天使は屋根の上_1
街道を行き交う人々や馬車を、王都を囲む城壁の上から眺める者があった。風になびく長い髪も、大きな瞳も、まばゆいほどの金色をした天使だった。
天使は、高く澄んだ空をぼうっと眺めていた。
空の向こうには、蒼穹世界と呼ばれる天の国があると言われていた。そこには天使の主人であり父である太陽の神や、役目を終えた神々や天使がいる。
手を伸ばしても届かない世界に思いを馳せると、思わずため息が零れた。視線を落とし、街道へと目を向ける。行き交う人々や馬車を見ていても、またため息を零しそうだった。
天使は城壁の縁に足を掛けると、鼓動が速まるのを感じた。城壁の向こう側、王都の外へ行こうとするなら、落下するだけで事足りた。だが、足がすくんでいた。それは着地の衝撃に耐えられないからではなかった。
「こんにちは」
柔らかな声で話しかけられ、目を見開いて振り向く。そこにはいつの間にか黒いローブに身を包んだ男が立っていた。濡れたような艶のある黒い髪に、透き通った黒い瞳を持つ男だった。
「護衛候補との追いかけっこの最中だと聞いて見に来たけど、もう終わったのかな?」
天使は顔をしかめた。男の口調は終始穏やかだったが、天使の方はそうではいられなかった。皮肉っぽく聞こえた言葉に、苛立つのを止められなかった。
「君は誰だ?」
「ご推測の通り魔術師で、新しい君の護衛候補だ。ノイア・オブシウス、どうぞよろしく」
男の名前が事前に聞いていたものと一致して、ようやく少しだけ警戒を解く。
ルチアが事前に知っているのは、彼の名前と、北方の魔術師であること、以上だ。彼は三十一番目の候補者に過ぎず、詳しいことを知る必要はなかった。
「明後日来ると聞いていたが、早く着いたんだな。でも、よろしくとは言えない。頑張ってくれとだけ言っておこう」
「君から名乗ってもらえるくらいには努力するよ」
「……名乗らなくても私のことは知っているだろう」
天使が乾いた声で言うと、ノイアは当然とばかりにうなずいた。
「太陽神の眷属、地上に残った最後の一羽、剣の天使のルチア。棘ある薔薇の君。大司教イレネウスが後見人で、大聖堂の敷地内にある居館で慎ましく暮らしている。歳は十六で、五歳の時に王都に来て以来、一度も王都から出たことがない。巷では大聖堂による天使の独占を非難する声も大きく、そんな王都内外の不満の高まりを受けてか、大司教が天使に魔術師の護衛をつけると決め、天使を王都の外へ出す姿勢を見せた。しかし、天使本人はこれを拒否し、日々護衛候補たちと王都を舞台に追いかけっこを繰り広げていて……」
ルチアに睨まれると、ノイアは淀みない説明をやめ、肩をすくめた。
「天使について詳しいらしいな。だったらもう十分だろう」
踵を返すと、その背中にノイアが言う。
「もっと君のことを教えてもらえないの?」
ルチアは無視した。怒りを煽ろうとする見え透いた誘いだと思った。すっかり心がすさんでいるルチアは、他人を信用しないのが癖になっていた。
「勝負の決まりは知っているな? 君に与えられるのは五日間。王都内で追いかけっこをして、私を捕まえられたら君は私の護衛になれる。期限内に降参するなら、大司教様に伝えてくれ」
ルチアは城壁の縁に足をかけた。三十番目の護衛候補の気配がようやく近づいてきていた。もっとも、彼女はルチアのいる城壁の上までは、階段を使わないと上ってこられない。
「まだ今の候補との勝負が続いているんだ、ここで見学しているといい」
ひらりと手を振ると、城壁の縁から一歩踏み出して、壁の向こう側へと落下した。全身に風を受け、軽やかに王都側の地面に降り立ち、城壁の上を見る。そこにはまだノイアがいて、波紋一つない水面のように静かな瞳でこちらを見つめていた。黒曜石の瞳の中に見えるのは、儚い希望の光ではなく力強い確信だった。
護衛候補はノイアで三十一人目だったが、彼のように自信と確信に満ちた魔術師がやってきたのはこれが初めてだった。
ルチアは眼差しを振り切るように走り出した。
ノイアは階段も使用せずに三階建ての建物より高い城壁に登り、ルチアに気配を悟られないように近づいてきたのだ。おそらくは魔術によって。どれもこれまでの護衛候補にはできなかった芸当だ。予感は忍び寄る影のようで、やすやすと振り払うことはできなかった。
「天使様!」
後方から苦しそうな声で呼ばれ、ルチアはちらりと後ろを見遣った。護衛候補の魔術師であるプラムが、苦悶の表情を浮かべ長い髪を振り乱しながらルチアのずっと後ろを走っていた。
