知りたい
『知りたい。杉森海翔』
悩んだ末、短冊に書いた願い事はこれだった。
6月の終わりに、中学校の七夕イベントに向けて短冊が配られた。
7月7日朝までに三階の図書室前の廊下に用意された笹にくくり付けろという宿題である。皆はほとんどもうくくり付けたらしい。
俺だけは中々、書く内容が決まらず今に至る。
今日はもう7月5日なってしまっていて期限が迫っていた。結局悩んだ末、短冊に俺が書いた言葉がコレ。
何が知りたいって言われたら、密かに長年想いを寄せている小西夢香の気持ちだったりする。
夢香の好きな人が誰なのか。
日々、布団にもぐっては寝付くまでの間、悶々としている。
今もそうだ。悩んだ末に短冊を書いて、次には漢字の宿題が待ち構えている。でも全く進んでない。宿題にも手につかないほど想い漕がれているといっても良い。
宿題をサボりたい言い訳と突っ込まれそうだが。数パーセントもサボりたいという気持ちが入ってないかといったらウソだけど。宿題に手をつけても浮かんでくるのは夢香の事ばかりだ。
今、夢香も宿題やってるのかな…とか、本当は机を並べて宿題やれたら最高だよな…とか。妄想ばかりが先行してしまう。
俺って乙メン。
っていうか、我ながらヘタレだよな…と思う。
夢香は同じ小学校出身の誰とでも気軽に話せるような活発な女の子だ。今は、隣のクラス(1組)にいる。
2組は隣なんだから、気持ちが知りたいなら、そんなの願い事に書かなくても直接本人に聞けば良いじゃんって言われそうなんだけど。
夢香はきっと好きな人を聞いても引くような子じゃないし。
告白してたとえ断られたって、態度を変えるような子じゃない。
でも、怖くて聞けないし告白する事もできやしない。
俺、取りえないし。勉強だって、こんな調子で日々悶々として手がつかない状態だから、そこまで出来るわけじゃない。運動もできないわけじゃないけど、一番って程ではない。人より何が優ってるわけでもないし、誇れるものもないしね。
あ、誇れるっていえば、誰より夢香のこと想ってるって自信だけはある…かな。
夢香の事を話させたらノート何冊だって一気に書ききる自信あるし。今、遅々として進まない宿題の漢字ノートだって、夢香の事ばかりで埋め尽くして良いっていうなら、ものの5分もかからず書ききる自信がある。
本当に良い子なんだ。
この世にどうして天使が現存してるんだって聞きたくなるくらい、内面が真っ白で、優しい。俺の中では崇高で神様みたいに見えてる。
この子さえいたら、何もいらない。そう思う位に焦がれてる。
でもそれだけに、冗談を言って話す事は出来ても肝心な事は何一つ聞く勇気もない。
ならいっそ、男子中学生らしく下ネタ系の願い事に突っ走っても良かったんだけどさ。
他の奴らみたいに〇〇とデートしたいとか、ハグしたいとか、不埒な事を書きたくないって言ったらウソになる。俺だってお年頃ですから。好きな子と手を繋いだりとか出来たらな…って思わないわけではない。
でもちょっと夢香だけは特別な子なワケ。
大切、命の恩人。
今の俺が、ガハガハ馬鹿やって笑っていられるのも彼女のおかげだしね。
まぁ、こんなに沢山ある願い事の中で俺の願い事なんて神様が聞き届けてくれるとは思わないんだけどさ。
なんかウチの学校の七不思議で、誰もいなくなった7月6日の逢う魔が時(六時)に、誰にも飾ってるところを見られずに短冊を飾る事が出来たら、その願い事が叶うというものがあるんだ。
それを知ってたからっていうのもあるけど。ここまでズルズル短冊を飾る事なく引っ張ってしまったわけだ。
誰も信じてる人はいないから、皆配られたと同時に飾りに行ったわけだけど。
あと、オカルト趣味的な人が年に何人かは、それにチャレンジするから、鉢合わせてしまう可能性が高く。誰も見られずに飾る事が不可能とも言われていた。
でも、少しかけてみたかった。
7月6日、俺は5時30分を回ったころ、短冊をかけに三階の図書室前の廊下にいった。
俺の他にも誰か七不思議を知ってる人がいたみたいで、1人(スカート姿だから女の子?)の人影が去って行くのを見てしまう。
ごめん…その子の願い事、俺のせいでかなわないかも…と。見てしまった事を心の中で詫びる。
笹の目の前に立つ。不思議と誰もいなかった。笹の内側、誰にも見られなさそうな場所に短冊をくくりつけた。
目の前に天井ギリギリの高さの笹にギッシリ短冊が飾られている。その短冊の量を見て、全員の願いなんて聞いてくれるわけないんだから眉唾だよなぁ…。とため息をついた。
そう思いつつ大きな笹にかけられた色んな生徒の願いをこっそり好奇心半分で盗み見てしまう。
何人かは(って結構多いのよこれが)夢香狙いの願い事が書いてある。
全くどいつもこいつも!!
