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【コミカライズ】聖女でなくても私は今、幸せです

作者: 立草岩央

「聖女の力を失った君に、もう用はない」


ある日、ティナは聖女の称号を失った。

何の前触れもなく、突然の事だった。

人々を癒していた彼女は、一転して称号なしの人間へと変わった。

皆がその有様に失望する。

力ある称号を失う前例はある。

しかし、聖女ほどの力が失われるとは誰も思わなかったのだ。


「称号のない女に、利用価値があるかね?」

「だった、という意味で考えるなら少しはあるかもしれない。ただ、私の家には持ち込めないな」


称号は生まれながらにして持つ、才能のようなもの。

それを持たない者は、無能に近い扱いをされる。

位の高い貴族社会では到底生きていけない。

元が平民上がりという事もあって、ティナは厄介者のように扱われた。

治癒も祈りも出来ない者に、意味などない。

今まで好意的だった人も全員が手のひらを返し、人々の間でたらい回しにされていく。

まるでティナ自身には、何の価値もないと言わんばかりの待遇だった。


「ならばあの男の元へ、見合いに行かせてしまおう」

「あの男?」

「あぁ……あの『剣鬼』の……」

「成程。その手があったか。しかし彼も、聖女を失った女を気にいるかどうか……」


何かを発言する機会もなく、勝手に決められる。

ティナはどうにか、目まぐるしく変わる人の心を受け入れるだけで精一杯だった。

称号の有無だけで、此処まで変わるものなのか。

かつてティナは聖女の力を見出され、身寄りのない平民から一気に持ち上げられた。

人々から多くの期待をされた。

故にそれに答えるために様々な人を癒し、救ってきた。

だと言うのに、力を失っただけでこのザマだ。

平民のクセに聖女など生意気、と嫉妬の視線すら向けられていたが、かつてのままの方が遥かにマシだった。

とうの昔に、彼女は居場所を失っていた。


「私には……もう、戻る場所なんて……」


多くの失望を前に、冷静でいられる訳もない。

たらい回しにされる中、彼女は何も言えなかった。

そうして聖女だったという過去だけが残り、何れは捨てられるのだろうという予感だけが大きくなる。

最終的にティナは、ある貴族の元に見合いに出される事になった。

剣鬼と呼ばれる辺境伯、アルバトロ家の屋敷である。


「お待ちしておりました。さぁ、どうぞこちらへ」

「あの……よろしくお願いします……」

「とんでもございません。貴方のような方が、アルバトロ家に来ていただけるとは……今は亡き先代様も、お喜びになることでしょう」


馬車に乗せられ、屋敷を訪ねると執事らしき男性が出迎えた。

人が来訪すること自体が稀なようだ。

聖女ではないティナを快く迎え入れる。

内部は煌びやかな様相だったが、目立つのは数々の剣。

博物館か何かのように、大小様々な剣が壁に掲げられていた。

剣鬼と呼ばれる当主の威光が示されている。

多かれ少なかれ、委縮してしまうのは仕方のない事だった。


「それでその、当主様は?」

「それが……今は、剣の鍛錬中でして……」


居間に通されたティナは、執事の話を聞いて合点がいく。

剣鬼と呼ばれた辺境伯、ディオン・アルバトロ。

隣国とのいざこざが続く中、かつて剣一本でそれを制圧した実績を持つ。

今では存在するだけで国防となる抑止力、剣に狂った鬼と噂される人物だ。

常に剣の鍛錬をしていても不思議ではない。

彼女は今までの噂から、脳裏で鬼の面のような表情を想像してしまう。

するとその直後、ガチャリと扉が開く。

