回転呼び
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、つぶらやくん、質問かい? 久しぶりだねえ。
――どうして人間、くるくる回ると目が回るんですか?
ああ、不思議な上に気分悪くなるよねえ、目が回る感覚。あれは、ものを見る機能そのものが影響を与えているんだ。
前にも授業で話したけれど、目さえあればものが見えるわけじゃない。目で見たものが脳に伝わって、ようやく我々は見えると認識する。
しかし、目にするものが次々に変わったらどうなるだろう? ひとつの景色を認識する前に、どんどん別の景色が飛び込んでくる。しだいに脳の処理が追い付かなくなり、目がけいれんを始めてしまうんだ。
こうなってしまうと、たとえ回転をやめても目は勝手にあちこちを見てしまう。止まっているはずなのに、景色が動いていくもんだから、脳が出す認識は「意味不明」のひとこと。
目も混乱、頭も混乱。現場からブレーンまで仕事ができんとなれば、もはやまっすぐ立っていることすら難しいというわけだよ。
そうして身体を狂わす力があるせいか、回転には何かと力を持たせる傾向が、創作にはあるねえ。
遠心力はもちろん、風を発生させるのに回転。異次元を脱出するのに回転。無駄のない無駄な動きという、アニメでお約束な高速回転。道具もなく、今すぐにでもできる動作だから、なじみ深さはぴかいちだ。
先生が体験した話なんだけど、聞いてみないかい?
先生が中学生のとき、毎年、学年劇をしていた。
オリジナルの脚本もあれば、有名な作品に材をとっていることもある。
今回の先生たちのクラスは、「走れメロス」が題材だ。
メロス、セリヌンティウス、ディオニス王、メロスの妹夫婦、フィロストラトス……キャストらしいキャストはこんなところだ。
あとの人員はエキストラだな。最初にメロスに質問される老爺以外は、たいていが町の住人か、メロスを襲う山賊役。クライマックスでメロスにかき分けられる群衆もしかりだ。
先生は人前に出るのが苦手だったから、群衆になれたことはラッキーだった。
その他大勢とは、つまり舞台における寄るべき大樹。
ひとりで舞台に躍り出ることなく、「木々」の一部として振る舞っていれば、恥をかくことはない。
先生は冒頭でメロス役とすれ違う、暗い町民集団のひとり。そそくさと舞台を横断し、袖で胸をなでおろす。
先生は山賊役じゃない。出番はあと、クライマックスでセリヌンティウスを取り巻く、やじうまの一人としてのみ。
ほっと胸をなで下ろし、やがて始まったメロスとディオニス王のやり取りを見ながらも、袖の隅で神経質に足踏みする、女子の一人が目に入る。
メロスの妹役だ。
原作では地の文で存在と動作を知られるばかりだった彼女が、この劇ではしっかりセリフつきで登場だ。
指摘のある通り、疲労困憊の兄へ質問の雨を浴びせるし、いざメロスが出発するときに、オリジナル要素で、ひとりそのことに気づいて引き留めようと飛び出すし、よくも悪くも、出しゃばってくれる。
――内気設定はどこにいった、内気設定は。これじゃむしろ内弁慶じゃないか。
キャスティングも、普段は活発な女子が選ばれたものだから、クラスメートにとってはいつもの態度を思い出し、あやうく噴き出しかけるもの。
その彼女が、メロスたちのやり取りを見ながら、どんどん顔にいら立ちを浮かべていくんだ。
よほど緊張しているんだろうな、と遠目に眺めている先生だったけど、ふと彼女がおかしな動きを見せる。
それが回転。
唐突に両腕を広げた彼女は、その場でくるくると駒のように回り出す。
片脚で立つピルエット。二回や三回などでは止まらない、よどみのない回り方。相当にバレエをやるのかと、素人目に感じたくらいだ。
すぐ数えきれなくなった回転の中、メロスが走り出す段になって、彼女はぴたりと止まる。
裏方があつらえた、羊飼いイメージのスカートが、慣性のままになびくとき。すでにそこには緊張した顔はなく、きりっと前を向く彼女の姿があった。
それから一転、彼女の妹役は、なんともハマり役との評価を得る。
リハーサルで何度か見ているが、本番になって目覚めたといおうか。質問のシーン、引き留めるシーン、いずれも鬼気迫るものを感じる演技だった。その割に、結婚式のシーンではえらく神妙な態度で通す。
「女って、化けるもんなんだなあ」と感心する先生の中で、じわじわ彼女への興味が湧いてきたんだが、そうして目を向けてから、ようやく気付いたことがある。
演劇の時ほどじゃないが、彼女は自分がアクションを取る時、その場でくるくると回るんだ。