シレッとその短冊たちの数々を引き千切ってやろうかと心の中の悪魔が囁いた。
ちょっとラチがあかなさそうだけどね。
夢香狙いの願い事の短冊に手を伸ばしかけた時、見回りの先生の足音が北側の階段から聞こえてきて慌てて南側の階段まで駆け下りる。
「全く、笹の見回り当番がいるとは、ウチの学校の七不思議にも困ったものだな」
屈強な体育教師がそう言ってドカっと笹の前に陣取って座った。
なるほど、運が良かっただけらしい。俺と俺の前に来た子だけが、今年は飾れたわけだ。
基本ツイてない俺にしては珍しく運が向いて来たんじゃない?とワクワクしながら帰路についた。
「海翔…なんで、あんたはこんなに愚図なの?」
運なんて良くなるわけないかと母さんの怒鳴り声で良い気分が台無しになる。
酒に酔っては、当たり散らす母さんのヒステリーが今日も始まった。女手一つで男二人育てるのは大変なんだろうな。
古いアパートの台所で缶ビール片手にお積極が始まる。仕事で面白くない事でもあったんだろう、眉間には深いシワが刻まれている。
これは、一つ二つ怪我するのを覚悟しなきゃならないな、と腹をくくった。
救急箱の位置は戸棚の上だっけ。
母さんは俺が2歳くらいの頃、父さんと離婚して家を飛び出したらしい。
そこから、酒を飲んでは荒れるようになってしまった。
しかも、標的は決まって俺。
優秀な兄さんに比べて、劣等生な俺が気に入らないらしい。
離婚の原因は聞かされてはないけど、俺なのかもな…と思う。
「海翔、これからは一人でお留守番出来るわよね」
小学校低学年の俺に母さんは、鍵を渡して働きに出るようになった。
まるで、俺と二人で家にいるのを拒否してるかのように見えて、純粋だった俺は傷ついたもんだ。
歳の離れた兄さんは、16歳になったと同時にバイトに出るようになってしまったから家には俺一人残される事になった。
一人になる寂しさからアルバムを見る事がよくあって、寂しくて本棚からそれを引きずり出しては眺めていたのを覚えてる。
兄さんと父さんと母さんが仲良さそうに映っている写真はあるのに、俺が父さんが映っている写真は一枚もない。兄さんの生まれた時には、家族が嬉しそうに兄さんを抱きかかえて映っているのに、俺のは医者が記念に撮ってくれたものだけだったから。
だから、きっと俺は母さんにとって忌むべき存在でしかないんだろうなと薄々、幼心に解っていた。
今は、愛情を貰えない事に慣れてしまって麻痺してしまってる。
今日の母さんの怒りの矛先は、宿題をやる時に使った辞書を出しっぱなしにしていた事が気に入らなかったらしい。
母さんが俺に向かって、分厚い10センチ近くはあろうかという辞書を手に持った。
嫌な予感がする。
それ、投げて打ちどころ悪かったら死ぬレベルなんだけど…。と顔が引きつる。
カッコよく漫画の主人公みたく華麗に避けられたらかっこよかったんだけど。反応が遅れたのが悪かったらしい。
ゴツと鈍い音が室内に響いた。
「っ」
当たりどころが悪く、ケースに入った辞書の角が頭を直撃する。クラっと目眩がして目の前が真っ暗になり意識を失った。
次に目が覚めた時は病院だった。
夜間医療を使ったらしく、救急室の時計は七月七日の零時をさしている。
「良かった、目を覚ましましたよ」
(良かった、目を覚ました)
医者の先生の声がして、母さんが目を潤ませて俺に近寄って来た。
「良かった、気がついて…ダメじゃない階段で転んだら」
(面倒な事になるから転んだ事にしてよね、私が虐待した事になるじゃん)
母さんの声と同時に動画サイトのコメントが流れるように俺の視界に、母さんの本音らしい言葉が流れた。耳から聞こえてくる声はとても優しい。子供を気遣うものだったけど、内心は違うようだ。
「…」
「脳波を検査しましたが、異常は見られないようです。帰っても大丈夫ですよ」
(大ごとにならなくて良かった、大怪我ならヤバかった。研修医の僕で対処できたかどうか自信がないし)
ホッとしたような笑顔の医者からも本音らしきものが流れた。
なんの罰ゲームなの?
流石、研修医。
異常ありまくりじゃね?
なんでこんな目に合うの?
冗談でしょ。
見えないものが見えてくるなんて、どんな厨二病的な症状だよ。
…って、文句の百も心の中で毒づいていたら一つのことに思い当たった。
『七不思議だ』
俺…願い事《知りたい》って書いたんじゃなかったっけ。
国語の勉強大事だわ。
『何を』が抜けてるとこうなっちゃうわけ?
チょ…人の本音を知ることになるって。
なくね?
人間、知らない方が幸せって事も多いって思うわけ。
俺が知りたかったのは夢香の事だけだったんだけど…。
邪なのって神様的にNGだったって事?
好奇心は身を滅ぼすとは、昔の人もよく言ったもんだよな。先人の知恵に学べ…か…。社会の勉強も大事って事だ。うん、これからは授業中寝ないようにしよ。
そして、病院から帰る車の中、いきなり知らなきゃ良かった…的な展開が繰り広げられた。
まぁ…ね、分かってはいたよ。嫌われてる事くらいは。
母さんの中での俺は本当に最悪らしい。
「もう、あんたがしっかりしてないから悪いんだから、これから気をつけなさい」
(なんで?この子…疫病神なの?私一歩間違ったら犯罪者じゃん。なんでこの子を産んじゃったんだろ…なんで妊娠に気付けなかったんだろ、気付いてたらおろしてたのに…別の男との子だってバレて離婚で、こんな苦労ばっか…最悪)
・・・・・・・・酷くね?
俺が小学生の低学年じゃなくて良かったよ。
母親が恋しい時期なら自殺もんだろ…コレ。
さすがに長年一緒にいれば諦めもついてるから、そこまでのダメージじゃねぇーねど。
母さん、俺はいらないんだ。
っていうか、殺す気だったのかよ。
だから父さんに抱かれた写真が一枚もなかったわけだ。
笑うっきゃねぇ。
「今後は気をつけマス」
無性に早く大人になりたくなった。
そして急に夢香の顔を見たくなる。
心が寒くなるこういう時は特に。
まだ低学年の母親の愛が貰えないことに絶望していた頃、助けてくれたのは夢香だった。自分なんて、いらない子なんだから死んじゃえば良いんだ…って、泣いてた俺を救ってくれた。
図書室で自殺の本を買ったり、道路に飛び出してわざと車に轢かれようとしたりする毎日だった気がする。自棄になって問題行動ばかりを起こして。
問題児というレッテルを貼られた俺に近づく子は誰もいなかった。
そんな俺に、毎日話しかけてくれたのが夢香だ。
「いらない子なんて、いないんだよ?」
「母さんは、俺の事…嫌いなんだ。兄ちゃんは可愛がるのに出来損ないはいらない…って。だから俺なんて消えた方が良いんだ」
「消えたら悲しむ人がいるよ?少なくても私は悲しい」
夢香が涙目になりながらも、必死で俺の手を握ってくれていた。
「夢香ぁ」
「消えたいなんて言ったらダメだよ。海翔は大事な子だよ。誰がいらないって言っても私がいるって言う。私が必要だから海翔は生きていて笑ってなきゃダメなんだから」
アーモンド型の大きな目が俺を真っ直ぐ写して、優しく微笑んだ。
その目が純粋で、綺麗で。
天使かと思った。
自分を必要としてくれるのが、こんなに嬉しいのかと、体全体が温められるような錯覚を覚えて。ぬくもりに包まれているのに感動で全身に鳥肌が立った。
無償の愛をくれようとしているのが幼心にも解って胸が締め付けられる。
どうせ消し去りたい命なら、この子の為に生きよう。
夢香が悲しむ行動はしたくない。夢香を笑顔にし続けたい。
