異世界②
雨のように降り注いだ言葉は、頭の中の乾ききった大地を潤した。それをわかったかのように、いつしか去っていた。
すっかり晴れ渡った空のもと、あらためて復唱。
やり残してしまったこと……?
そもそも不慮の死に対してそれはないだろうと思いつつ、二の句はつげなかった。
今まで体験してきた多くのこと、人との関係は続いてゆくというあたりはかなり納得させられたから。
人は死ぬまでにいろいろなことに直面し、何かを学んでゆく。膨大な量、少量の質。長く生きながらえるのであればそれに越したことはないけれど、かぎりがあるのは皆同じ。ものごとに意味を感じるかどうかも人それぞれ。
あやふやな空間と体で、とりあえず考えてみる。何より不安を紛らわせられる。
まずは自分のフルネーム……と、いきなり詰まる。それらしいのを挙げてみても何だかしっくりこない。
年齢は……いくつだっけ?
埒があかず、過去のできごとを思いついた順に検証してみる。
まず出てきたのは、一番長かったコンビニ店員の記憶。仕事後や休みをあわせ、同い年や年下、ひと回り年上の人たちと遊んだ日々。
座敷で焼肉を食べていたとき。網の上にギッシリ肉を置き、したたった脂でとんでもなく大きな火が上がってビックリしたこと。
何軒も回って酒を飲んだ末に行き着いた深夜のボーリング場。
誰かがフラフラした足取りで、わざと変な回転をかけて投げた球は勢いよくガーターゾーンを乗り越えた。隣のレーンに行ってしまってはえらいことになると一瞬で場が凍りついたけれど、境目をうまいこと転がり続けては何とか自分のレーンに戻ってきたミラクルな一投。
バーベキューやスノーボードでの一場面も思い出した。
その流れから、コンビニ前にしたアルバイトが蘇る。
初めての仕事は高校2年。単純な仕分け作業。
大勢でやると早く終わる分、決まって誤差が出た。ひとつひとつを見直すので余計に時間を食う。日雇いの外国人か初老のベテランの仕業かと思いつつ、あるときひとりでやっていたにもかかわらず数があわず、かなりショックだった。
展覧会の後片づけという変わった仕事をしたこともある。確か、大倉山駅からすぐの小高い丘。
なぜ鮮明に覚えているのか。そろそろ本気で就職先を探さなければという焦りの中、気晴らしにやった日雇い。何しろ目にした風景が理想的だった。将来こんな自然に囲まれて暮らしたいと素直に思い描けたから。
将来の伴侶と、その間で手をつなぐ子供。そんな夢が叶うよう目に焼きつけた。
ふだんはスーツ姿で接客。専用のデスクにすわり……ぼんやり絵面は浮かぶものの、具体的な仕事内容は忘却の彼方。
次に人との関係というところで、自分に近い順に思いを巡らせてみる。
父、母、妹。親戚。友人、顔見知り。さらには近所の住人や先輩、後輩、恩師。
仕事関係では同僚、部下、上司、取引先。常連客から並びの店の者……際限なく並べ上げたのがいけなかったようで、次第に個々の思い入れが小さくなってしまった。
言葉とは別に、訴えかける眼差し。
会話の中で、ふと動く眉。
話し終え、満足げに微笑んでから見える歯。
長年見てきた家族はどうしたって印象が格別だ。
父親……細面で団子鼻。
鼻が膨れている原因は、子供のころに近くで暴れる野良犬から友達をかばったときに噛まれた傷だといっていた。でも伯母の話では、幼くして罹った水疱瘡の名残らしい。
細身で一見頼りなさげだけど、怒るときは怒る。
ふだんなだらかな眉がつり上がっただけでかなり怯えたものだ。
基本的に愛嬌がある。自治会の集まりには積極的に参加。今思えば単に酒盛りのためだろう。そういう容量のよさは受け継がなかったようだ。自分はつい面倒だなと思ってしまう。
母親似ってことか。
でも母は思ったことを黙っていられないタイプ。父はたまに変にまどろっこしいいいかたをするから、やっぱり父親の血も引いているのだろう。
定年を迎えるにあたり、数年前からゆとりある出退勤に変わった。理由は母の手術、療養に専念するため。
大の野球好きで、子供のころはよく暗くなるまでキャッチボールをした。ただし高校生になってからは極端に減った。
覚えているのが、20歳を過ぎて久しぶりにキャッチボールをした帰り道。フリーターという肩身の狭い状況でいた自分に、父は「上京してすぐのころは仕事を転々としていた」と初めて明かしてくれた。