ティナが思わず身体を強張らせると、貴族然とした格好の赤髪の男性が部屋に入って来た。

結構な強面である。

鬼、とは流石に言い過ぎだが、常に鋭い視線を崩さない。

威圧感を与えるような、そんな表情。

加えて鍛錬を終えて汗を流した後なのか、少しだけ身体が火照っているように見えた。


「終わったぞ」

「あぁ、ディオン様! 今日は聖女様が訪問される日ですから、鍛錬はほどほどにと忠告しましたのに……!」

「気づけば時間が経っていたからな。許せ。だがこれでまた一つ、新たな剣技を編み出せた。これでまた俺は、強くなれる」

「は、はぁ……」


執事も少し呆れているようだ。

しかし剣に関して並々ならぬ執念を感じる。

やはり、この人が屋敷の当主で間違いないとティナは悟った。

同時にディオンと呼ばれた男性は、彼女の方へと向き直る。


「そうか、話に聞いていた聖女か。待たせて済まなかった」

「いえ……それに私はもう、聖女ではありませんので……」

「そうだったか。まぁ、どちらでも良い。名前は何と言う?」

「ティナ、と申します」

「ティナか。俺の名はディオン。ディオン・アルバトロだ。よろしく頼む」


かなりの低音が部屋に響く。

それからジッとティナの方を見つめてきた。

こちらを見透かしてくるような、刺さるような視線だった。

どうにも落ち着かない。

何か粗相をしただろうか。

沈黙が流れ出し、ティナが俄かに焦り出すと、ディオンは不意に視線を外して来た方向へと戻ろうとする。


「では、俺は鍛錬に戻る」

「お、お待ちください、ディオン様! まさか、これで終わりという訳では!?」

「……ダメか?」

「駄目です。他貴族の方々に、何と説明するつもりなのですか?」

「そういうものか」

「そういうものです」


執事に注意されると、彼は迷ったように立ち尽くす。

やはり自分のような者が来ても、迷惑なだけだったのか。

それもその筈だ。

自分は聖女ではないのだから。

ティナは自責の念に駆られる。

すると彼はその様子を垣間見てから、小さく呟いた。


「……では、鍛錬に付き合え」

「えっ」

「俺に出来る事は、これ以外にないからな」


そう言ってから、ディオンはティナを屋敷の隣に造られていた、道場に連れ出した。

何故なにゆえ、鍛錬。

剣鬼と呼ばれた彼相手に、剣の稽古をするというのか。

聖女ですらない、平民同然の自分相手に。

一体、何が起きているのだろう。

疑問ばかりが浮かんで、拒否も否定もする間もない。

静まり返った道場に連行されたティナは、執事と入れ替わりで現れた老婆メイドに更衣室へ案内される。

採寸まで取られ、されるがまま、ピッタリの練習着に着替えさせられる。

そうして恐る恐るティナは、既に着替え終えたディオンが待つ、広々とした道場に足を運んだ。

対面した二人は暫く無言だった。

ディオンが真剣な表情で、彼女の姿を見つめていたからだ。


「あ、あの……?」

「君に合う剣を調べている」

「顔を見て分かるものなのですか?」

「容姿だけではない。出で立ち、立ち振る舞い、そこから放たれる雰囲気。この屋敷にいる者は、全員剣を持たせているが、それは全て俺が選び、渡しているモノだ」


そう言って、彼はおもむろに背を向ける。

道場の奥にある倉庫の扉を開き、その中へと姿を消した。

どうすれば良いのか、考えが纏まらない。

思考が乱れたままティナがソワソワしていると、彼は二本の剣を手にして現れる。

一つは踊り子が練習で使いそうな、非常に軽い木刀。

もう一つは、普通の剣と遜色ない重々しい木刀だった。

彼はその内の一つ、軽い木刀をティナに手渡した。


「これを使うと良い」