そう思った。
それからは、夢香が悲しむから問題行動はやめた。勉強も授業を聞くようにし、普通の子に戻れたわけだ。
初恋っていうには、重くてもっと崇高な感じで夢香の事が特別になった。
だから、どんな困難だって、危機的状況だって平然とスルー出来たわけだ。
本当ならさ、絶望の淵に立たされてるような今でさえ、なんて事はなかった。
母さんの事はもういい。
諦めるには絶望して泣いていたあの頃から充分な年月が経っている。
ただただ、早く朝になる事を祈りながら、ベッドに入って瞳を閉じた。
「海翔君、おはよー!」
(今日も可愛いーっ!もう喰っちゃいたい)
最近、よくちょっかいをかけてくる、同じクラスの北田茜の内心の言葉にゲッと引きつりそうになる。
喰っちゃいたい…って、小首かしげて何、下品なこと思ってんだよ。
ドン引きだ。
これがまぁまぁ男子生徒に人気あるってんだから、世の男のなんと目がないことか。しかも清純派として人気とか、アリエナイ。
肉食系の権化じゃねーか。
前々から、狙われてんだろうなぁ…とは薄々解ってはいたが、ここまで露骨な事を思われてるとは思わなかった。
しかも、微妙に自分のこと可愛いって思い込んでる感が滲み出てる。
こちらに媚びた笑顔を全開に向けられてるのが解ってしまって心底萎える。
「海翔君、オデコどうしたの?痛そう」
(オデコに絆創膏とか萌えるんだけどー。上目遣いで心配してあげたら男の子なんて皆、私のト・リ・コ)
表向きの砂糖をぶっ掛けたような甘ったるい声とは裏腹に視界を左から右に流れていく台詞はゲスの極みだ。
「…別に」
「何か不便があったら言ってね?かけつけるよ?」
(家に押し掛けて、迫ってあ、げ、る)
「…へっき、ワリ、やる事あるから」
無表情で突っぱねれば、渋々茜は退散していく。
茜は色白で笑顔が可愛いくて、小学校ではモテる方だったって同じ小学校だったヤツに聞いていた。
でも、俺から言わせたら、必死で目を開いて大きく見せようとしているのがアリアリと解る。鏡に向かって可愛い顔を作って、自惚れてるタイプだ。
現に、気を抜いた瞬間半眼になって可愛さも半減してる。
表情を作る事だけは完璧だから騙される男も多いんだろう。
中身はガッツリ系ビッチを体現した悪魔のようなヤツだけどな。
まぁ、茜に関しては元々アウトオブ眼中だったけど。なんか、周りの女達も多かれ少なかれ、男子生徒に色目を使ってるし。
盛りのついた猫?
結局ドイツもコイツも裏ばかりだ。
チョ…マジで人間不信になりそうなんだけど…。
昨日の怪我したドタバタで数学の宿題をやってない事に気付いた俺は、隣のクラスに照準を合わせた。
隣のクラスには夢香がいるからだ。
フラフラ廊下に出てみれば、隣のクラスの美男美女で有名な馬鹿ップルがイチャイチャしていた。
「もう、貴光ってば。大好き」
(貴光といると他の子からモテないんだよなぁ…潮時かなぁ。でもリア充でいたいしなぁ)
「陽菜ほど可愛い子はいないよ」
(陽菜より夢香のが良いんだけどなぁ、無理して玉砕するのもかっこ悪いしなぁ)
お互い見つめ合いながら裏腹な事を思っていやがる。こいつら…仮面カップルじゃん。
…しかも、貴光のヤツ…ホントは夢香狙いかよ。
クソっ許さん。
ムカムカしながら、隣のクラスの扉の前に立つ。
あ…でも今、話すと夢香の本心まで見えちゃうんだよな。
知りたいような怖いような、複雑な気持ちが交錯する。
「あ、海翔ー。おはよ~!何また、何か忘れたの?」
(あ、海翔だぁー)
扉の前で立っている俺を見つけた夢香が席を離れて駆け寄ってきた。
二つに縛った長い髪が揺れてウサギのようで可愛い。うん、媚びてる感はないのに、パチパチと瞬きする仕草がどうにも小動物チックで、顔が自然とニヤけてくる。
無表情で真剣な時は、美少女感しかないんだけど、普段は表情がクルクル回って子犬のようにも子猫のようにも見えるから不思議だ。
しかも、内側の声がシンクロしてる。
「いや、数学の宿題忘れて…ノート貸して欲しいなぁ…と」
俺が言えば、夢香は俺の額の絆創膏を見て全てを察したのか溜息をついた。
「全く…自分のノート持ってココに集合」
(なんかあったんだ…おいで、教えるから)
夢香はそう言って、自分の前の席を指差す。
ダメだぞって表情はしかめっ面なのに心の中が暖かくて、ちょっと涙出そうなんだけど。
今も夢香は俺の事気遣ってくれてる。絆創膏見ただけで察してくれたんだ。
なんだかそれが妙に嬉しい。
朝から、みんなの表面的な会話ばっかり聞いてて、失望してたからなおさらだ。
だって、みんな基本心の中は利己的でドロドロしてて口に出してる事とは裏腹な汚いものが多いから。
「えー、ノート貸してくれるだけで良いって、すぐ返しにくるし」
「ノートは貸さない」
(それだと海翔の為にならない)
夢香の心の声は、俺のためを思ってくれている言葉しか流れてこない。
言葉は一見意地悪で言ってるのかという言い方なのに、そこに暖かさがある。
「了解、持ってくる」
俺は慌てて教室に戻って数学ノートを持参し夢香の前の席に腰かけた。
学年上位を維持してるだけに、夢香の教え方は丁寧で的確だ。
一人で写すよりもはるかに効率的だった。
「夢香、助かった」
「虎屋のいちご大福、抹茶セットで良いよ?」
(へへへ。おごってくれるかな)
ニパっと悪戯が成功したみたいに笑う。
どうやら奢れというらしい。
小悪魔的な顔も可愛い。
茜じゃないけど喰っちゃいたい。
「へ?」
「今度の休み。…ね?」
(きっと楽しい)
「げ」
口ではそういうものの、二人で出掛けられるチャンスじゃね?
夢香が一言発するたびに、気持ちの優しさに触れ、心が癒されていく。
ただ、色っぽい意味ではないのかもしれないけど。
夢香は本当に美味しそうな顔で食べるから餌付けするのは願ったり叶ったりだ。
休みに家にいても、母さんの顔色見て終わりそうだし。
夢香が物を食べてる所を見るの好きだから、こっちとしては嬉しいかぎりだけど。
「ダメ?」
(怪我してるって事は、家にいたくないんじゃないかなって…思ったんだけど、違うのかな)
夢香の内心の声に、胸が震えた。
やっぱ、…心配してくれてんだ。
俺の負担にならないように、言葉では言わないけど、気遣わせないようにあえて命令口調で言ってたのか。
夢香、天使。
マジ天使だし。
何、この優しさの塊みたいな真っ白な生き物は。
ヤバい。
マジ大好き。
愛しいって気持ちがブワって体の隅まで広がっていく。
「奢らせてイタダキマス」
笑顔で返せば、夢香が満足そうに頷いた。
「楽しみにしてるね」
(良かった、海翔…笑えてる)
優しい心の声が、身体全身に染み渡る。
なんでこんな良い子なんだろう。
今だって、夢香は俺が来るまでやって仕事の手を止めて、優先してくれてた。
俺が廊下に出る時に振り返って夢香を見れば、もう必死で書類をまとめる作業に戻ってる。
慌てて筆箱落として、中身まき散らかした夢香がワタワタしてて申し訳ない気持ちになった。
悪い事しちゃったな。
拾いにいってあげようかと思ったら、いち早く隣の席の野郎、確か祐也ってヤツが拾って差し出している。
耳を澄ませば
「おっちょこちょいだなぁ」
(可愛いなぁ、俺の同じデザインのシャープと変えて、夢香のヤツ貰っちゃおうかなぁ)
「ありがとう」
なんていう、やりとりが行われてる。
シレっと夢香のシャープ盗もう(自分のと交換しよう)としてんじゃねーよ!