ルチアは人の多い通りに入る直前に、軽く踏み込んで飛んだ。二階建ての家の屋根に着地して周囲をさっと確認したが、プラムの使い魔である子猫の姿は見当たらなかった。
「どうした、今日は一人か? ああ、もしかして使い魔を使役する魔力も残っていないのか?」
ルチアは大声を張り上げた。言い終わってからも、胸が嫌な拍の打ち方をしていた。精一杯嫌な性格を演じていても、意図的に人の神経を逆なでする物言いはいつまでも慣れない。
プラムが家の下まで来るのを待って、ルチアは再び逃げだした。屋根から屋根へ飛び、大通りさえも上空を軽く飛んで横切っていく。時々プラムが飛ばしてくる網を、見もせずに躱した。勝負も四日目となれば、候補の手の内はわかっている。
魔術師は自らの想像力を駆使して魔術を操り、世界を上書きする。だが、彼らはほとんど決まりきった形を作り出して魔力を節約する傾向があると、多くの勝負の中で知った。とっさに何かを想像するのは難しいのと、現実味の無い想像を世界に上書きするのは労力がかかるというのが理由のようだ。
魔力を節約したがるのも無理はなかった。天使の力は大地をも割り、その速さは風を超えると言われる。魔術師は、魔力を有しているのを別にすれば、常人の肉体と差がない。圧倒的に肉体面で不利であり、それを勝負の最中は補い続けなければルチアに追いつくことは不可能なのだから。
ルチアは何にも邪魔されず全身で風を感じてひたすらに走っていく。この時だけは鬱屈した気分を忘れることができた。旅に出られず責務を果たせない焦燥も、遠く後方へ置き去りにして。
古い塔へと駆けのぼり、頂上からプラムを探すが、彼女の姿はなかった。プラムは屋根の上まで上ってこられないどころか、ルチアの後を追うこともできなくなったようだ。気づけば何も飛んできていない。
ルチアは嫌な予感がして、最後にプラムの姿を見た場所まで戻った。
プラムは人通りのまばらな道でしゃがみこんで、小刻みに震えていた。道行く人々も、あえて彼女に声をかけない。天使と魔術師の勝負の邪魔も手助けもしない、それが王都の人々の暗黙の了解になっていた。
「おい、君。大丈夫か?」
罠だった場合を警戒して、ルチアは屋根の上から声をかけた。
「大丈夫じゃありません! 降参します!」
涙声でプラムは叫んで、勢いよく立ち上がった。
ルチアは地面に降り立つと、顔を真っ赤にして涙を流すプラムと向かい合った。
「故郷へ帰ります。とてもではありませんが、私では天使様を捕まえられそうにないから……」
つい慰めの言葉が出そうになって、ルチアは慌てて飲み込んだ。
プラムは踵を返して歩いて行ってしまう。別れの言葉も言わず、自らの力が足りなかったと悲しみに暮れる背中。王都に来たばかりの彼女は希望に満ち溢れた表情をしていたのに、それを失わせたのは他ならぬルチアだった。
プラムの姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。これで良かったのだと自分に言い聞かせながら。
ルチアは剣の天使で、人々に害をなす悪い神々と戦うために生まれた。その護衛になるならば、共に旅に出るならば、当然、戦場へ共に赴くことになる。か弱い人間がそれに耐えられるはずがない。ましてやルチアとの勝負に勝てないのなら、尚のこと連れていくことはできない。
ルチアは今日一番のため息をついて、「帰ろう……」とだけ言った。
ルチアが悄然と歩くのを、王都の人々が心配そうな目で見てくる。
王都は人と物がすべて集まっていると言っても過言ではない都であるので、通りは常に人の往来が激しい。王都の民、観光客、商人、巡礼者といった人々が道を行く。誰一人として天使の存在を知らない者はいないし、世界に唯一無二の金の髪と瞳が否が応でも人目を引いてしまう。
ルチアはだんだんと居た堪れなくなって、再び屋根の上へと飛んだ。屋根から屋根へと渡り歩き、人々の視線から逃げ出した。
普段も、出歩く時はたいてい屋根の上を歩いていた、地面から離れている方が不思議と落ち着くのだ。それから、上から人々の営みを俯瞰するのも好きだった。
王都へ観光に来たと思しき少年が、屋根の上を歩いているルチアに気づくと、笑顔を浮かべて手を振ってきた。ルチアも笑顔で手を振り返した。たったそれだけで、ルチアの心は安らいだ。