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泥中の蝲蛄  作者: 七つ味
1/1

嵐山

 見わたす限りジジイとババア、どいつもこいつも歳をとっていやがる。口から騒音を吐く。やれ腰の具合いが悪いだの、やれ週末の旅行は嵐山だのくだらない。かと思えば金と女のあれこれを大声で話すバブルの生き残りども。まとめてくたばってしまえ。

「倉木さん、嵐山ってどのあたりですか?」

 畳んだ台ふきでこぼれたドレッシングを拭いていた同僚の渡辺佳奈子が、モルタルの丸テーブルを挟んだところからおれに尋ねる。その時おれは茶葉が底に溜まった湯飲みを、ダイソーで買ったプラスチックのバスケットにひとつひとつ詰めていた。ダイニングルームはやや歪んだ長方形の吹き抜けで、そこでは昼食をすませた利用者たちがカウンター風のテーブルを囲んで週末の予定を詰めている。

「京都の西の方」

 午後1時を過ぎ、未だ昼食を食べられずにいるおれは「そんなことより手を動かせよ」と咎めたが、彼女はそれを聞き入れる気はないようだ。

「西ってことは、左手ですか?」

「なべがどっち見て立ってるかによるよ」

「それもそうですねえ。出身は京都でしたっけ」

 彼女は舌足らずな、女性にしてはやや低い声で、昭和のバラード歌手を連想させる。年齢はおれよりも三つ下だが、この職場では同期だ。

「大阪の北の辺り」

「そういえば、何で関西弁じゃないんですか?」

「こっち来てもう随分だからね。それになべの前だとたまに出てるよ」

 そのどうでもいい世間話を遮るように中庭で悲鳴が聞こえた。彼女にもその声は聞こえたようで、首を声のした方へ向けて口をぽかんと開けたまま、「えっ、えっ。何ですか」と慌てている。

「ちょっと行ってくるから、そっちの机も片しといてな」

 俺はスニーカーの踵を踏みながら小走りで中庭へ出る。形よく剪定された生垣に囲まれた中庭はだいたいテニスコートほどの広さで、中央に木造の東屋があり、そこに三人の女性が何かを避けるようにうずくまっている。竹中、林、山内。三人ともここでは古株の女性たちだ。昼食後に連れだって外の空気でも吸いに行っていたのだろう。中庭は湿っぽいながらも涼しい風が吹いている。

「何があったんですか?」

「蜂よ。危ないから!」

 その中の一人、恰幅がよく派手目の婦人服を着ている女性が振り向いて、こちらを制止するよう声をあげた。慌てて地面に伏せる。手をついた先の芝生は生暖かくもすっかり退色していて、手のひらで押せば崩れる感触がした。雨が上がって間もない芝生の上を膝を濡らしながら進み、彼女たちに近づいて周囲を見回した。

「竹中さん」

 先ほど声をあげた恰幅のいい女性を呼ぶと必死な形相でこちらを振り向いた。このまま彼女たちを屋内へと向かわせるのがいいだろう。

「今のうちに、そのままゆっくり玄関へ」

「わかったわ」

 竹中婦人は神妙な顔で頷いた後、二人の手を取り、潜んで屋内に向かう。大げさだが本当に助かる。なにせ彼女たちは、このサンライズ皐月という終の住居に毎月何十万もの大金を払っている大切な入居者なのだ。それが庭先で蜂に刺されるなんてことがあれば、おれだってその責任を取らされるかもしれない。たまったものじゃない。


 彼女たちがガラス張りのエントランスに消えてから、おれは職員のシフト表を思い出す。午前中はなべと西ヶ谷さん、それとおれの三人体制だったはずだ。

 ここサンライズ皐月は高齢者向けの集合住宅で、おれは数年前から、いわゆるコンシェルジュとして働いている。コンシェルジュといっても施設の管理に付随する業務であればおおよそすべて、例えば共有スペースの清掃や備品補充から市街までの送迎、はては庭の草刈りまで行う。介護福祉士の資格を持ったスタッフもいるが、この施設ではあくまで生活支援サービスを含んだ賃貸住宅の運営、管理を行っている。一般にサ高住と呼ばれるものだ。

 なぜこんな辺鄙な場所に住みたがるのだろうかと疑問に思ったことがある。利用者は大抵、何十年も住み慣れた場所から移り住んでくる。今までの生活との区切りをつけるために分かりやすく物理的な距離を必要とするのだろうか。

 わざわざ大金まで支払って。

 五万円の異動手当目当てにやってきたおれとは対照的だ。そう思いながら彼女たちの脱ぎ捨てた靴をそれぞれの鍵付きの靴箱にしまった。季節遅れの台風が近づいていて湿気がひどい。換気のため開けていたエントランスのドアはこのまま開けっ放しという訳にはいかないだろうから、閉め切ってその場を離れる。

