異世界①
仕事を中心とした一日の行動を頭で組み立てながら坂道を下り、バスに乗る。
駅に着くと、改札に続くエスカレーターで順序よく上へ。この状態は、何だか子供のころに見たペンギンが階段状の氷山を上がってはスロープをくり返す玩具のよう……想像が深まりはじめるも、混雑したホームに出てすぐに頭から消し去る。
滑り込んできた電車のドア面に貼りつく背中が目に入り、軽くため息。
降りる人はごく少数。切れ目を見て前進する先頭。そして案の定、遅れて出てくる者とかちあう。
毎度の鬱憤もろとも乗り込む。
着いたときよりパンパンに満たされた電車が、やれやれと聞こえる「シュゥーーー」と威勢よく音を吐き出し、重々しく動き出す。
あと数駅で終点というころにはいくらか車内にゆとりができ、片手を伸ばして吊り革を掴む。
何げなくポケットからスマホを取り出すと、受信履歴があるのに気がついた。
開けようとしたとき、車内アナウンス。
「先ほどM駅近くの踏切にて、人が立ち入ったとの連絡を受け、安全確認をいたしました関係で、ただいま7分ほど遅れて運行しております。ご利用のお客さまには大変ご迷惑を……」
覚えているのは一面鈍色の空。
突然、いつもの景色がありえないほど斜めに傾く。気づいたときにはグググッと、体全体が進行方向へ引っ張られた。
同時にけたたましい金属音。
スマホをしまうより、耳を塞ぎたい気持ちよりも、まず吊り革を掴む。
何とか踏み止まろうとしたけれど、隣からものすごい力で押される。ドミノ式に倒される中、女性の甲高い叫び声。
続いて「何だ何だ」「危ない!」「うわぁー」などと、あちこちから声があわさる。
どうしようもない圧迫で目を閉じ、しばらくは真っ暗。
――――気がつけば、総合病院の待合広場。
照度を抑えた一区画のソファーにすわっている。受付に人の姿はなく、整然と並ぶ空席。
ピークを過ぎた閑散か、気配の名残。医療施設を裏づける、うっすら薬品のにおいが鼻に届いた、気がした。
声をかけるべき人がいないとわかるや、静けさだけでなくさみしさまで広がってゆく……そう感じたとたん“受付”と認識していた場所がぼやけだし、周りの色と同化。奥行きを失うとともにわずかな気配もぱったり消えた。
目に入っているすべての立体感が消滅。
“ソファーにすわっている”というのが果たして正解かどうか、わからなくなる。
見ていたはずの景色の変貌ぶりに愕然。何とか視線をキョロキョロさせながら、率直な思いを表現。
何なんだ、これは……?
初めての現象を受け入れるのに気持ちが追いつかない。目の前の景色はついにワントーンの色となっては明暗まで把握不能に。
体全体が水に包まれたような……いつのまにか、しっかり地に着いている感覚がなくなっていた。身軽というには安易で、実際はだるさのような重たさが強い。
頼りにすべきものを何ひとつ見出せず、決して寒くはないのにブルブル震えはじめる。
夢なら覚めてくれ。
いや、夢じゃないとわかっているから、こんなにも恐怖している。
とにかく落ち着けと、ほとんど感覚のなくなった体をせいいっぱい丸め込ませ、記憶をもう一度遡ってみることにする。
キキキキキキキキキキキキキーーーーッ!
耳を劈く急ブレーキ。
そうだ、今日はまだ電車から降りていない……
混乱を極める頭の中で、ようやくひとつの手がかりを見つける。けれどそれを突き詰めようとして思考停止。
強い衝撃を受けたはずなのに、体のどこにも痛みがない。
もしかして、ここは警察が管轄する部署か。事故の証言を聴取するために待機しているのか。
そういえば、スマホは無事か。
今何時だろう。
あらためて乗車時の記憶を思い出そうとした瞬間、
「きみはすでに、物体として存在していないのだから……」
すぐ近くで発せられた声に、とっさに反応。
顔を向けたつもりだったけれど、体の無感覚化により“顔を上げたことにする”と即座に変換。
目をつぶってはいない。
では今、いったい何を見ているのか……そんな不安の追及はやめなければいけないと思った。
最初に何をもって病院と思ったのか。考えの不信で押し潰され、すべてどうでもいいと投げ出してしまいそうになる。
感覚のみの世界。
そんな中にいた、誰か。
ごくわずかに感じる気配。おぼろげな輪郭。
そのひとはどんな格好をしているのか。
そもそも自分は正気なのか。
判断をつけるにはあまりに情報が乏しい中、再び声がする。
「うむ、すべてがきみの心を反映したものであり、きみの創造に過ぎない」
今度は反応するも何も、そのひとが自分に話しかけているとして、体を動かそうとは思わなかった。何より声を受け止められたことにかなり不安が解消できていた。
それを見定めるかのように、言葉が続いた。
「きみがわたしをどう扱うのか、非常に気になるところではあるが……何よりきみが、きみ自身の心で決めているのでどうしようもない。わたしを神様と思うならそれでいい。先祖の縁者、水先案内人。何であれ、すべてがふたしかなものとしか捉えられずにいる。というのも、今きみが置かれている特別な状態によるところが大きい。つまり……」
「僕は死んでしまったということですか……?」
声に対するとっさの反応。
それは長らく頭を混乱させていた問題の端的な答えであり、我ながら驚いた。もちろん口を開け、喉をふるわせた感覚はまるでない。
それでも、とにかく会話を成り立たせようと集中していたのがよかったかもしれない。
少しの間を開けてから声がかかる。
「何の前触れもなく、突然の変化にとまどうのは無理もない。わかりやすく表現するならば、あの世……きみは魂として存在している」
「魂……?」
「まずはそれをしっかりと認識する。そうして、魂としての意義を見出すことが目的となる。いうまでもなく現世における地位は消滅。きみは誰でもない、ひとつの存在となる」
聞き終えた瞬間、心を埋め尽くしていた多くのわだかまりがふっと消えた。
たとえるなら、水中でわけもわからずもがき続けたあげく、ようやく水面に上がって呼吸できたような……かわりに、生まれてからこれまで包んでいたものが剥がされた感覚になった。ただそれが逆に、気持ちを楽にさせた。
驚くほど空っぽになった頭からは結果、純粋な疑問が次から次へと湧き出てきた。
そのひとは自分の内なる変化をつぶさに汲み取っているように、話を続けた。
「これまで過ごしてきた時間の概念もなくなるわけだが……その尺でいえばおおよそ100年といったところか。きみがこの世界を認識し、魂として存在を発展させるまで。さらに生まれ変わりを望むのであればそれ以上、かぎりはない」
「そしてその100年を有しても魂を認識できない者には、無の世界が待っている……地獄と表現すればわかりやすいだろう。きみは他者を受け入れようとしているわけだから、それはないだろうが」
「わたしが伝えたいのは他でもない。先に触れた、今きみが置かれている特別な状態についてだ。実は、きみはまだ魂として認められずにいる。いわゆる現世において、まだやり残してしまったことがあるようだ。それによって先の100年に影響が生じてくる」
「断っておくが、つながりそのものを失うわけではない。きみが生まれてから得た、感じた、心を通わせた多くのひと、関わったものごと……それらが今後の世界において、とても重要だからだ」
「しばらく考えてみてほしい。記憶には留められずとも、有意義なひとときになるはず……いずれにせよ、きみはまた同じ朝を再び迎え、ここへやってくる。そのときには少し違った魂となっている。いや、むしろそうなってくれることをわたしは望んでいる」