母親……還暦間近。
妹が家を出てから一段とお小言が増えた気がする。
働きはじめた当初、起きてすぐ家を出ていたため「朝はちゃんと食べなきゃダメでしょう」と準備されるようになったし、少しでも様子がおかしいと見るや「小さいときから胃腸が弱かったんだから、定期検診はちゃんと受けときなさい」と注意する。
くしくも母自身、癌による胃の全摘手術を受けたからだ。家族の思い出の中で、妹の結婚式に次ぐ大きなできごと。
その日はかなり鮮明に覚えている。
朝早くから夕方まで、まるで時間が止まったように長く感じた。家族3人何をするでもなく、ただただデイルームに缶詰め。
切除した臓器の多さに驚いた。
人ひとりからこんなに中身を取り出して平気なのかと疑ってしまう量。
手術室からストレッチャーで運び出された母はまだ麻酔が残った状態。看護師が止める間もなく駆け寄った妹がたまらず呼びかける。
意識が覚つかないながら、母は開口一番、
「ああ……先生、おかげさまで……ありがとうございます」
気丈にふる舞おうとするあのかすれ声は忘れられない。
その後も妹をはじめ、思い出せるかぎりのできごとをふり返った。
最近はあまり会えずにいる友人も何人か思い浮かんだ。けれどより深く感情が入ってしまうと、とたんに映像がボヤけた。
あるワンシーンをフォーカスしては全体の記憶を奥底に沈めてしまう。ひとりのあだ名に引っかかり、いろいろ頭を巡らせているうち、ことごとく周りの人が消し去ってしまっていた。
次に、やり残してしまった具体的内容について考えてみる。
さては、物の貸し借り?
借りたものはすぐに返す。まさに現時点で借りているものはさすがに勘弁してほしい。もし思い出せたら、しっかり返すことにしよう。
口約束だったとしても、単純に忘れているだけで決して悪気はない……ここまでくると、本来の意味あいとは違う気がしてきた。
今度は逆転の発想。まずありえないだろうことに目を向けてみた。
もしかして、恋人?
そもそも自分の器として、いる可能性が極めて低い……そう、オクテだから。
出だしからくよくよ悩み続けているのがよかったようで、頭の片隅からほんの小さな欠片が輝いた。
まだつきあう前、初めて2人で観た映画。タイトルは忘れているのに、面白かったねと顔を向けて話したことは覚えている。理想のデートプラン、サプライズのプレゼント……実現したかも定かでない、妄想とも思えるかなりぼんやりした記憶までゴチャゴチャ浮かび上がる。
バラバラに飛び散ったピースを丁寧に拾い上げ、ひとつひとつくっつけてみる。
背丈はふつう。
髪は短め。色は真っ黒でないダークブラウン。少しくせっ毛。
ドラマ好き。海外のものをよく観る。
それで映画に誘い、帰り道に告白……うなずいてくれた。今からすれば、そんなドキドキが楽しく、心地よく思えてしかたない。
やがてリアルに感覚をイメージすることで、そのまま目の前に投影できるようになっていた。
感じたままに具現化させた果てに、自分の部屋に舞い戻ることができた――――
前日の夜だろうか。
心から落ち着ける自分の部屋。暗がりなのになぜか視界は良好。
現実ではありえないと決してうろたえず、感情をフラットに維持することに徹した。そうでもしないかぎり、すぐに幻になってしまう気がしたからだ。
折り畳み式のベッドが部屋の半分を占拠。残り半分のスペースに脱ぎかけの服、雑誌や未開封の郵便物。何かの空き箱、会社から持ち帰った資料。そこでようやく仕事の内容を思い出したけれど、あえて追求せず。
散らかした張本人は、いたって気にしていない様子。頭からすっぽり毛布を被ってできた山をかすかに上下させている。
本格的な冬を前にした季節。
ヒラヒラ揺らめくカーテンから見えたガラス窓にはうっすら結露。縁にマグカップが置かれていて危なっかしい。
外からは、しとしとと降る雨音。階下の団地群を静かに走り抜ける車の音。ライトの光がゆっくり通り過ぎる。
寂しげな情景とともに何だか情けなくなってしまい、たまらず部屋を出る。
両親は2人ともぐっすり眠っていた。
正解を知りたいというように、さっそく顔を覗き込んでみたけれど、そんなときだけ影が邪魔をした。
布団から出ている横顔。
