朝②
どこからともなく、聞き覚えのあるアラーム音。
瞼を開けきらないうちから押し寄せる、容赦ない現実。
片手を伸ばし、スマホを傾けて時刻を見る。毛布の中に引きずり込んではもう5分ほど……という気持ちを断ち切り、思いきって半身を起こす。
何だか目がショボショボする。
ごくたまに、印象深い夢で涙を流すことがあるけれど、今回はまったくの無自覚。
あくびから遅れて大きく伸び。両手を上げきるとともに首の関節を鳴らす。何かしら思い出そうと記憶を探ってみるも、手がかりがなく早々にあきらめる。
目の下をさっと指で拭うとベッドから足を出し、ひんやりする床を踏みしめる。
扉を閉めようとふり返った瞬間、部屋全体がすっきりして見えた。
ボーッとする頭のまま台所に入り、冷蔵庫から朝食を取り出す。
母が小分けにした昨晩のおかず、大根と肉と卵の煮物。数ある料理の中でも上位にランクする一品を電子レンジにセット。その間にご飯をよそい、TVをつける。
突発的に流れだすニュース。うるさく感じ、すぐに音量を下げる。
出汁の香る湯気越しに鑑識が奔走する姿。テロップとともに被害者の名前、年齢が読み上げられ、犯人は「20代男性」。報道とは何なのか、怒りに似たわだかまりが頭を支配。事件の詳細を聞くに連れ、胸が締めつけられてゆく。
そんな感情を置き去りに、さっさと場面は一新。
薄情だなと不快な眼差しを送ろうと、大臣のあたりさわりない記者会見を眺めているうちにすっかり他人事として処理されてしまう。
今日は目立ったトピックスがなかったらしく、番宣色の強い芸能情報、さらには『いびきでわかる重大な病気のシグナル』というミニコーナーまで追加。
自分では知りようがないだろとスルーしかけたとき、ちょうど遠くから父のいびきが聞こえ、チェックしてみると問題なくひと安心。
とっておいた煮卵を口に放り込む。昨日より味が染みていて美味いと感じながらスマホを手に取る。
早く食事がすんだので、少し念入りにネットをさらう。
すると突然の気配。俊敏な物音からして母ではないと判断。
「もれるもれるっ……おお、今から仕事か」
わざとらしいなと思いつつ、一応うなずいてみせる。ほんの数分前まで豪快ないびきをかいていたのに、という驚きも表情には出さず。
トイレをすませて姿を現したときには手に新聞。対面のイスを引っ張り出し、一服しはじめる。目を細め、天井に煙を吐く。
立ち昇る煙を逆に辿っていっては、たまたま目があったからしかたなくというように、
「どうだ、最近は……忙しいか?」
どれくらい前だったか。ほぼ同じシチュエーションで、まったく同じことを聞かれたとすぐに思い出す。昨今の景気からして、息子の働く会社が潰れはしないか探っているのか。
どう答えるのが正解だろう。ちなみに前回は何と答えたか……いや、父にとってはもともと「おはよう」と同じ意味かもしれない。
そこまで思い至ってから、ハッとする。まさか母と同じように自分のことを心配しているのではないか。
スマホをテーブルに置いて顔をしっかり父に向けると、字面を追う父の鼻頭に目があった。晩酌が抜けていないのか、少しだけ赤らんでいる。
目立つ毛穴を見ながら「まあ、何とか無理しない程度にやってる……今のところは特に問題ない」と曖昧に返事。一瞬目があうと父はうつむき、うまいこと新聞で顔が隠れた。
パラパラとめくっていた音が落ち着き、スポーツ欄に入ったとわかる。
ベテラン選手の大幅減棒、3年前、鳴り物入りのルーキーが早くもメジャー移籍。コメンテーター風の言葉を並べていた中でいきなり、
「彼女だか何だか……そういう人がいるなら、母さんにはいっとかないと。ほら、変に気にするから」
最近休日になると出かけることで勘づいた母が、それとなく伝えていたらしい。
父の背後にあるTV端の時刻表示にはまだ余裕があったので「早いうち、紹介できればいいんだけどね」と含みを持たせ、続けざまの質問にも短く答えてからそそくさと皿を片づける。
歯みがき、ヒゲ剃り後、ハードムースで前髪を立たせてから居間へ。
クローゼットを開けたと同時、お気に入りのボタンダウンのワイシャツが目にとまり、いつも迷うネクタイもすぐに決まった。
きっちり1回で結ぶよう気をつけてから、身だしなみを最終チェック。手を動かす間に今日の帰りはどの程度気温が下がるかを予想。そうしてだんだんと脳の回路をつなげてゆく。
身支度をすませると台所を通過し、玄関で靴を履く。
父が新聞を広げたまま首だけ向けて、すっかりTVに見入っている。手元に置かれたコーヒーカップからはまだわずかに湯気が立っている。
白髪の混じり具合が多くなった横顔に、
「じゃあ……」
ふり向きざま、言葉を続ける。
「あのさ、いびき……問題なかったよ」
「うん?」
