オルバースパラドックスとソロモンの悪魔
『何故、夜は暗いのだろうか?』
そんなことを訊ねたら、どう思うだろうか?
夜とは暗いものだと答えるかもしれない、当たり前のことを聞くなと私を笑うかもしれない。
しかし、天文魔導師たる私は至極この問題を真剣に考えている。
そもそも夜が暗いのは、太陽の光が届かないからだ。光がなければ、世界は明るくならない。
当然だ。
故に太陽が隠れてしまう夜は暗くなる。当然――だろうか?
夜には私の力の源泉たる星が輝いているではないか。星々の輝きは太陽に比べれば確かに弱々しいが、アレも元を正せば太陽と同じ力である。ただ、地球からアレ等は離れすぎてしまっているが故に届く光が弱く、夜空は暗くなってしまっている。
そう、それが今までの常識だった。
だが、今やその常識は覆ってしまった。
夜空を望遠鏡と呼ばれる道具で観察をしてみれば、私達がは想像しているよりも遥かに沢山の星が瞬いていることがわかる。夜空は星で満ちているのだ。
そしてそれこそが問題だと言える。
この無限に広がる宇宙には、数えきれないほどの星があると言うのに、どうして星が放つ光で夜空が満たされることはないのだろうか? 本来であれば、夜空の何処を見ても星の光で埋め尽くされていなければおかしいはずだ、
そう。例えるならば森だ。平坦な森に一定の間隔で木が生えていた場合、木の幹が邪魔で森の反対側を見通すことが出来ないことにこの問題は似ている。
この疑問は偉大な天体魔導師であるヴィルヘルム・オルバースによって提唱されたため、オルバースのパラドックスと名付けられ、後の人間達の頭を悩ませる難題として知られている。
多くの魔導師は『でも魔術は使えるからいいじゃん』と、この問題から目を背けているが、私はそう言った輩とは違う。神が創り出した宇宙の深淵を理解することこそが、天体魔導師の神髄であり、魔術としての効果はその不随物でしかないのだ。
この謎を明かすべく、私は長い時間をかけて宇宙の観測を行い、天文に係わる魔術の収集を続けた。
そして私はとある魔神に行き着いた。
偉大なる王が使役した七十二柱の一柱にして二十六の軍団を支配する地獄の伯爵“ビフロンズ”。死者すら蘇らせる強大な力を持ち、同時に占星術や幾何学に詳しいと伝承では語られている魔神だ。
彼の魔神であれば、長年の疑問にも答えを出してくれることだろう。
しかしビフロンズの召喚は至難を極める。事実、私は過去に三度、魔神を召喚しようとしては失敗している。星の廻りを考えれば、私が今生の内に召喚に挑戦出来るのはこれが最後になるだろう。入念な準備を行い、私は召喚魔術へと望んだ。
「星辰に導かれ顕現したぜ、ビフロンズだ。って、これを言うのは何度目だ? 定命の老いぼれ」
儀式は成功し、ビフロンズが現世にその姿を顕した。仕立ての良いスーツ姿は正に伯爵の身に相応しいものだが、その顔に肉はない。恐らくは草食動物の物であろう頭骨が頭部には収まっており、その内では蝋燭の灯がゆらゆらと照らしている。
どうやら、私以外にもビフロンズを召喚した魔導師がいるらしく、少し辟易としているように見えた。
「こんばんは、ビフロンズ。契約は理解しているな?」
「ああ。子羊ちゃん達は美味しかった。それに、宝石も悪くねえ。他の連中に自慢できる。ありがとうよ、定命。で? このビフロンズに何を望む? っつても、俺様の専門じゃあねーのは無理だぜ?」
生贄の味を思い出したのか、ビフロンズは少しだけ機嫌を取り戻した。私を襲って来る様子もなく、どうやら召喚と契約を滞りなく成功したようだ。逸る気持ちを抑え、私は長年の疑問をゆっくりと正確に口にした。
「『オルバースのパラドックス』の答えを教えて欲しい。何故、夜は星々の輝きに満たされないのだ?」
「また、それか。簡単だよ、定命」
「何!?」
思わず、声が飛び出た。
我々が長年抱く疑問が簡単だと?