体育の授業中なんか、顕著だったな。
跳び箱、走り幅跳び、マット運動……いずれも並んで列になったあと、一人ずつ臨まないといけないシーンがあるだろう? 先生がそれまでの人生で、嫌いな瞬間ベスト5には入る。
その時に、彼女は回っていた。動作を終えて、列の最後尾へ戻った際に、くるりと。
一回転のこともある。二回転のこともある。だが舞台袖で見せたような回り方をすることはなく、誰かが後ろへ並びそうな気配がすると、もう回りはしなかった。
緊張に対する、おまじないの一種だろうかと、家に帰って母親に少し話を振ってみる。
聞き始めの当初こそ、先生と同じような感想を話す母親。しかし、彼女の回転回数があまりに頻繁であることを聞くと、少し複雑そうな表情を見せたよ。
いわく、いくら慣れていても、回りすぎは体に良くないものを招く恐れがある、と。
「あんた、うちの裏庭にアロエが生えているのは知っているだろう? これから毎朝、学校へ行く前に、その様子を確かめな。
緑のままなら、それでよし。ただ先っちょが赤くなっているようだったら、彼女に注意しておあげ。今日は回るな、とね」
なんとも奇妙な話だ。
それでも先生は律義に、家の裏手の壁際に生える、とげとげとしたアロエを見る習慣をつける。
ひと月、ふた月と時間が過ぎ、その間で一度もアロエが赤くなることはなかった。正直、気を抜きかけていたね。
その時は、合唱コンクールの日にやってきた。
地域のホールに現地集合とのことで、少し早めに起きて裏庭へ向かう先生は、カーテンを開けた先に、一匹のチワワがいたんだ。
家で犬は飼っていない。首輪もなし。
野良犬と思しきその白いチワワは、自分の尾っぽを追うような形で、先生がいつも履くサンダルのすぐ先で、くるくると回っていたんだ。
なんとも物好きな……と、のんきに眺めていた先生だが、すぐにそうもいえなくなる。
チワワの足が地面につまづいたかと思うと、身体をべしゃっとうつ伏せにくっつけて、動かなくなってしまったんだ。
吠え声ひとつあげない。手足も動かす様子がない。先ほどまで熱心に尻尾を追いかけていたのに。
そっと庭へ降りた先生が、いくら体に触れても、チワワは目を閉じたまま反応を見せない。その毛はえらくしなびていて、一気に年取ったかのようなくたびれよう。
まさか、こと切れたのかと思いつつ、先生はアロエを振り返ってみる。
これまで欠かさず緑色を帯びていたアロエの肉厚な歯は、いずれも先端から数センチにかけて、血のような赤色を浮かべていたんだ。
先生はすぐに家を出た。
彼女は今回、合唱コンクールの指揮者に選ばれている。
彼女は間違いなく、回る。いつも彼女は緊張しそうな場面で、回転を見せていたんだ。
皆の前で指揮台に立つ今回のイベント。回らずにいてくれるとは考えづらい。それがたとえ、本番間近でなかったとしても。
バスを降り、集合時間の40分以上前に、先生はホールへ通じる階段下へたどり着いていた。
彼女はいた。階段のてっぺんに。両腕を伸ばして、階段のふちで、あのときのようなピルエットを見せながら。
「やめろ! 回んな!」
先生が一段飛ばしで、彼女の元へ駆け寄ったのと。
不意にぐらりとバランスを崩した彼女が、先生に向かって身を投げ出したのは、ほぼ同時のことだった。
彼女の階段への直撃は、先生の背中がクッションとなって、避けられた。
何度もせき込むほどの痛みだったが、いま先生の胸に頭を預ける彼女の顔の前では些末なことだ。
彼女の顔は、すっかり老いていたんだ。
顔全体に浮かぶしわは、すでに何十年もあったかのように深く刻まれている。茶色いシミがあちらこちらに浮かび、かろうじて吐く息もまた、加齢した者特有の臭いを放っていた。
今朝のチワワを見る限り、その弱々しい息もまた、いつ途切れてしまうかも分からない。
どうにか、早くに来ていた先生の元へ彼女を運び、病院へ連れて行ってもらった。この件はみんなには伏せ、あくまで急な体調不良で通したよ。
あんな老婆のような顔、誰だって見たくないだろうし、彼女だって見せたくはないだろう。
その後、彼女は学校へ戻ってくることはなかったよ。
母親にことの顛末を話すと、命のサイクルを進め過ぎた、と話してくれたよ。
回転で緊張が消えたのだろうが、あれは先を、未来を生きている自分の平静を前借りしていたのだと。
アロエの対策は、母親も祖母から聞いていたらしい。あれが赤くなるときは、未来の尽きかけているとき。
今をしっかり生きて、未来を貯金しなければいけないときを示す、とね。