずフローライトを守れなかった自分を責めていた。
そんなグレイを見つめながらも、ノイアは全く関心を示さずに話題を変えた。
「もし天使様が王都へ戻られた暁には、フローライト様はどうされるのです?」
グレイは一瞬だけむっと口を結んだが、すぐにノイアに人並の同情を期待するのは無理だと諦めた。何しろ石の男と呼ばれるほどである。
「そこまでは私も聞いていません。どこにも行かず側で守ってほしいとお考えなのでは?」
グレイはすうっと目を細めた。彼女の周囲の空気が魔力をはらんでばちばちと音を鳴らす。
「あなたは反対しますよね、それこそ王女様に盾突いてでも阻止しようとしますよね?」
「……なぜそんな質問を?」
「なぜって、そうなった時には私が相手になるからですよ」
薄い色の唇の間から白い歯が覗く。抑えきれない興奮がその頬を上気させると、神の加護の証である入れ墨が浮かび上がる。古典魔術師の頂点に立つ女は、これまで隠して生きてきた闘争心を全身から溢れさせていた。
「一度、戦ってみたかったんです。魔術の祖の再来と呼ばれたあなたと。もしもその時が来たら、ぜひ相手になってくださいね」
グレイはにこやかにノイアを見送った。
ノイアが魔術協会本部に戻ったときには、協会の魔術師たちはノイアが宮廷魔術師になったことを知っていた。
「あなたって本当に忙しい人ね、それで王女様に何を言われたの? 結界石が壊れた原因とか話していなかった? というか作戦には参加するのよね?」
本部に戻ってきたノイアに対し、ブラウが矢継ぎ早に言った。その後ろにいたフォイルやアマレットは笑いをこらえていた。
「ご心配には及びません。お遣いが終われば職を解かれます。魔術師を辞する気はなくなっていませんし、防衛作戦にも参加します。結界が壊れた理由についてはご存じないようでした」
「そう……。ところでお遣いって?」
「天使を連れ戻せと」
「できるのね?」
「ええ、おおよその居場所は調べられます」
ノイアが淡々と言うので、ブラウが目を瞬いた。
「あなた、会議の時にはそんなことおくびにも出さなかったのに。聞かれてないことは全然言う気がないのね、王都の危機だっていうのにひどい男」
ブラウは同意を求めるようにフォイルたちを見遣ったが、思い当たる節があるのかフォイルは顔を背けて誤魔化した。
「ノイア、貴方に天使様へ会議室で見聞きしたことを伝える許可を与えます。それから、天使様が戻ってこられるようなら魔術協会はその支援をする用意があると伝えてもらえるかしら」
「承知いたしました。ところで、転移盤を使用したいのですが、案内していただけませんか?」
ノイアはブラウとフォイルに連れられ、転移盤の置かれた部屋に案内された。部屋には誰もおらず、転移盤がある他に待ち合わせ用の座椅子が置かれているだけで、がらんとしていた。
「にしても、自分で手引きして外に出したのに、連れ出すのも自分とは、因果なもんだな。嫌にならんのか?」
「いえ、思いの外すぐあの子に会いに行く口実ができて良かったです」
フォイルは冗談半分だと思ったのか豪快に笑った。それから転移盤を顎で示して言った。
「あんた転移魔術も作ったんだろ、ついでに魔術式が壊れてないか見てくれよ。俺を含めここの連中は魔術式はからっきしでね」
「わかりました。転移盤はあまり使用されていない様子ですね」
転移盤は円筒型の台座だった。巨大な黒色大理石でできており、側面には渦巻き模様に似た魔術式がびっしりと刻まれていた。魔術に明るくないものが見ればそれは神の像を置くための荘厳な台座にしか見えないであろうそれは、人や物を上に乗せて遠方にある別の盤の上へと転移させる魔道具だった。
「仕方ねえだろう、よくわからないものは怖いのさ。魔術師にとって恐怖心は大敵さ、自らの想像で死にたくねえからな」
「何も考える必要はありませんよ、ただ手順に則ればいい。諸神への供儀よりよほど簡単ですよ」
神々から恩恵を得るためには、人間は供物を用意し厳格な手順に則り儀式を行わなくてはならない。しかし、好みの供物や儀式の方法は神によって違うため手間暇がかかり、一度でも手順を間違えれば初めからやり直さなくてはいけなかった。その上、儀式を行っても神々の気紛れによって一定の結果を得られる保証がなかった。
一方で、魔道具は神々の気紛れに左右されることもなく、魔力さえあって手順を踏めば必ず一定の成果を得ることができた。
ノイアは点検を終えて立ち上がった。魔術式の彫刻に破損はなく、問題なく機能しており、魔力の流れにも問題はなかった。
「なぜ天使の護衛に志願したんだ?」
「護衛になりたかったからです」
「答えになってねえだろう」
「それ以上でもそれ以下でもないということです。隣にいる口実としては悪くない」
フォイルは腕を組み、ノイアをじっと見つめた。ブラウもまたノイアの発言の真意を見極めるように視線を注いでいた。
「天使など、太陽の神の命令に従い続ける人形みたいなもんだろうが。おまえは現代魔術を作ったおかげで一生食うには困らん、死ぬまで働く必要さえない。そうでなくても宮廷魔術師にもなり、ゆくゆくは魔術協会長、いやもっと高い地位にまで上り詰められるはずだ」
ブラウはフォイルの脇腹を肘でつついて無言の抗議を示した。
「協会長の地位を馬鹿にしている訳じゃ……。ともかく、お前が魔術を捨ててまで天使に固執する理由は何だ?」
フォイルは誰もが抱いている質問をぶつけた。ノイアはわずかに感情の乗った声で答えた。
「あの子のそばに居られるなら、他には何もいりません」
ノイアはそれ以上説明しなかった。誰も信じなくとも、その言葉が全てだった。ノイアは誰の理解も求めていなかった。ルチアの心さえも求めていなかった。
天使に会うことを夢見て生きてきた。魔術式や魔道具の開発は、そもそも手段に過ぎなかった。天使は人間の悲しみを我が事にしてしまう生き物だ。ゆえに、諸神に頼らずとも人々が豊かに暮らしていけるよう変革をもたらし、世界から不要な悲しみを減らそうとしてきた。
そして、あの日、地上に独りきりの天使に出会った。天使は思っていた通りの、いや、それ以上のヒトだった。空を見つめるさみしそうな横顔に、危険を顧みなかったあの背中に、命の使い道を見た。
ノイアは台座の上に立ち、転移魔術を起動させた。それから、まるで気のない挨拶をした。
「行ってまいります。お話の続きはいずれまた」
フォイルとブラウはノイアの姿が盤上から消失するまで見届けていたが、その顔には不満の色がありありと浮かんでいた。