なんか、人の本心がら動画サイトの流れる文字のように見えるようになって一つ気付いた。
気付きたくなかったけど。
結構…いや、かなり夢香狙ってるやつ多くね?
ってか多すぎだろーっ。
何人いるんだよ。
廊下を歩いていく奴らもそうだ。
「そういえば1組のサチがお前に気があるらしいぜ?」
(だから、夢香のこと諦めて、さっさとくっついてくれよ)
「へぇ~」
(…夢香のが良いし)
なんて言葉が普通に飛び交っている。
面白くなくて、思わず廊下の壁を蹴飛ばした。
じーんと足先が痺れ、想うのは止められないよなと冷静になった頭で教室に向かう。
教卓にさっに夢香に教えて貰った宿題を提出し席に戻った。
頬杖をついて、黒板の向こうにいるだろう隣のクラスに想いを馳せる。
そりゃそうだよな。
整った顔自体が小さくて、スタイル抜群でさ。
文武両道、成績優秀、眉目秀麗、才色兼備…四字熟語がヤバいくらい出て来る。
夢香を想像したら国語の成績上がるんじゃね?
と思わずにいられない。
ここまで完璧だと。近寄りがたい美人を想像しそうなんだけど、どこか抜けてるから可愛くて仕方がない。
この前なんて、うっかり音楽の移動教室の時にリコーダー忘れて涙目になってたって、夢香のクラスのヤツが言ってたっけ。
結局、学校保管の物を借りて洗って使ってたらしいけど。当然それを見てた馬鹿な男子達は次の授業の時、ワザとリコーダーを忘れて、ソレを使おうとする奴らが多発したらしい。
音楽の先生がキレてたからマジなんだろう。
普通ならここまで男子に人気があると、女子からは嫌われそうなものなんだけど、夢香の場合は女子からも慕われてる。
妹っぽくて、目が離せないらしい。
可愛くて手がかかる妹って、友達に言われて凹んでた夢香が可愛かった。
そして、今日の2時間目には一年全組合同で行われる学年レクがある!
という事は、ずーっと夢香を見ることが出来る訳で。
昨夜の嫌な出来事なんて、夢香がいれば軽く吹き飛んでしまいそうだ。
夢香の優しさに包まれてるだけで、こんなに幸せ。
じんわり心が温かくなる。
マジで幸薄い俺に神様が遣わしてくれた天使なんじゃねーの?って思わずにいられない。
俺の気持ちは朝だというのに既に2時間目に心が飛んでいる。
「海翔、お前ソレ…ストーカーだって」
体育館でレクが始まるのを並んで待っている最中。
夢香のクラスを見てしまっていた俺に、親友の隼也が呆れたように苦笑している。
背の順で、隼也は俺の後ろだから俺が余所見してるのがバレバレらしい。
1組の夢香は2組の俺から見て斜め前にいるから、つい目がいってしまう。
ただでさえ、見つめちゃいがちなのに、今日はうるさいハエども(夢香に話しかけてる1、2組の男達の心の声)も見逃せなくて、その不埒な心の声を睨みつけていたとも言うんだけど。
(ケイドロの時どさくさに紛れて抱きついちゃおうかな)
(俺、鬼に立候補して夢香だけ狙おうかな)
なんて声が多数流れている。
女子は女子で
(いいなぁ、夢香は…一人で男子独り占め)
(可愛いのって得だよなぁ、なんでこんなカオに産んだの…って親を恨みたい)
とか嫉妬と羨望が混ざったみたいな声が飛び交っている。
夢香の周りに、皆んなの内心の文字列で弾幕が張られているようだ。
でもその中で何個か気になるっていうかスルー出来ない言葉が目の端にとまった。
(憎い憎い憎い憎い憎い)
(渡さない、渡さない、渡さない、渡さない)
病的な激しさでその文字は流れている。
感情の強さや種類で、流れる文字の形状が変わる事に気付いた。
あまりにもドロドロした感情なのか、他のフォントが丸っこい可愛い文字だったり、オーソドックスなゴシック体や明朝体のものが多い中、この2つだけは夢香に絡みつくように回り続けている。
基本、夢香は嫌われる事なく誰からも好かれているだけに異様な光景だ。
夢香に話しかけている6人のうちの誰かだろうけど、特定しきれない。
俺が知らない奴が2人、知ってる奴は仮面カップルの貴光と陽菜にビッチな茜…と、確かシャーペン盗もうとした祐也ってヤツも混ざってる。
皆んな笑顔で夢香と話しているくせにその中の誰かが酷いことを思ってるんだと思うと反吐が出そうだった。
何より、心配なのは夢香だ。
みんなの前で笑ってはいるけどいつもより元気がない。
「いや…夢香だけ帽子ないな…って」
「忘れちゃったのかな、しょんぼりしてるな」
「俺、予備持ってるから、ちょっと取りに行ってくるわ」
列から離れて、体育館の壁近くに置いてある、体育館シューズ袋を探しに行く。
だらしないのも時には役に立つ。
学校に忘れている事に気付かずに、もう1つ持ってきていた俺グッジョブ!
取り出した白い学校指定の帽子をクンクン嗅いでみる。
幸い、綺麗な方を袋に入れてあったのか臭わなかったから、夢香の列にそのまま向かった。
「夢香、はい」
ポンと帽子を被せてやれば、夢香がキョトンと俺の方を振り返る。
「え?!」
(あれ?どこ探してもなかったのに…)
探した?
夢香…、帽子無くしたの?
そう言えば。最近、夢香忘れ物が増えてるって噂聞いてたな。
…まさか、誰かに盗られてるのか?