「いや……さっきTVでやっててさ。何か、大病の疑いがあると変ないびきなんだって」
「もう入院、手術は御免だ」
「母さん……だいぶ食べられるようになったよね」
「……ああ、もうちょっとしたら起きるだろうから、朝食を……」
返事とひとりごとをつなげながら新聞を閉じる。ほのかに香ってきた豆の匂いにひときわ懐かしさが込み上げつつ、玄関の扉を閉める。
ドアを背にしてすぐに聞こえた母の声。おおかた予想がついたものの、ふり返って扉を開ける。恒例の言葉を聞いて「大丈夫!」と叫んでから再びドアを閉め、歩きはじめた。
見晴らしのよい県営団地の4階。
起きたときにはまだ薄暗かった空がすっかり白ばんでいた。どんよりした雲間の奥ではわずかに青空がのぞいている。
階段を下りきってすぐ、ポケットからスマホを取り出す。
通話着歴から「吉野加奈」をリダイヤル。
職場で出会って2年。正式につきあうようになってからだとまだ半年。その前からはじまったルーティーン。今日も長いことコールし、留守電に突入する寸前でつながった。
安心から一転、何ともいえない緊張。
「もしもーし……」
余計な雑念を払おうと、踊り場で足を止める。
電話口を通して相手のいる世界に入り込むくらい、聴覚を研ぎ澄ませる。
「おはよう……おはよー……」
声色を変えた何パターンかくり返してから耳を澄ます。
しばらくはモゾモゾと、布団や髪の擦れる音。日ごろから寝起きが悪いと自称する加奈を、決してせかさず、じっくり待つ。
「朝ですよー、カナさーん。起きてー、おーい……」
「う、うう……うん……」
とぎれとぎれの返事と、何回か鼻をすする音。
「おーい、おーーーい。おっはー、やっほー」
「……最後のって、山の頂上でいうんじゃない?」
ワンテンポ遅れのツッコミ。
あっ、そうかととぼけてはポツポツと会話がはじまる。
ひとしきり話し終えてから、突然「この前はゴメンね」と謝られる。
「いいよ、そんな……こっちこそゴメン」
「何か、いつも起こしてもらってるのに……今日も目覚まし、ふつうに止めてた」
珍しくしおらしい声。
以前ハマっていた海外ドラマの再放送を予想以上に見入ってしまったとのこと。面白いとしかたないよね、とフォローしつつ話題を変える。
「雨はあがったけど、まだちょっと寒い気がする……どう? 風邪ぎみっていってたけど。カナの調子、少しはよくなったカナ?」
ダジャレで失笑させてから、
「じゃあ、また……」
いつもの決まり文句でいい終えようとしたとき、今日は少しだけ時間があることに気がついた。
「今日はコンタクトレンズ、大丈夫だよね」
「えっ?」
加奈はいきなりの質問にとまどいつつ、
「う、うん……時間があるなって思ってても、朝ってあっというまに過ぎちゃうから。コンタクトも、何ていうか、タイミングよくつけられたり、どうしてもうまくいかないときがあって……」
「そうだったんだ。メガネでもいいんじゃないの?」
「メガネは……あんまり」
言葉を濁す加奈の思いがひしひしと伝わってきたので慌てて、
「メガネでも、別に……その、何ていうか……」
伝えたいことをうまく表現しようとするうちに、つい、
「か……かわいいって、思うよ」
ふだん面と向かって使うには恥ずかしい単語だったため、どもってしまう。やはりいい終えた瞬間から、とてつもない熱が頭に集まってくるのがわかった。
何げない会話だったはずが、一気に路線変更したなと思いつつ、せっかくだからとさらにつけ足してみる。
「コンタクトでもメガネでも……カナのこと、好きなのは変わらないから」
顔中に覆っていた熱はそのままに、今度は胸の鼓動が激しく打つのを自覚。
しばらく無言でいた加奈が、
「すっごく……目が覚めちゃった」
「うん……じゃあ、また後で」
たどたどしい決まり文句で電話を切るや、深呼吸。
朝っぱらから何とも大胆な……胸に手を当てバクバクする心臓を整える。今まで体験したことのない爽快さが体中をみなぎっている。
今日は仕事をきっちり切り上げ、加奈と食事でもしよう……階段を下りかけたとき、腰付近に鈍い振動。気のせいかと思ったけれど、ポケットに入れたばかりのスマホが受信していた。加奈からだ。
『いつもありがとう』
今日の仕事後を頭に思い浮かべる。
おなじみのファミレスを想像すると同時、以前映画を観た帰り道で加奈が食べたそうに見ていたお店があったことを思い出した。今日はそこにしてみよう。
今度の休みはどこに出かけようか。
映画以外にも、カラオケ、ボーリング。少し遠出したっていい。加奈が行きたいところはないか……もはや仕事そっちのけで、いろんな展開が頭を埋め尽くしてゆく。
今日は一日ずっとこの調子でいられたらなと、遠くに見えるわずかな青空に目を細めると、軽やかに階段を下りはじめた。