しげしげ眺めているうち、本当に自分の親なのかと疑念が渦巻き出したのでやめにして、再び自分の部屋に移動。歩くというより、わずかな風の流れに身をまかせる感じ。
動きにも慣れ、思いきって自分の寝顔も見てみた。けれどどうもピンとこなかった。
これが自分だと理解しているのに、誰かから「別人だ」といわれたら納得してしまいそうだった。
そんなことよりと、すぐに気持ちを切り替える。
死ぬときには身辺をきれいにしておきたいと常々思っていた。落ちているものを手に取り、拾い上げられることを確認すると、さっそく片づけを開始。
最初は物音ひとつにひどく神経を使っていたけれど「本来いない者が音を出せるはずがない」と開き直り、作業継続。
実質小一時間程度の片づけがひととおりすんだところで、隣の部屋から何やら声がした。
とっさに、体が引き寄せられる。
正面に向き直った母の、布団に包まれた肩口が沈む。どうやら寝返りをしながら言葉を発したらしい。
夢うつつの中、もしかしたら気配を感じたのかもしれない。
母にだけ音が聞こえるはずはない。それでも一応隅でじっとしていると、すぐに深い寝息を立てはじめた。
ホッとして部屋に戻ろうとしたとき。
再び声がした。
おそらく先ほど聞いたのと同じ、ひとつの単語。
これまで一番多く耳にしてきたに違いない自分の名前。
やさしさ、厳しさ、あらゆる感情が詰まっている気がした。あまりの自然さで、思わず返事しかけた。
すっかり小柄になってしまった母。もともと少しふくよかだった体型が、今やほっそりし、声も張りがなくなってしまった。
母が名前を呼ぶとき。
かならず一度ではすまない。
最初にひとこと声をかけ、再び名前を呼びながら、
「忘れもの、ない?」
離れているときは言葉尻を長く、より大きな声で聞いてくる。
学生のころは鍵、ハンカチ。社会人になってからは帰宅時間、次の休みはいつか。
そして最後に「気をつけて行ってらっしゃい」。
数年前までは単なる朝の一場面。
無性に込み上げた熱い感情が溢れたとたん、目の前の景色は消え去った。
――――気づけば病院の待合室。
今度は総合病院から小さなクリニックほどの広さ。漂う空気もだいぶ和やか。
そこでまた、考えにふける。
ひと口に「やり残したこと」といっても、捉えかたはいろいろあることに気づく。
たとえば、子供のころの夢。
小学校の卒業文集に、漫画家かプロ野球選手と書いた。
中学校のときは、教師になりたいと思った。
ただそれらはいつしか、あきらめた。
夢を叶えるにはとてつもない努力がいる。自分には足りなかった、ただそれだけ。
教師になるにはまず大学合格。卒業後に教員免許取得。さらにその仕事を続けるために、よりいっそう頑張らなければ務まらない。
プロ野球選手なんて、なおさらだろう。ただ好きだから、人より上手いでは話にならない。そんな、なりたくてもなれない理由を身をもって知らしめられ、夢の道を自ら下りたのだ。
現在の仕事が分相応。
他人からは冴えない男と見られているかもしれない。自分自身、ときに忸怩たる思いに駆られている。でも一定のやりがいがあってこそ続けているし、自分にしかできないとポリシーも持っている。
たとえばもっといい給料なら、生活はラクになる。休みもたくさんあれば、好きなことに時間を使えるし、夢が広がるだろう。もしチャンスがあれば、決して臆することなくひたむきに叶えたい。
そういえば、ギターをカッコよく弾きこなしたかった。部屋の隅でケースにしまわれて埃まみれ。
英語なんて、もうずっと前から本格的に習ってみたいと思っている。ひととおり会話ができるようになれば、いまいち消極的な性格も少しは変わるんじゃないか……あと手話も教わってみたい。
エジプトのピラミッド。
死ぬまでには自分の目で見てみたい。
南半球の国にある巨大な岩……そう、エアーズロック。あとモアイ像。
そういえば彼女は大学生のとき、友達とオーストラリアに行ったことがあるといっていた。その中で「モアイ像って、どこの国?」と聞いてきた。
ああ、やり残したことって……子孫繁栄か。
そういうことでもなさそうだ。
考え尽くしてしまうと、またスタート地点に戻ってくるというか、考えじたいに疑問が生じてくる。
もしかして、これは壮大な夢ではないか。本当に、自分は……?