嫌な予感が頭をよぎる。
「あ、コレ俺の予備。貸してやるよ」
俺が言えば、夢香はホッと力を抜いて、いつもの笑顔を浮かべた。
「洗ってなかったりして」
(海翔…ありがとう)
夢香の本心がフワフワした丸文字で俺の周りを包み込む。
「あ、バレた?」
「なら、洗って返すから」
「洗わなくて良いよ」
ニヤっと笑ったら、貴光や陽菜、茜、祐也たちに変態だなんだと罵られる。
その瞬間。
ゾクっとする文字が俺に襲いかかってきた。
(死ね!死ね!死ね!死ね!)
(ジャマなんだよ、イイトコなのに)
明らかに悪意を持っている。この中の誰かが夢香に嫌がらせをしてるんだ。
笑顔の裏で酷い事をしてる奴を絶対突き止めてると心に決めた。
「ちょっと、海翔…王子様かっての。夢香ちゃん超安心しきった顔してた。お前微妙にイケメンだから、二人揃うと壮観って感じだったぞ。女子からも男子からも悲鳴が上がってた」
(お前らお似合いだよ)
列に戻った瞬間、隼也にからかわれる。隼也は俺が夢香を好きだって知ってる。基本人にそういう事を話さないから知ってるのは隼也だけだ。
密かに夢香との事を応援してくれてる。
隼也は基本的に思ったことを口にするタイプなのか、あまり違った文字が流れない。
良い奴だ良い奴だとは思っていたけど本気で信頼できる奴だって思う。
「隼也…なんか、夢香…最近よく無くし物とかしてるって聞いたことあるか?」
「リコーダーや鉛筆、水筒とか、なくなって困ってるってのは聞いたかも。結局リコーダーはまだ見つかってないってさ」
(夢香ちゃんのまわりきな臭い気がするんだよな)
隼也が渋い顔をしてる。やっぱそう思ってるの俺だけじゃないんだ。
「なんかヤバそうじゃね?」
眉間にシワを寄せて聞けば、隼也も大きく頷いた。
不穏の種を抱えたまま3時間目の数学の授業が始まったけれど集中が出来ない。
俺は数学の教科書を机に乗せたまま、頬杖をついた。
明らかに夢香の身に何かが降りかかっているのだけは分かった。
何が何でも犯人を突き止めて、夢香を守ってやる。
まずは容疑者の洗い出しだ。
レクの時、物騒な内心の声は2つ出ていた。
夢香が憎くくて仕方がない誰かと、異様に執着してるっぽい誰かだ。
6人いた中で1組の奴が陽菜、祐也、貴光と俺が名前も知らない2人。2組は茜だけか。
俺と夢香、陽菜、貴光は陸上部だから何かと絡むことも多いけど、祐也は芸術部で茜は吹奏楽部だから、夢香との接点はないはずだ。
となると、恨んでそうなのはこの場合、貴光を取られそうな陽菜が濃厚か。
陽菜は夢香と小学校が一緒で仲良い時は仲良かったけど、同じくらいよく喧嘩もしてたし。
茜が夢香を恨む動機が見当たらない。プライドが高そうだから一番モテているのが茜じゃないって事への逆恨みで、モテまくっている夢香にライバル心を抱いているくらいだろう。
祐也は、変態っぽい事を考えていたから何か夢香の物を盗んでいてもおかしくない。
…こいつも怪しい。
貴光は陽菜もいるし、運動神経抜群で他の女子も狙ってる位のモテ男だから、夢香を好きってだけでは動機が弱すぎる。
残りの2人は、次の体育の授業(4時間目)で一緒になるから探りを入れてみよう。
「杉森、聞いてるのか!」
(俺様の授業を聞いてないとはいい度胸だ)
数学の増山先生の怒号で我に返る。視線を上げれば、いつの間にか教卓から俺の席の前に移動して仁王立ちで立っていた。バーコード禿げの隙間から湯気が出そうな怒り方だ。
マズイ、授業中だって事を忘れてた。
増山先生が肩をいからせながら教卓に戻って、イライラしたようなそぶりで腰に手を当ててヒクヒク頬を歪めている。
閉じられたままの教科書を慌てて開く。
…が、増山先生の怒りは収まらなかったようだ。
ネチネチねちっこいから40にもなって独身なんだと悪態をつきたくなる。
「聞いていなくても平気なんて、さぞ余裕なんだろうな、ならこの問題を解いてみろ」
(クソガキが…舐めやがって、皆の前で解かせて、解けなかったら恥をかかせてやる)
カツカツと教科書にはないレベルの方程式の問題を黒板に書く。
えー解んないっていう声がチラホラクラス内で上がっている。
マジで底意地悪いな…この先生。
生徒の為なんて、これっぽっちも思ってないし。
叱る理由が『授業に遅れていくと後が大変になるぞ?』とか『お前の為にならんのだがな』…という内心が見えたのなら、増山先生の事を見直したかもしれないんだけど、結局、自分の言葉を聞いてないからってキレてるだけかよ。
コレ、確か超有名私立の入試問題で出た問題だろ。
明らかに授業じゃ、ここまでの問題は教えてないだろうが。
ハメる気満々って事かよ。
ま、そうはさせないけど…・。
残念ながら、数学だけは得意だったりする。
小学時代に算数をていねいに夢香が教えてくれてからというもの、数学だけは勉強だと思った事はない。解けたときに自分の事のように嬉しそうに手を叩ていて喜んでくれた姿が今でも目に浮かぶ。
増山先生は俺が恥をかくのを今か今かと待ち望んでいるようだけど、そうはさせない。
神妙な顔をしながら黒板の前に立つ。
サラサラと答えを書いて席に戻った。
「…正解だ」
先生が忌々しそうな顔で言う。クラス内にはスゲェって言葉が響いた。
好きな教科なだけに、できればもう少しマシな先生が担当だったらなと思わなくもない。
俺に恥をかかせるのに失敗した増山先生は、溜飲が下がらなかったらしく、授業が終わる時、放課後職員室に来るように言い置いて教室を出て行った。
そして待ちに待った四時間目。
一年全員が集合する体育が始まった。
ここで、なんとか犯人のしっぽを捕まえてやる。
そう意気込んで、プールに足を運んだ。
「プールって良いよなぁ」
(女子の生脚が見放題)
思春期男子の心の声を代弁するかのように、プールサイドに一番乗りした男子生徒が声をあげた。
夏場の体育が楽しみなのは、皆んな同じだろう。
妙に男子の機嫌が良い。
普段なら御多分に漏れず俺の機嫌も良い。何故なら夢香の水着姿が拝めるからだ。
けれど、今日の俺は眉間に深いシワを刻んでいる。
夢香の周りで不穏な動きがあるから…ってのもあるんだが、それだけではない。
心の声が見えてしまう俺には、皆んなのあられもない欲望が視界に刺さってくるからだ。
女子全体に向いているものならばまだ止めはしない。
けど、6~7割の男どもが夢香の水着姿に萌えている事自体が許せなかった。
向こう岸に立つ夢香のスタイルは確かに抜群だけど。
小学校の時に比べて、肉付きの良くなった三角州や胸あたりが、もうフィギュアかってくらいバランスが取れていて、クラクラする。
(うわー目の保養)
(座って、脚広げてくんねーかな)
(ウエスト細)
(太ももヤバ)
スケべな文字列多すぎだろ!!!