「ほ、本当に稽古をするのですか? 私の剣が、ディオン様の相手になるとは、とても思えないのですが……」

「言った筈だ。俺に出来るのは、これ位だと。さぁ、構えてくれ。来ないのなら、こちらから行くぞ」


何の合図もない。

唐突に、剣の稽古が始まった。

大きく振りかぶったディオンの木刀を、ティナはどうにか受け止める。

カンッ、と軽くも大きな音が道場内に響いた。

とは言え、稽古というにはあまりに杜撰ではあった。

圧倒的な体格差だけでなく、あの剣鬼相手に勝てるとは思えない。

防戦一方である。

そしてディオン側も、明らかに手を抜いているのが分かった。

彼が本気を出せば一刀両断されている、そんな予感すら抱く。

しかし、やられっぱなしではない。

ティナ自身、剣の心得がない訳ではない。

何も分からないまま、要領を得ないまま、彼女も我武者羅に剣を振るった。

今までの鬱憤も込めて。


「はぁっ……はぁっ……」


そして少し時間が経って。

ティナが息を切らしたと同時に、稽古は終わった。

結局、何がしたかったのか分からずじまいだ。

見合いでいきなり剣の稽古をするなど、初めての経験だ。

ただ分かるのは、一太刀ごとに気を遣われているという印象だけ。

すると汗一つかいていないディオンは、意味深な視線を投げ掛けてくる。


「……その剣術、何処で学んだ?」

「そ、その、独学です……」

「独学? 君は聖女ではなかったのか?」

「確かにその通りです……ですが、今の私は聖女ではありません。何れは元の平民に戻ると思っているので……ですから、その護身用に学びました。国内の治安は不安定ですし、学んでおいて損はないかと」


剣を知ったのは、何も最近ではない。

聖女として見出される以前から、自分の身を守るための護身術として学んでいた。

盗賊も普通に現れるこのご時世、平民間での窃盗も少なくない。

聖女の力があった頃は久しいものだったが、既にその力を失い、もう一度学び直していたのである。

無論、周りに師範なる者はいなかったので、完全な独学なのだが。

それを聞いたディオンは驚くように目を開き、それから彼女から視線を逸らした。


「湯船を使ってくれ。稽古の汗を流すと良い」


彼はそれだけ言って、稽古を切り上げた。

表情の変化も読み取り辛い。

変な人だ、とティナは思った。

もしかすると、剣鬼の傍に置くとして相応しい技量を持つか試したかったのかもしれない。

そのための稽古、とすれば納得がいく。

しかし、全く相手になっていなかった。

この有様では彼から拒絶されて終わりだろう。

短い見合いだった。

老婆メイドに案内され、ティナは湯船に浸かりながら、荷支度の準備すら考え始める。


「すまなかった」

「え、えっ?」


だが湯船から上がり、用意されていた衣服を着て居間へ通されると、待ち構えていたディオンに頭を下げられた。

一体、どういう事だろう。

意味が分からず聞き返すと、彼は続ける。


「君には気迫が感じられなかった。覇気がなく、既に諦めているような雰囲気すらあった。聖女の力を失い、ただ失意に落ちているだけだと。ならばと思い、剣の稽古でその人格を見極めるつもりだったが、それは俺の間違いだった」

「間違い、ですか?」

「あぁ。君は既に自分の置かれている状況を理解していた。聖女の力を失いながらも、現実を受け止め、それから何が出来るのかを模索した。それが、あの稽古での剣術だ」

「私の剣は付け焼刃。貴方に勝るものでは……」

「勝ち負けではない。失った称号に悲観するだけでなく、そこから新たな力を得ようとする貪欲さ、ひたむきさ。そこには確かに、君の力が、意志が込められていた。そしてそれを見抜けなかった俺自身を今、情けなく感じているのだ」


