世界12秒前仮説
トンネルを抜けるまで12秒。
妹は11秒だよと主張するけど、それはトンネルにもあの白い家にも選ばれていないからに違いない。
目をつぶって、ゴウゴウと反響する車の走行音に耳を澄ませる。12秒。目をぱっと開けると、あざやかな緑の木々と真っ白な壁の家が見えるのだった。
「久しぶり」
「元気だったか?」
「これ、つまらないものですが……」
「まあ! わざわざありがとうございます」
大人たちの会話はそっちのけで、僕はあの子を探す。とん、とん、と階段を降りる音がして、あの子が顔を出す。僕が駆け寄ると不安げにつぐまれていた口がフと緩む。
僕たちの挨拶はこれで十分だった。
「ねーっ、お菓子たべたーい!」
母さんが妹を宥めているうちに、僕はあの子とこっそり裏庭へ走っていく。いつまで経っても挨拶だとか近況報告に明け暮れている大人たちは僕たちを気にも留めない。
「3ヶ月って、長いね。わたし毎日カレンダーにバツつけてたんだけど、なかなか今日はやって来なかった」
木漏れ日の下、あの子は地面に木の棒でバツを書きながら言う。僕は少し大きな石でその隣にマルを書いた。マス目のないマルバツゲームが始まる。
「そりゃ長いよ。ひとつの季節が大体4ヶ月でしょ?」
「そうなの?」
「たぶん」
あの子は小学校に通っていないらしい。何故なのかは分からないけれど、母さんが父さんに話しているところを聞いたことがある。
あの子のお父さんと僕の父さんは幼稚園の頃からの親友らしい。大人になった今でも、こうして家に遊びに行ったりしている。ただ、向こうの家族が僕らの家に来たことはない。
「あのね。……わたし、苦しくなることがある。これからずっとカレンダーにバツつけて生きていくんだと思うと」
「なんで? 長いって、楽しいじゃん。いっぱい遊べるってことだよ?」
「でもずっと同じことの繰り返しなんだよ」
「うーん……?」
あの子の言っている意味が、当時の僕にはよく分からなかった。僕はずっと遊んでいたかったし、カレンダーが変わっていくのも夏休みや冬休みが近づいてくるようで待ち遠しかった。
でも、目を伏せるあの子を励ましたくて、僕は必死に考えた。
「あ、世界5分前仮説って知ってる?」
「なあに、それ」
夜更かししたときにテレビで見た文字を、不意に思い出した。
「世界は5分前に出来たんじゃないかって話」
「どういうこと? 5分なんてすぐだよ」
「えっと……僕らが今しゃべってる状況とか、知っている過去とか、全部5分前にパッて作られたんじゃないか、って考える人もいるらしいんだ。一から作る料理じゃなくて、チンしたら出来るレトルトみたいな」
僕のあやふやな説明をしばらくきょとんとして聞いていたが、あの子はくすりと笑った。
「いいね、それ。じゃあ5分しか経ってないかもしれないんだ」
「うん。今までの記憶は全部誰かが作ったものなのかも」
「ふふ」
立ち上がって、あの子はくるりと回る。白いワンピースの裾が無邪気にひらめく。
「5分、いっしょに数えよう」
僕は頷いて、目を閉じる。
光の模様を残した暗闇が広がる――。
あるときから、あの子の家に僕ら家族が行くことはパタンとなくなった。何故なのかは分からない。父さんが大声で携帯の向こうを怒鳴っていたことは関係あるのかな。
思えばおかしな家だった。健康に問題のなさそうなあの子は学校に通っていなかったし、テレビもなかったし、冷蔵庫には調味料がなくて、出されるお茶は麦茶ではなく変な匂いのするお茶だった。あの子の家では肉は出なかったし、野菜もおかしな形をしていた。ムノウヤクで育てているのだ、とあの子のお母さんが言っていた。うちの母さんにも熱心に説明していて、母さんは小さな声で相槌を打ちながら困ったように服の裾を弄っていた。
あの子はたぶん、マルとバツしか記号を知らなかった。あの子はたぶん、文字が読めなかった。
レトルトの意味だって、本当は知らなかっただろう。
あの子は僕のことを覚えているだろうか。
手をつないで目をつぶって、一緒に数えた5分を覚えているだろうか。38億年にも等しい5分を。
思い出してみると、トンネルの向こうに見えた景色はそこだけ別世界のように色づいている。どんな絵の具にもない特別な色が塗られている。
トンネルを抜けるのにかかる時間は12秒だってあの子に教えてあげればよかった。そうしたらあの子はあの世界から抜け出せていたのではないかという妄想を、僕はときどき布団の中でする。
5分で作られたにしては、あの世界は一瞬で、目まぐるしすぎた。もっとためらいのない刹那的な時間。少なくともあのときの僕の世界はきっと、12秒で作られていた。
12秒の中であの子が踊っている。