そりゃ、俺だって男な訳ですから。思う。
禿同だよ。
もっと、危険な事すら思いそうだよ。
思いそうだけど…でも、ダメ絶対!
皆んな一人一人を目潰しして歩きたい…マジで。
やめてくれ!やめろマジで。
俺の。俺だけの天使を汚すなーっ!!!!!!
拳を握りしめてフルフルしていたところに、名前の知らない容疑者2人の男子が目の前を横切っていく。
さりげなく2人の近くに移動し、2人の会話に耳をそばだてる。
「昼飯前のプールってきつくね?」
(夢香、見れるのは良いけど、腹減るし)
「解る。出来れば5時間目にして欲しいよな」
(5時間目なら眠気も覚めて一石二鳥)
意外に2人は、可愛いとは思っていても夢香にそこまでは執着してはいなさそうで、ホッと息をついた。
「海翔君って脚長いよね」
(スタイル良いなぁ、腰の位置高すぎだし)
気がつけば茜が近くにきていてギョっとする。俺の腕に巻き付いて胸をさりげなく押し付けてくるのに辟易した。
そりゃあ、吹奏楽部なだけあって色白で、胸はデカいしスタイルは悪い方じゃないかもしれないけど。
マジこういうの、やめて欲しい。
陸上やってて、締まるところ締まってる夢香とじゃ雲泥。
…っていうか、夢香以外で萌えられないようになってるんだって。
「別に普通だし」
「えー!普通に制服姿だと細いなぁって思ってたら、脱いだ時凄い。細いのに筋肉とかついててカッコイイ」
(マジで海翔君ツボなんだけど、顔超可愛くて細マッチョとか喰いたい、落としたい)
ギュっと俺の腕に巻きつく力を強めやがった。
ちょっと、今夢香の様子を見逃したくないんだって。
ただでさえ、不埒な視線ばっかになってるんだからさ…。
「…離して、こういうのウザい」
キッパリ言って、茜を置き去りにする。
茜が俺を見ているのを無視して、俺は隼也の所に移動した。
「夢香ちゃん、ヤバいね」
(皆見てるなぁ、ま…見る奴の気持ちがわからなくもないけど、なんかヤバそう)
隼也がポツリと言う。
「あ…お前までも…」
「や、スタイルの事は否定しないけど、なんか野郎達の目が…」
(みんな飢えた野獣のようだしさ)
「…だな」
俺的に言わせて貰えば、夢香の周囲に渦巻く男どもの不埒な文字の弾幕のせいで、10mくらい向こうにいる筈の夢香が見えない位になっている。
「自由時間とか、触るヤツとか続出しそう」
(セクハラの山になりそう)
「…だな」
隼也の言うことが隼也の内心共々、一々最もすぎて、ガクリとうな垂れた。
そして。
自由時間になった時に事故は起こった。
俺がたまたま、夢香を見失いプールサイドに上がった時の事だ。
「大変!!!夢香ちゃんが溺れてる」
(誰か!!助けてあげて)
女子の声が響く。
水に沈んだ夢香が見えて、蒼白になった。
なにが起こったんだ?
慌ててプールに飛び込もうとするけど、俺よりも早く夢香の元に向かっている奴がいた。
夢香の数m先のところにいた貴光だ。
運動神経抜群の貴光がプールサイドに夢香を抱き抱えて運ぶ。
触るなと叫びたいのに、一歩出遅れたのは俺だ。
周りの女子が、貴光カッコイイ王子様みたいと叫んでいる。
お姫様抱っこで、プールサイドに立ち尽くしている俺の横を通り過ぎていく。
後ろから陽菜もついていた。
俺も慌てて駆けつける。
人垣をかき分けて、夢香のそばに行く。
「貴光、夢香平気かな」
(モテててマジでウザい時あるけど、それでも夢香は私の友達だもん無事でいて)
陽菜が本気で夢香の心配をしている。
「水…飲んでないし、多分平気」
(無事でいろ)
貴光が自分に言い聞かせるように呟いた。
2人とも、夢香の心配を本気でしている。この二人からは夢香に対する悪意なんてみじんも感じなかった。
俺も夢香を見守る。人工呼吸をするなら、絶対俺が立候補するし。
そうこうしている間に、保健の先生が駆けつけてくる。
保健の先生が夢香の顔を軽く叩いたら、夢香が目を覚ました。
「夢香さん、大丈夫?」
「…あ、はい。脚を…滑らせました」
(誰かに脚…引っ張られた…怖い、怖い)
心配をかけてすみませんって無理やり笑顔を作ってはいるけど、夢香の顔は蒼白だった。
誰かに脚を引っ張られただって?殺されかけたというのに、犯人をかばっている夢香の優しさがもどかしい。
誰だ。こんな酷い事した奴は。
陽菜と貴光は距離からして無理。
名前の知らない2人は俺の近くにいたから夢香とは距離が離れすぎてる。
残るのは祐也か茜?