ディオンは頭を下げ続ける。

まさかあの剣鬼が、これ程までアッサリとそんな態度を取るとは思わなかった。

鬼の面のような印象が、徐々に彼女の中から崩れていく。


「非礼を詫びる。剣鬼と呼ばれながらもこの有様では、まだまだ修行不足。俺に出来る事があるなら何でも良い、言ってくれ」

「い、いえ……私の方こそ、これからの事を考えるばかりで、失礼な態度を取っていました。何とお詫びすればいいか……」

「む……これでは話が平行線になりそうだな。しかし、このままでは剣士として、貴族としての矜持が収まらん」


彼は何とかして詫びをしたいらしい。

しかしティナからすれば、彼が言っていた彼女の意志は、結局のところ独りよがりなものだった。

失望され、たらい回しにされていた鬱憤すら乗せていた節がある。

それを褒められるなど、情けなくて仕方がない。

とは言え、このままでは彼の言う通り平行線を辿る。

ディオン相手に圧し切るだけの材料もない。

なので、彼女は一つだけ願い出た。


「……では少しの間、見合いを続けても宜しいでしょうか」

「そんな事で良いのか?」

「構いません。それに、貴方の事をもっと知りたいのです。聖女でない私にそう仰った人は、貴方が初めてですから」

「そ、そうか……変わっているな、君は……」


ディオンは少し戸惑う。

強面の表情が少しだけ崩れる。

遠慮している訳ではない。

彼は聖女ではなく、自分自身を見てくれた。

今まで力を失った聖女として揶揄されてきた身として、そこがどうしても気になった。

彼の内面を知りたいと思うようになったのだ。


「そういう事なら請け合おう。今日はゆっくり休んでくれ」


そうして、あっという間に一日が終わる。

ティナは用意された客室に案内される。

今までのような、聖女としての自分を噂するヒソヒソ話など聞こえない。

代わりに眠気ばかりが襲ってくる。

剣の稽古をして程よい疲れが出たせいだろうか。

それとも安堵できる場に、留まる事が出来たからだろうか。

久しぶりに、ぐっすり眠る事が出来たのだった。


それからティナは、アルバトロの屋敷で過ごすようになった。

と言っても、置いてもらっている身なので下手なことはしない。

屋敷の人々に挨拶をしつつ、家主であるディオンの様子を窺うだけだ。

彼は専ら剣の稽古に勤しんでおり、一日一回は付き合わされた。

当然勝てる筈もないのだが、そこで彼はティナを指導していった。

賊相手にどう戦うべきか、力量差があっても対等に渡り合える戦い方など。

表情は動かないが、剣鬼と呼ばれるような厳しさはない。

素人同然の者に、時間を割いてまで教えてくれた。

元々、ティナ自身も自衛のために剣の腕は上げようと思っていたので、悪い気はしなかった。


それに加え、ディオンは辺境伯として遠方からの手紙や書類に目を通し、筆を走らせるなど、貴族の役目を果たしていた。

若くして亡くなった両親の代わりを務めているのだとか。

厳格な態度を見せているのは、それ故だろうか。

貴族として正しく在れ。

聖女として正しく在れ。

ティナは彼が抱いている重荷に、少しだけ共感を得たのだった。

そして、そんなある日のこと。

互いの交流に変化が訪れる。


「誰か、いる?」


真夜中の事だった。

眠りの浅かったティナは、部屋の外から人の気配を感じた。

この時間帯は皆、寝静まっている筈なのだが。

気になって部屋から顔を覗かせると、黒い影が通路の奥へ消えていくのが見えた。

見覚えのある姿だったので、思わず追ってみる。

辿り着いたのは厨房だった。

コッソリ忍び寄って見ると、その人物は暗闇に紛れて何かを食していた。


「うむ。やはり、この甘さは格別だな」

「……ディオン様?」

「なっ!? な、何故、君が此処に!?」


そこにいたのはディオンだった。

後を付けられているとは思わなかったのか。

彼も思わずといった様子で振り返る。

蝋燭の灯ったランプを掲げると、その手にはクッキーらしき菓子が握られていた。

反射的に手元を隠したが、既に手遅れである。

ディオンは声を震わせながら、ティナに問う。


「……見たのか?」

「な、何をでしょうか?」

「誤魔化す必要はない。今、俺が何をしていたか、見たのだろう?」

「は、はい」


所謂、摘まみ食いである。