 ダイニングに向かうと食後の清掃を終えたなべが職員用のバックヤードに戻るところだった。リノリウムを張った低座の椅子に腰かけながら声をかけると、彼女は足を止め、おれの向かいに座った。

「お疲れ。蜂が出たらしい。刺されなかったのは幸いだけどね」

「やっつけたんですか?」

「おれのことなんやと思ってん。テレビでやっとる駆除業者のおっさんか」

「素手で捕まえとるん見ました」

「あんなんテレビ出るから張り切りすぎて無茶やりよるねん」

「竹中さんら、すっごい褒めてましたよ。冷静じゃけ、ほんと頼りになるって」

「もっとみんなおれに感謝するべきやと常づね思っててん」

 

「来週にねえ、駅横のコンサートホールで知り合いが演奏会を開くのよ。彼女はヴァイオリニストなんだけど。倉木さんもどう?チケットを取るのに融通が利くからね。有名な人よ。ドイツの音楽学校を出ているの」

「音楽はあんまり。長い間、座ってるのも苦手ですから」

 ナベは興味を示していて、「おいくらぐらいします?」と。それを横目にバックヤードへ向かう。そういえば昼飯を食いそびれていたのだ。タイムカードを切ると、なべも遅れてやってくる。

彼女は青いポロシャツを脱いで、黒い肌着の上に、ロッカーのハンガーに掛けてあったジーンズ生地のジャケットを手に取り羽織る。

「今日はもうあがりか?」 

「この後、お母さんと梨を買いに行くんです」

 そういえば去年のこの時期、なべに差し入れてもらったことがあった気がする。気がするというのは、同僚たちはしょっちゅう差し入れを持ち寄るので、あのレジ袋に入った梨をもってきたのが彼女であったか記憶が確かでないからだった。品種に詳しくはないが、瑞々しくて、甘く、大ぶりだった。ここからさらに山間に入ったあたりで、梨農園がちらほらあったのを見た気がした。


 丈の短いダウンジャケットを着こみスズキのオートバイ『GSX250E』にまたがる。サイドミラーに引っ掛けたフルフェイスのヘルメットを被ると、右手でハンドルの手元にあるスタータースイッチを押し込みエンジンをかける。金属がこすれるような音と、一度だけビリヤードのボールがポケットに転がり落ちるようなわずかな振動が起こり、後は小気味良くて断続的なエンジンの音が人気のない駐車場に響いた。

 周りに広がる殺風景な景色と不似合いな西洋風の門を抜け、サンライズ皐月の敷地兼私道を下ると街の方から続く県道に合流する。おれは家路とは逆、山間部の方向に曲がる。

 M町の市街は港から山の裾を縫うように広がっている。人口は10万に満たず、四方に連峰と呼ぶに足らない山々と東西には国道バイパスが横たわっている。昔日の経済的興隆から時間をかけて朽ちていった商店街とだだっ広いだけの工業地帯、そこから分岐したいくつかの県道、そんな網目状に伸びる道々に並ぶ二階建ての一軒家と手の入っていない荒れた田畑、ときどき土蔵の見える住宅地をさらに山間部へ進んだ先の峠道沿いにサンライズ皐月はある。周囲に人の暮らしといえば古いつくりの家屋がいくつかと建設会社の管理する土石所があるのみで、日が落ちれば街灯の少なさからそれがはっきりとわかる。

 安全運転を呼びかける仰々しいフォントの立て看板は塗装が剥げて、蔦やら高木に覆われてしまっており、その腐食した部分をハロゲンの黄色いヘッドライトが照らせば鈍く反射する。そのライトの反射の中をすり抜けるたびに、その看板がフェンスごとこちらに倒れてくるのではないかと不安になる。センターラインが白から黄色になった。この辺りから登り坂の傾斜がきつく、不規則なカーブが連続する本格的な峠路へと変わるのだ。

 流線型のシートの後方に腰をずらし、タンクにうつぶせになり、風の抵抗が僅かに和らいだのを両肩で感じてアクセルを大きく開く。エンジン内部では絶え間なく爆発が繰り返されている。車体が捲り上がるほどの勢いで前進する。スピードが上がるにつれて車体は慣性によって安定していき、次第にタイヤが接する路面に吸い付くような感覚が生まれていく。

 特にこの区間は数年前の豪雨による土砂崩れによって崩落した経緯があるため、路面の舗装が新しい。道に継ぎ目が少ないから一度スピードを出せば同じ感覚のまま走り続けることができる。バイクのタイヤは常にごく限られた面積で路面と接触する。だから路面の凸凹が指先で触れているように分かる、と思う。