2人を目で追って見ても、黙っていて無駄口一つをたたいていなかったから、手掛かりを掴むことが出来なかった。
「夢香、マジで大丈夫なん?」
陸上部に行く途中、階段の踊り場で前を行く夢香を呼び止める。
俺が言えば夢香はコクンと頷いた。
「へっき」
(怖い…怖いけど、海翔に心配かけられない)
無理やり夢香が笑ってる。俺に心配をかけまいとしている姿がいじらしいけど。こういう時は一人で抱え込まずに相談してくれたらいいのに。
「俺、お前が足誰かに引っ張られたように見えたんだけど?」
本当は見てはいなかったけど、夢香の内心の言葉から見ていた事にして、夢香の逃げ道を塞いだ。
俺を巻き込んでよ。
俺に頼ってよ。
俺に守らせてよ。
俺を必要として。
全ての感情をこめて、夢香の瞳を覗き込めば、夢香が静かに瞬きをした。
「…海翔」
「いつからなん?」
「物がなくなるようになったのは、一ヶ月前くらいかな…なんだろー、私きっと何か誰かに悪い事しちゃってたのかな」
(私、鈍いところあるし…自業自得なんだろうな…)
傷付いたように夢香が眉を下げる。
酷い事をされていても、やった人を責めずに自分を責めるんだ。
なんで、こんな心の内まで綺麗な子に酷い事が出来るんだろう。
「へっき、俺が守るから…」
ギュっと勇気を出して夢香の手を握った。
柔らかなその手は緊張や恐怖で可哀想なくらい冷たくなっている。
夢香にこんな想いをさせるなんて許せない。
「ありがと。」
(いつの間にこんなたのもしくなったんだろ)
夢香がそっと手を握り返してくれた。
こんなに犯人に対して怒っているのに、少し嬉しくなってしまう俺。
そういう空気じゃないだろ。もっと緊張感持てって自分を叱咤する。
少しでも恐怖から解放してあげたくて、階段を降りるまで、手を繋いで歩いた。
一階のホールで人が喋っている気配がしたから、慌てて握っていた手を離す。
ホールにいたのは、貴光と茜だった。
「言われたくなかったら…分かってるよね?」
(秘密バラすよ?そしたら茜の人気は地の底に落ちるだろうから、茜は俺の言いなりになるしかない)
貴光が茜の頬を優しく撫でている。
「…うん」
(見られてたなんてっ。どうしよう、どうしよう)
「俺たちだけのヒ、ミ、ツ」
貴光が壁際に茜を追い込んで、頬に軽くキスをした。
何かの秘密に付け込んで、茜に手を出すなんて貴光の気の多さに辟易する。
こいつの本命が夢香だと思うとゾっとした。
浮気の現場を目の当たりにした俺は、気まずさに耐え切れず、後から来る夢香の腕を取って別のルートから靴箱を目指す事にする。
汚いものをこれ以上、夢香の目に触れさせたくなかった。
渡り廊下を夢香と歩いている時に、増山先生に呼び止められる。
「杉森ちょうどいい、今から職員室に来い。ペナルティーだコレ持て」
手に30センチの厚みはあるだろう、一クラス分の数学の問題集を持った先生がニヤっと笑って俺にソレを持たせた。
「ゴメン、夢香…先に部活に行ってて」
「了解、頑張って」
(ありがと。待ってるから)
夢香は俺に手を振った後、増山先生に会釈をして運動場に向かって走り出す。
俺はといえば、職員室に連行された後、たっぷりお説教をされた。
問題集を運ぶのを手伝ったのだから、良しとしてくれればいいものを。
これからは真面目に授業を受けますという定型文をうやうやしく口に乗せ頭を下げた。
まぁ、その取ってつけた感が気に入らなかったのであろう増山先生に数学のプリントを課題だと言って出されてしまったのは言うまでもない。まぁどんな問題でも解くのは苦にならないからいいけど。
職員室を一礼した後、鞄にソレを入れる。
踵を返し、慌てて陸上部に向かおうと靴箱に向かった。
ホールに戻ったら、まだ茜だけが一人、さっきまで貴光に押し付けられていた壁に蹲っているのが目に入って眉をひそめる。
無視して通り過ぎようとした時だった。
「待って海翔君。私海翔君が好きなの…」
(…いい加減私を見てよ。結構本気で好きなんだから。それに狙った男をこの私が落とせないなんて許せない)
縋り付くような声音で茜が俺を呼び止めた。
茜の内心に、辟易する。
尻軽女は願い下げだ。
っていうか、夢香以外を女だって思えないし。
「あれ?貴光は?さっきここでキスされてなかった?」
釘を刺すように冷たい声音で言い放つ。
その瞬間、茜は大きく目を見開いて、唇を震わせた。
「違う、誤解なの」
(貴光には脅されてただけ)
「…何が?!」
「言えない」
(言ったら、嫌われるし軽蔑されるじゃん)
「ふーん…言えないような事なんだ。俺、隠し事するような子、嫌いなんだけど」
茜の好意が俺に向いているのを分かっていて問いかける。
こう言えば、隠し事を言わざるを得ないのが分かっていながら仕掛けただけに効果は絶大だ。
案の定、茜の瞳が揺れる。
「っ…私がした事を貴光が見てて…言われたくなかったら…って」
(言えない…夢香ちゃんの脚を引っ張ったのが私なんて…)
「なっ」
目の前が怒りで真っ赤に染まる。この馬鹿女が夢香の脚を引っ張った犯人かよ。
夢香の蒼白な顔や冷たくなった指先が脳裏をよぎる。
あんな事されても、自分を責めてた夢香と、こんな自分勝手な理由で夢香を殺そうとした茜が同じ人間だと思えなかった。
あの時、誰からも溺れている事に気付いて貰えなかったら、夢香の命は危なかったかもしれないんだ。茜の勝手な逆恨みで、大切な命が消えるなんて赦せる問題じゃない。
「っ…お前が夢香をっ…」
そこからは言葉にならなかった。
茜の胸倉を掴んで殴り倒したくなるのを必死で堪える。
次から次への溢れ出してくる殺意にも似た激情を押し殺そうと、ギュっと拳を握りしめた。
怒りに胸倉をつかんでいる手の震えが止まらない。
花から花へ蜜を求める蝶のように、いろんな男に媚びを打っているような最低女が夢香を…。
「だって、海翔君夢香ちゃんばっか見てるじゃん。夢香ちゃんモテるんだから、海翔君までなんて許せない。憎かった消えてなくなれば良いのに」
(私のプライドを折る、夢香ちゃんなんていなくなればいい)
自分が一番でないと許せない、白雪姫のお妃さまのようだ。
嫉妬に狂った茜の顔の醜さに反吐が出そうだった。
「俺の宝物を壊そうとするようなヤツを俺が好きになるハズがないとは思わないの?夢香が消えたとしてもお前を好きになる事だけは1%もないから」
「っ」
(嫌われた)
茜は両目を見開いて絶望の表情を浮かべた。
床に突っ伏して泣き崩れている。
泣けば許されると思ってる馬鹿女にかけてやる慰めの言葉なんて持ち合わせてはいない。
「リコーダーや帽子…今までに盗ったもの返してやれよ」
俺の言葉に茜が首を横に振った。
「私じゃない…私は盗ってない」
(盗んでないもん…盗んだのは別の人…)
流れてくる内心の言葉で、茜が盗んでいる奴を知っている事が解った。
「…私は…って事は盗ったヤツ知ってんだ」
絶対零度の視線で茜を見下す。目で人を殺せるのなら、何人でも殺していそうな視線だと我ながら思う。
案の定、茜が蒼白になった。
「…」
無言で俺に縋るような目を向ける。
言葉を発してくれないから、内心の声を見ることが出来ない。
「誰?」
「…言えない」
(言ったら私が夢香ちゃんの脚を引っ張った事言いふらすって…)
言えない理由が保身っていうのがまた、こいつの最低さを物語ってるな。
飽きれながら、茜の内心の言葉を脳内で整理した。
「ふーん」
脅されてるって事か…。
そこでふと、さっきココで繰り広げられていた貴光と茜の会話がリフレインされる。
あの時、貴光は何て言っていた?
『言われたくなかったら…分かってるよね?』
『俺たちだけのヒ、ミ、ツ』
そう言ってはいなかったか?