しかもこれは、作り置きで用意されているお菓子らしい。

意外だ、とティナは思った。

今まで彼がお菓子を食べている様子はなかった。

食事の場面でも、寧ろ毛嫌いしているように遠ざけていたので、甘いものは苦手なのだと勝手に思っていた。

しかしそれは、勘違いだったらしい。

ティナが声を掛けようとすると、代わりにディオンがこの世の終わりかのように顔を青ざめつつ、必死に頭を下げる。

短期間ながら、今回で二度目である。


「頼む! 今見たものは、他言無用にしてくれ……!」

「そんな大袈裟な……」

「剣鬼と呼ばれた俺が、菓子を好むなど……そんなわらべのような事が知られれば、周りから笑い者にされてしまう……!」

「そ、そういうものなのですか?」

「そういうものなのだ」


別に菓子を好むくらい構わないと思うのだが、彼は違うらしい。

確かに剣鬼と恐れられる者が、甘いお菓子を好むのは少しイメージに反する。

今まで築き上げてきた他者への印象が、壊れる事を気にしているようだ。

兎に角、彼がそう願い出ているなら断る理由はない。

ティナは安堵させるように優しく返答する。


「ご安心ください。ディオン様がそう仰るならば、私は何も喋りません。他言無用です」

「君の覚悟、この剣に誓えるか?」


対するディオンは真剣だった。

腰に提げていた剣を掲げ、まるで誓いを立てるかのように見せつけてくる。

あまりに仰々しい。

彼の表情は強面そのものだったが、今の状況と不釣り合い過ぎて、思わずティナは笑みを浮かべた。


「ふふ……やはり、少し大袈裟ですね」

「……ダメか?」

「いいえ、誓いましょう。貴方の剣に」


強面が不安そうに、少しだけ崩れる。

そういう所がまた、ティナの心を少しだけ乱した。

それでも表情には出さず、彼女は掲げられた剣の柄に手を触れる。

菓子の下でという珍妙な状況下、ここに剣の誓いは交わされる。


何となくだが、彼の内面が一つ分かった気がした。

きっと何事にも全力なのだろう。

剣に対しても、貴族の責務に対しても。

故に強面にならざるを得ない。

気を張り続けなくてはならない。

そして全力で挑み過ぎて、空回りする事もあるのだと、彼女は理解した。


「しかし俺の背後をつけるとは……今まで何度か試してきたが、誰一人気付かなかったというのに……中々、見込みがありそうだ」

「えっ、そうなのですか?」

「うむ。この有様を見られたのは、君が初めてだ」

「おかしいですね。幾ら少量と言っても、何れは皆さんに気付かれると思うのですが」

「いや、今まで表沙汰になる気配は全くなかった。それにこの菓子が、他で使われている場もない。使用人達も大雑把なのだろう。寧ろ、好都合で助かっているのだが」

「……それはもしや、既に暗黙の了解になっているのでは?」

「え?」


加えて、割と抜けている所があるのかもしれない。

彼女はそう思った。







その誓いを皮切りに。

ディオンと共に過ごす内、ティナの中にある剣鬼の印象はどんどん崩れていった。

特段、恐ろしくもない。

剣に狂ったなどと言われているが、そんな事もない。

今までの貴族たちの嫌味に比べれば、痒くもなかった。

ただただ一生懸命で、真っ直ぐな人が、そこにいるだけだ。

寧ろ今までの噂は、全て失礼に値する。

ティナ自身、始めは同じように恐れを抱いていたことが恥ずかしくなる位だ。

そしてそれがより一層自覚できたのは、とある出来事が原因だった。


「無事か」

「は、はい。何ともありません」

「いや、足を捻っているだろう。任せてくれ」

「そ、そんな……これは大袈裟ですよ」

「そういう訳にはいかない。これは俺の責任なのだから」


それはディオンと共に屋敷外に出て、最寄りの町に出向いた時。

ティナは足をくじいてしまった。

軽く捻った程度なので大事には至らなかったが、すぐさまディオンが彼女を背負って馬車まで運び、屋敷へ連れていく。

客室へと更に背負われ、ベッドの上に寝かされる。

聖女であった頃ならば、この程度の怪我は直ぐに治せたのだが、どうにももどかしい。

加えて人々の目の前で背負われた光景が、少し恥ずかしく感じていた。

それでも彼は降ろさなかった。

理由は、ティナが足をくじいた原因にあったからだ。


「まさか、領民の子供に泣かれるとは……。強面の自覚がない訳ではなかったのだが、流石に今回は堪えた……」