「定命、宇宙は別に無限じゃあないからだ」
「…………は?」
「この宇宙が誕生してから一六〇億年程度経つが、宇宙はまだ広がり続けてんだ」
「ば、馬鹿な! 嘘を吐くな!」
全知全能である神が創り出した宇宙に限りがあるだと!?
そもそも宇宙が創られて一六〇億年と言うのも、聖書の記述と食い違うではないか! 我々が人類の祖が神様によって土くれから創られたのが大凡七〇〇〇年前と言うのが教会の見解であり、神はその前の六日間で全てを創ったのだ。ビフロンズの言葉はあまりにも滅茶苦茶な嘘だ。
「嘘じゃあないさ。定命が一番わかっているだろう? 契約によって、俺様は嘘が吐けねえ」
「っく」
だが、ビフロンズの言う通り、魔神は私に嘘を吐けない。
そして、天文の知識に限って言えば、ビフロンズは間違いを犯さないだろう。
「で、答えの続きだが、宇宙は有限だから、定命が言うように星の数は無限じゃあねーんだよ。むしろ、宇宙はスカスカだ。互いの光が届くまで何億年もかかる程にな」
「光が届くまで?」
「ああ。まだ定命は知らないんだったな。光にも速さがあるんだよ」
「は?」
光に速さだと? 意味がわからない。
だが、それ以上は知りたくはないと魂が叫んでいる。
「定命がありがたがっている“星の光”ってのは、何千万年……いや、何億年って時間をかけてこの星に辿り着くものなのさ。だから、この星にまで届いていない“星の光”もあるってことだな。定命が知らないだけで、夜空にはもっと沢山の星が隠れているんだ。知らなかっただろう?」
「嘘だ」
うそだ。ウソだ。嘘だ。うそだ!
思わず、無意味と知りながらも私はビフロンズの言葉を否定する。
そんなことは有り得ない。
神は最初に「光あれ」と言われた。そのお言葉が世界に光をもたらした。光とは神の叡智その物であるはずなのだ。その完全なる光に速さがあり、それが届かぬ場所等があって良いはずがない!
そして何よりも、私の天体魔術は無限に広がる宇宙と、そこに輝く星の放つ光の力によって振るわれる。神の偉大なる御業に最も近いのが天体魔術なのだ。宇宙と光が完全であるからこそ成立するのが天体魔術であったはずだ。
だが、宇宙は有限で、光は遍くを照らさないとしたら?
嗚呼。考えたくもない。
だが、考えずにはいられない。
一体、私は今まで何の力を借りて魔術を使っていたのだろうか?
それは、決して、神の、力ではない、だろう。
足元から、今まで積み上げて来た物が音を立てて崩れて行くのがわかった。
「おーい。定命。質問はそれで終わりか?」
暫くの間、私は立ち尽くしながらビフロンズの説明を反芻した。
「最後に、お願いがある」
「なんだ?」
そして決意する。
「今夜、貴様から聴いたことを全て忘れさせてくれ」
「かはは。またかよ、定命。お前も懲りないなぁ。次、楽しみにしてるぜ」
朝。私は自分の魔術工房で眼を覚ました。床に描かれた魔法陣や、捧げ物の子羊や宝物が消えている所を見るに、魔神に生贄だけ持っていかれてしまったようだ。
失敗か。
床から起き上がり、溜息を吐く。
やはり、駄目だったか。
次に星が揃うのは十三年後。最早、私は生きていられないだろう。
だが、諦め切れるわけもない。
残りの人生を賭けてでも、私はこの問題に挑み続けるだろう。
例え、どんな結末が待っていようとも。
かつて、宇宙は神々の世界であり、人間の暮らす世界とは別の法則で動いているとされていました。
宇宙は無限であり、地球は宇宙の中心で、人間は神が作った至高の生き物でした。
が、現実は全然違いました。
月は完全な球体からは程遠く、地球は太陽の周りを回り、宇宙は広がり続け、そこを支配するのは地球上と共通の法則だとわかってしまいました。
そうやって、神は神秘を失っていったのです。
その衝撃は、現代を生きる私達にはきっと理解できないものなのでしょう。