すると突然、どこからともなく、
「考えたところで結局は、そのとき行動できるかどうか。覚えてはいないだろうし、どうしようもないといえばそれまでだが……」
周囲の空気が一瞬にして張り詰める。
同時に、無限の空間が広がりはじめる。あてもなく漂う、塵ほどのちっぽけな存在になり果てた感覚。
そしてそう感じることにやすらぎを覚えてしまう不思議な世界。
息せき切ってでも質問したい気持ちを抑え、どうしても話をしなければいけない冷静さで沈黙を維持できた。周囲の変化も、そのひとと話をするために必要な環境として受け入れようと集中。
そんな心の揺れ動きを落ち着かせるのに時間がかかり、いざ会話となると何ひとつ言葉が出なくなっていた。
今の気持ちをどう伝えよう……と、躊躇していたとき。
胸のあたりに急激な熱が集まってくるのを感じはじめた。熱は本来あった体の輪郭を呼び起こすとともに、外側へ広がっていった。
静脈のような繊細さ。またしても新たな感覚。
そしてそれはまさに人間が感じる五感そのもの。
すかさず胸に手をあてがう。
話を切り出そうと思いつつ、体の部位を確かに感じられる喜びでいっぱいだった。
「何だか、ものすごく胸が熱くて……息苦しくなってきました」
「今のきみにとって、この世界は一時的であり、とどまれる限界の合図だ。もうじききみは現世に戻り、いつものように朝を迎える。もちろん、ここでのできごとはきれいさっぱり忘れているだろう」
「考えごとをしているときに一度だけ、自分の姿を見ることができて……」
「欲が芽生えるのは完璧な魂でない証拠だ。この世界でも、それが自制できないものは自分自身の存在を見失ってしまう……今のきみではしかたなかったとして、己の欲に翻弄され、さまよい続ける可能性があったことだけは理解してほしい」
「すみません、でも……」
「あとはきみが最後に思ったことだが……もしきみが何らかの形で行動に変化があったとしても、ここへくることに変わりはない。たとえ朝、寝過ごしたとしても、外に出るのをやめたとしても。残念ながら、それだけはどうしても変えられない」
話を聞き終えたとたん、胸の熱さを超える感情が込み上げてきた。それは悔しさ、哀しさ……ひとことでは表現できない思い。
言葉を伝えたいのに、どうしても口から出てこない。
胸にあてがっていた手がいつのまにか拳を作るとともに、長らく経験していなかった感覚にようやく気づく。
涙が頬を伝っている。
違和感だらけだった世界でも、涙が流れる感覚はまったく同じだった。
そして気づいた。明日が来ないという現実はとてつもない絶望なのだということに。
それならどうして、こんな……と、混乱する中で生まれた自問にも「何よりたいせつな関係を、きみが築けるかどうかだからだ」と、そのひとは答えるに過ぎなかった。
「きみ風にいうならば“また後で”。人間同士がそうであるように、魂においても交流の尊さを育めるように……次に会うときは、できればもっと和やかな場所がいい。さらにはわたしにも、ちゃんとした姿を提示してほしい。それがわたしのささやかな願いかな」
体の隅々まで行き渡った熱は再びゆっくりと中心に向かい、共鳴。
いよいよ手足を動かせるとした直後、ものすごい疲労感が襲ってきた。心地よさを求め、ふわふわとした床に体を横たえる。
視界はそのひとの陰影をわずかに見せつつ、次第に暗転。ずっと思い出せずにいた記憶の数々が、失いつつある不思議な感覚と入れ替わるように埋め尽くしてゆくのがぼんやりわかった。