「……自覚はあったんですね?」

「泣く子も黙る、という噂すら立つ程だからな。まぁ、今回は普通に泣かれたが」


元々の原因は、民衆の子供が泣いて走り出してしまい、それにティナが驚いてバランスを崩したというもの。

しかも子供が泣いた原因は、ディオンの強面にあったのだ。

馴染みのないティナに、町の子供たちが興味を示し。

彼女の周りに多くの子供たちが集い。

急に横から現れたディオンの顔に驚き泣いてしまう、そんな流れである。


流石のディオンもショックを受けたらしい。

いつもの強面から、力が失われているように感じる。

剣鬼と呼ばれ、それに相応しい態度を保ってきた彼にとって、無垢な子供に泣かれたのは、割り切っていたとしてもやはり辛いのだ。

回り回ってティナに怪我をさせてしまったのも、心苦しく思っているようだ。

ならばと思い、彼女は彼に提案する。


「少し笑ってみては如何でしょうか? ディオン様は、普段から真剣な顔ばかりですし」

「笑う? 俺が?」

「……まさか、似合わないと思っています?」

「ダメか?」

「ダメという訳ではありませんが……小さな子達は、そういった変化に敏感ですよ」


ディオンはあまり笑おうとしない。

恐らくだが、剣鬼として似合わないと思っている。

しかしいつも仏頂面では、先程と同じだ。

別に子供だけの話ではない。

大人が相手であっても無表情を貫いていては、相手からも近寄りがたいイメージを与えてしまう。

それが余計、剣鬼としての印象を決定付ける結果となるのだ。

別に悪い事ではないのかもしれないが、彼には人を気遣い、自分がどう思われているのかに一喜一憂する面がある。

彼の内面を知るティナからすれば、その辺りはどうにか払拭したい。

剣の鬼などではないと、皆に伝えたい思いがあった。

すると彼は少し悩んだ末に、ティナに向けて作り笑いを浮かべた。


「にぃっ」


成程、これは辛い。

うわぁ、という声が出そうになるのを彼女は堪えた。


「……これは、鍛錬あるのみですね」

「剣のか?」

「いえ、そうではなく……笑顔の鍛錬です」

「む、難しいことを言う。俺にそんな事が出来るとは思えないのだが……」

「出来ますよ。ディオン様は努力家です。それに優しい心がある事を、私は知っていますから」


ティナは微笑む。

今も彼は足を捻った彼女の傍を離れない。

剣の鍛錬すら止め、ただひたすらに世話を焼いた。

そういう所を出していけば、きっと皆が分かってくれる。

彼が鬼のような人物ではなく、人を思いやる優しい心がある事を。

それを聞いたディオンは、酷く驚いた顔をするのだった。


足の怪我が治った後、二人の距離は更に縮まった。

ティナは彼を剣鬼としてではなく、勤勉な一人の男性、笑顔の教え子として接した。

ディオンも彼女を聖女としてではなく、心優しい一人の女性、剣の教え子として接した。

互いに称号に囚われず、その人となりを知ったのだ。

ある日の真夜中、ティナが厨房に向かうディオンを見た際も、彼はいつもの態度と違い、口元に人差し指を当てるだけだった。

まるで子供のように見えて、思わず彼女も笑うだけだった。

何てことはない日常の風景。

しかしティナからすれば、それはとても掛け替えのないものに思えていた。

聖女だった頃でも、このような日々はなかった。

柔らかい雰囲気だけが互いの間を流れ始める。

そうしてその流れに身を任せ、見合いの期間を過ぎた日の事だった。


「ティナ。君との交際を続けようと思う」

「!」

「意外か?」

「は、はい」


ティナは思わず頷く。

彼女自身、時間を忘れていた所もあったが、こうもアッサリ宣言されるとは思わなかった。

理由は単純。


「最早、私は聖女ではありません。私には、何も返せるものが……」


ディオンは剣鬼。

辺境伯としての地位もあり、女性の引く手は数多あるだろう。

聖女ではない自分に、他の貴族女性達に勝る点などない。

そう仄めかすと、彼は首を振った。


「俺は剣鬼と呼ばれてきた。称号のない中、己の剣術だけを磨き上げ、剣聖の称号を持つ者すら打ち負かした。それ故に周囲からは恐れられたよ。あの男は最早、人ではない。剣に狂った人ならざる鬼、だと。見合いに来た他の令嬢からも、恐ろしくて近寄りがたいと何度も言われた」