頭の中で、何もかもがパズルのピースを埋めるように繋がっていく。
夢香が溺れた時、真っ先に駆け付けた貴光ならば、脚を引っ張った犯人を見ていてもおかしくはない。
だいたい、いち早く見つけるという事は、それだけ夢香の事を見ていたという事だ。
仮面とはいえ、彼女の陽菜が近くにいて気付けなかった。
「…貴光?」
俺の言葉に、茜がビクっと肩を震わせた。
ビンゴだ。
「…」
「言わなくてもいいよ。口止めされてんだろ?どうせ」
「ゴメンなさい。私、海翔君が好きで…」
「好きだからって、やっていい事と悪い事があるケドな」
言い置いて、靴を靴箱から取り出した。
どいつもこいつも狂ってる。
なんで、自分の思い通りにしたいからって勝手な事ばかりしてやがるんだよ。
今もきっと、貴光は陸上部で何食わぬ顔をして、陽菜とイチャつきながらも、夢香を見ているのか。
爽やかそうな笑顔を浮かべて、健全ですというのを絵にかいたような顔をしながら、夢香をつけ狙っていたというのか。
運動場では陸上部がアップをはじめている。
貴光がさりげなく夢香の近くを陣取っているのが目に入った。
俺は部室のロッカーに自分のバッグを押し込んで、恐る恐る貴光のロッカーの扉を開ける。
中には案の定、夢香のリコーダーや帽子、鉛筆が入っていた。
どうしたら良いかを考える。
みんなの前で暴露したら、貴光は逆上すること必至だし、何よりストーキングされていた夢香が傷付く。
貴光にこの行為を辞めさせて、夢香を傷付けない方法を模索する。
「…そうか」
一つの案を思いつく。
そしてすぐに、思いついたソレを即実行に移す事にした。
まずは、夢香の私物を元の位置に戻す事が先決だ。
シレっと教室に忘れ物をした程を装って、もう一度教室に行き、夢香の机に盗まれたソレらを戻した。
そして自分の教室に行き、ノートを破り手紙を書く。
「好きだからって私物を盗るのは辞めろ。堂々と口説け!好きなら傷付けるような真似はするな。お前のやっている事はすべて知っている」
そう書いて、部室に戻り貴光のロッカーに置き手紙を入れる。
部活が終わった後、ロッカーに入っている手紙を見た貴光の顔が蒼白になっていた。
人に秘密を見られているのは良い気分ではないだろう。
ストーカーされた側はそれ以上に怖いんだ。
そう言ってやりたくなった。
「貴光、何かあった?」
俺が聞けば、貴光はギクりと背を震わせる。
「ん?別に何も」
(なんで?バレたんだ?誰に?茜がバラしたのか?)
貴光の動揺が顕著で、溜息をついた。
このままだと茜に危害が及びそうだ。
まぁ、それはそれで茜にはいい薬になりそうだけど。
俺ならざまぁみろって、二人とも堕ちてしまえばいいって放置するけど。
きっと夢香なら、そうはしないだろうから。
「そういえば、茜がホールで泣きそうにしてたケド心当たりある?さっき貴光、一緒にいたよな?俺がどうしたの?って聞いても何も答えてくれなかったけど」
「さぁ」
(茜じゃないのか…なら…他の誰かが知ってるって事だ…)
貴光が引きつり笑いを浮かべている。
内心の焦りが顔に出まくっていて滑稽な程だ。
これで、一件落着。
「増山先生に出されたプリントがあるから、お先~」
そう言って、部室を出た。
明日の朝、夢香が登校し机の中を見たら、戻ってきたリコーダーや帽子や鉛筆たちを見て、きっと安心するだろう。
お姫様を王子様が守りました。ってハッピーエンドといきたいところだけど、俺は立ち止った。
だけど、さ…俺、人の心の中が見えたから解決できたんだよな。
相手の心の奥を見てしまっている俺だって似たようなものだって事に気付いてしまう。
人の見られたくない感情や秘密を盗み見るような行為はフェアではない。
こんな能力、欲しがってはいけなかったんだ。
夢香の気持ちが知りたいなら、勇気を出して聞くべきだった。
七不思議をあてにして、夢香の心の奥を覗くなんてしてちゃいけない。
せめて、見えてしまっている事を夢香に告げないと、やっている事は貴光達と変わらないような気がした。
「夢香」
帰り道、少し前を歩く夢香を呼び止める。
「何?海翔」
(一緒に帰る?)
夢香が振り返って、脚を止めた。
「今、夢香…心の中で一緒に帰る?って思った?」
「え?なんで?」
(解るの?)
キョトンと首を傾げながら、夢香が大きく目を開ける。
本当の事を告げたら最低と罵られるかもしれない。
嫌な汗が背中を伝った。
「…解るよ…夢香の心の中が知りたいって七夕の日に願い事で書いたら、解るようになった。信じる?」
「うん、信じる」
(だって海翔、嘘言わないから)
「嘘、言わないよ。俺のこと気持ち悪い?」
好きだからって望んで良いことと悪い事があるって今なら解る。
「気持ち悪くないよ」
(私のこと知りたいって思ってくれてたって事でしょ。嬉しいよ)
ニコっと夢香が笑いかけてくれる。
「…夢香」
「海翔は特別だもん」
(いつも私の事、優先してくれてて感謝してるんだよ?)
悪戯をしかけるように夢香が口角をあげた。
内心の言葉に俺の方がドギマギしてしまう。
「やっぱ、このまま心の中が見えるのってマズいよな。もとに戻る方法考えなきゃな」
「そもそもなんで見えるようになったの?」
(今も見えてるって事だよね?)
「辞書が頭に当たって気を失ってさ…起きたらもう」
心の中が見えるようになっていたのだと説明する。
夢香、こんな夢物語みたいな事を本気で信じてくれてるんだな。
真剣に腕組みしだした。
そんなところも可愛いな。
「ああ、あの絆創膏の日からなんだ。なら記憶喪失みたいにもう一回衝撃与えたら見えなくなったりして」
(そんな危ない事出来ないけど)
「その手があったか!今から塀に頭ぶつけてこようかな」
実践しようとして、夢香にとめられる。
「良いんじゃないかな。神様が必要ないって思ったら、きっと見えなくなるだろうし、無理に見えなくしようとしなくても」
(怪我したら大変だもん)
心配してくれるんだ。
夢香だけは、絶対に守る。
「いいのかな…このままで」
「ある意味便利かもよ?」
(照れて言えない事、思えば伝わるって事だしね)
「小悪魔か、振り回さないでマジで」
俺が悲鳴をあげれば、夢香は鈴のようにコロコロ笑う。
心の中の声が見える状態がいつまで続くかは、神様だけが知っているらしい。
帰り道の空は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。