 日焼けしてほとんど真っ白になった速度標識が後方へと吸い込まれていくのが見えた。区間の法定速度を大幅に超過しながら、傾斜のきついカーブを昇る。このT峠は極端に交通量が少ない。街から県北部へ向かう道は複数あり、数年前に完成したバイパスがその役割のほとんどを担っていた。この道を利用するのは道沿いにある集落の住人ぐらいで、明け方の時間帯は一時間に一台ほどの交通量しかない。地元の人間たちからは、「T峠の旧道」や単なる「旧道」と呼ばれている。その名の通り低木が平気で歩道を食いつぶし、折れ曲がったガードレールがそのままの形で放置されている。おれは道の斜方、のっぺりとした盛り土に対向車のライトが反射していないことを確かめてギアを3速に落とし、再び車体を傾けコーナーに突入する。蛇行する道に沿うように体重を左右に動かす。

 突発的に現れる傾斜のあるカーブも、無意識に体が反応して、常にスピードを維持し続けていく。

 アルミと合金でできた車体は熱と鉄の理屈で動いている。圧縮されたエンジンルームでガソリンを爆発させ、そのエネルギーでピストンが上下し、その上下運動はクランクシャフトと呼ばれる歯車で回転運動へと変化する。シンプルな仕組みだが、これが一秒間に何十も繰り返されることにより、タイヤが回り、この金属の車体を動かすことができる。だからバイクには生き物のような挙動の余白がない。走るために燃料を燃やし続け、開いたアクセルの分だけ爆発し、速度を上げる。走ること、止まること、そして人を乗せること。それだけを考慮し、そこで生まれるボディの曲線や剥き出しのエンジンの無骨さは確かに機能美と呼べるのかもしれない。  

 だが自分にとって必要なのは美や様式ではなく、ただ速く走るということだった。それ以外は必要ない。それもレーサーに憧れるようなモータースポーツ紛いのそれでなく、暴走と呼ぶような類の安価な速さだった。おれの跨っているこのバイク、これはずいぶんな型落ちで、いくらかマシな状態のものを30万で購入したのだ。タイヤだけは値が張る正規品だが、あとは廉価な中華製でガタのきている部分を補修した。

 メーターは時速60キロメートルを中心にして左右に振れている。

 この行為は、今頃サンライズ皐月の社員寮で同僚たちが、安いアルコールの効能を借りてしていることとよく似ていると思う。もしくは毎日の自慰とも近い。中古のバイクを走らせて得られる安っぽい陶酔と興奮は繰り返すことで一種の安心感を覚えるようになる。そういう風にも言えるし、ただ何度も繰り返すうちに自然と習慣になっただけかもしれない。おれは自分の行動を理屈立てて考えるのが嫌いだし、人に聞かれることもないのだからそんなものでいい。深く考えればそのメカニズムを明らかにできるかもしれないが、どのみちおれはこの習慣をやめるつもりがないのだから無意味なだけだ。

 山を貫いたトンネルに入ると、コンクリートの壁面から染み出した水気で肌寒く感じる。

胸にぶつかる生ぬるい空気は粘性を持つ。爽快という訳ではなく、スピードによる慣性と風圧に押さえつけられて息苦しく、過ぎていく景色はスロウになって、用水路の底の体積する泥の中へ潜り込んだように感じる。石を砕くようなエンジン音の反響は過敏なおれの聴覚をぐちゃぐちゃにして、でも不思議とそれはベッドの中よりもいくらか静かに感じる。四方に散った意識が、おれの意思を超えて過剰に思考する脳が、余裕をなくして萎んでいく。空気の抜けた風船のように濡れた路面へと落ちていく。

 山頂に近づくとUターンして、先ほどとは対称の道のりを下る。下りは上りよりも幾分かブレーキに神経を使う。車体の自重だけでもかなりのスピードが出るのだから、メーターひと目盛り分のオーバースピードがコーナーではとてつもない負荷に変わり、曲がり切れなければ左手に見える砂防の壁面に衝突するか、右手の暗い谷底に転落する。上りがマシンの馬力とアクセルによる加速を必要とするように、下りは乗り手の技量とブレーキ性能に依るところが大きい。冴えた身体の感覚だけ、反射的に操縦を行う。意識と身体が切り離され、コマ送りの映像を見ているようだ。

 このままより長く続けと求めると、トンネル前の直線で路面の凹凸によって車体が浮き、車輪が空を切った。ハンドルが左右に何度も振れるが、アクセルを緩めてバランスを保つと激しい挙動は次第に収まった。

 車道の真ん中で完全に停止し、おれはしゃっくりをするように大きく息を吸い込む。「なにビビっとんねん」今起きたトラブルに体が恐怖を感じて縮こまる前に、再びアクセルを全開にして走り出す。雪の降らないこの街に越してきて3年、おれは同じ夜を繰り返している。



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