「……」

「変えようとは思った。しかし、俺は剣しか知らない。剣の鍛錬を怠る訳にもいかない。だからこそ日頃、剣を扱わない令嬢から理解を得るのは、どうしても難しかった。だが、君は違った」


ディオンは真っ直ぐに、彼女の瞳を見つめた。


「俺に優しい心があると言った。笑ってみせろと言った。そんな事を言われたのは初めてだった。あの時は本当に、雷に打たれた気分だったよ」

「ディオン様……」

「返せるものがないと言ったな。だがそれは大きな間違いだ、ティナ。俺はもう、十分な程に返してもらっている。それにまだ、笑顔の鍛錬は終わっていない。ここで君を放す訳にはいかないんだ」

「……!」

「頼む。今はまだ、俺の傍にいてくれ」


真っ直ぐな言葉を聞いて、胸の内が熱くなる。

今までずっと、聖女ではない自分など不要だと言われてきた。

平民の時から勝手に祭り上げられ、力がなくなった途端に勝手に切り捨てられた。

最早、自分に価値などないと思っていた。

しかし彼は違う。

聖女ではない自分自身を、確かに必要としてくれている。

それが嬉しくて、ティナは思わず目を伏せた。


「本当に、大袈裟です……」

「すまない。人を褒めるのは、あまり慣れていなくてな。ダメ、だったか?」

「いえ、駄目じゃありません。駄目なんかじゃ、ありません」


強面の表情が不安そうになる。

本当に分かりやすい人だ。

そう思い、ティナは首を振った。


「称号を失って皆から失望された私を、貴方は見てくれた。聖女ではなく、私自身を見てくださいました。たったそれだけの事が、どれだけ嬉しかったか……」

「そう、だったのか」


そこでようやく彼女は、自分の本心を口にする。

ディオンも、ある程度は察していたのかもしれない。

悲しむ様子はない。

ただ少しだけ明るく振る舞い、笑みを見せる。

日頃の成果があったのかもしれない。

彼の笑顔は、今までで一番眩しく見えた。


「ならば俺達は、似たもの同士なのかもしれないな」

「……はい」


目元を拭い、ティナも笑い返す。

そうして二人の交際は続くのだった。







「しかし、茶会とは考えたな」

「これでディオン様も、気兼ねなくお菓子を楽しめます。私からのお誘いでしたら、辻褄も合いますよね」

「確かにそうだが……もしやこれは、ティナが作ったのか?」

「はい。聖女になる以前から、こういった事には興味があったので」


交際が続いた、ある日のこと。

彼女はディオンを茶会に誘った。

夜な夜な厨房に忍び込む、彼の事を考えた結果だ。

茶会といっても、菓子と紅茶を揃えた単純なものだったが、全て自作ではある。

本来ならシェフの人に頼むべきなのだろうが、自分から作りたいと願い出たのだ。

金銭の類については、聖女の頃に稼いだものが山ほどある。

負担を掛けるつもりはなかった。

するとシェフらもその思いを汲んで、手取り足取り指導してくれる。

普通の菓子と遜色ない位の代物が出来上がったのだ。

そんな出来上がりを見て、ディオンはゆっくりと菓子を口に運ぶ。

強面の表情が、モグモグと揺れる。


「ん……美味い」

「そうですか! 良かった……!」


少し甘すぎたかと危惧したが、問題はなかったようだ。

率直に美味しいと言われると、やはり心が弾む。

思わず胸を撫で下ろすと、彼はティナの表情を見つめ、僅かに口元を緩めた。


「やはり、その笑顔だな」

「!」

「ティナの笑顔を見ている時が、一番安心できる」


ティナの顔が少しだけ熱くなる。

普段はそんな素振りないのに、急にそんな事を率直に言ってくれる。

ズルい人だ。

不意に言われると、意識せざるを得なくなる。

これも今まで共に過ごしてきた影響なのだろうか。

そう思っていると、ディオンは寂しそうな声で言う。


「俺も同じような笑顔が出来れば良いのだが」

「……きっと、なれますよ。最近では、ぎこちなさも減っていますから」

「そうなのか?」

「えぇ。屋敷の皆さんも、そう仰っていました」


加えて彼の表情も少しずつ変化していた。

当初は本当に硬かったが、最近では屋敷の者も気付く位には柔らかくなっている。

全く気にする必要はない。

何れは他の人々や子供達も、その違いを分かってくれるはずだ。

まるで自分のことのように感じ、ティナは嬉しく思う。

しかし依然として彼の様子は変わらない。

どうしたのだろうと思っていると、躊躇いがちに問う。


「後悔、していないか?」

「どうしてですか?」

「俺は剣鬼、剣狂いの鬼だ。この先、婚約者として共にいる事になれば、聖女だった君にも要らぬ噂が立つだろう。それでも……」

「それでも、ですよ」


そんなものは今更である。

ティナは力強く言い切る。


「他の人が何と言っても、私は知っています。表情には出さないけれど、貴方が人一倍、感情豊かで思いやりのある人だという事を。それに……」


一旦、言葉を区切って彼女はディオンを見つめる。

今ある自分の本心を確かに伝えるために。


「聖女でなくても私は今、幸せですから」

「そうか……良かった……」


ティナの純粋な笑みに、ディオンは息を吐いて安堵した。

本当によく気にする人だ。

一緒にいる時間が長いからこそ、こういった小さな部分が見えてくる。

しかし、だからこそ、ちょっと不器用な所が気になって放っておけない。

普段が頼りになるからこそ、何かしてあげたくなる気持ちにさせる。

そんな思い、気持ち。

それが互いの間に流れ、くすぐったい雰囲気になっていく。

すると彼が恥ずかしそうに、もう一つ菓子を口にした。

誤魔化すように紅茶を飲み、喉の調子を整える。


「しかし茶会があるなら、夜な夜な忍び込んで菓子を食べる必要もなくなる。これでは、シェフも不思議がるかもしれん」

「それは多分、ディオン様のためにわざわざ……」

「ん?」

「……いえ、何でもありません」


まだ、気付いていないのだろうか。

どう見ても、厨房に置かれている量は残り物にしては多すぎる。

この際、直球で言った方が良いだろうかとティナは思ったが、ふと考え直して一つだけ提案する。


「では今度、一緒に覗きに行ってみましょうか」

「一緒に、か?」

「はい。もしかしたら、ディオン様を待っているかもしれません」

「そういうものか?」

「そういうものですよ」


以前誓った「剣の誓い(菓子)」をふいにするのも、やはりもったいない。

今は焦らずこのままで、ゆっくりと歩み寄っていこう。

ティナはそう思い、彼との約束を取り付けるのだった。

以降、二人は時折だが真夜中に厨房へ潜入するようになる。

屋敷の従者に見つからないよう、少し緊張感のある潜り込みだ。

以前からそうだったように、厨房に変わりはない。

二人の潜入に気付く者も、発見する者もいない。

ただ一つ変わりがあるとすれば、シェフの使う材料が、一人分増えたという事だけだった。


その後、ティナとディオンの婚約が、正式に発表される。

当初は他の貴族から酷く驚かれた。

あの剣鬼を手懐けるなど、一体どんな鬼嫁なのか。

お淑やかに見えたが、きっとその本性は烈火の如くを体現した鬼人に違いない。

婚約が伝えられて以降、貴族間では勝手な噂ばかりが広まっていった。

しかし貴族たちが集まる夜会、そこに現れた二人の姿を見て、彼らは更に驚いた。

現れたのは鬼でも何でもない。

聖女のような朗らかな笑みを浮かべるティナと、普段からは想像もつかない剣鬼・ディオンの笑み。

本当に幸せそうな二人の姿が、そこにあるだけだった。

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