風浴び
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うー、あつい〜。つぶつぶ、エアコンのリモコン貸して。
25度以上なんて、守ってられないっつーの。いますぐ、もれなく、ばりすごく、風をくださいな、風を……。
ふー、生き返った〜! きっもちいい〜!
――ん? 早く25度に戻せって?
かたいこといわな〜い。もっと涼まないと死ぬし、溶けるし、くたばるし。
地球がいくら重かろうと、いまこの瞬間は、自分の身体のほうが断然重いわ。あんた、私が死んだら責任とってくれるの? 責任?
いや〜、エアコンに限らず、空調ってめちゃくちゃ大切だと思わない?
昔から人間、風を送る、風を受けることに関して、ものすごく気をかけてきた。うちわや扇子の概念がずっと昔からあるくらいだしね。
この風が大きな力を宿していた話。お母さんから聞いたことがあるんだけど、つぶつぶも聞いてみない?
小学生時代のお母さんは、女子の中でとても足が速かったらしいわ。
二番手相手に一秒近い差をつけてゴールする、圧倒的な差。この調子なら、市の体育大会に代表として参加できるかもと、お母さん自身わくわくしていたみたいね。
けれど、6年生になったとき、クラスに転校生の女の子がやってきた。ショートヘアのお母さんに対し、長いポニーテールを結う彼女は、これもまたすさまじい俊足を誇っていたの。
学校の授業で、直接対決したことが一回ある。スタートでわずかにミスしたとはいえ、それでできた差を、お母さんは縮めることができなかった。
むしろ差はじわじわ開いていき、100メートルを走った数秒間。お母さんは彼女の揺れるポニーテールを、追いかけ続けるはめになったみたい。
当時、体育大会に出られる短距離走の枠はひとりだけだった。
先の差を見るに、万全のスタートを切ったとしても、彼女の先を行けるかは分からない。むしろ後ろから抜かれる恐れさえある。
校内選考のときが迫る中、お母さんは自分なりにトレーニングを重ねながら、彼女との直接対決を待っていたらしいの。
そして、本番の放課後。
各クラスより選ばれた生徒たちが、横一線に並んだ。ここでの一位のみが市の体育大会への出場権を得ることになる。
お母さんは参加した顔ぶれをざっと見たけど、事故らない限りは勝てる相手がほとんど。件の彼女はというと、準備運動をしながらも、やたらと太陽のほうを気に掛けている。
夏場の太陽は午後3時過ぎでも、まだまだ熱い。お母さんも日差しを背に受けながら、うなじを垂れ落ちてにじむ、自分の汗を感じていたわ。
――これが気持ちよいものになるかどうかは、もうすぐ決まる……!
そうしてスタートラインに並ぶお母さんたち。そろってクラウチングスタートの姿勢を取り、後は号砲を待つばかり。
そして背中から吹きつけ出す追い風。「参考記録とかになるのかな?」なんて考えがちらりと脳裏をかすめたとき。
お母さんの隣の子が、急に立ち上がったの。
「すいません。棄権してもいいですか?」
あのポニーテールの女の子だった。
突然の申し出に、お母さんはもちろん、周りの子や審判役の先生もざわつき始める。
「気分が悪くなったの?」「時間改めようか?」
みんなの呼びかけへ適当にあいづちを打ちつつ、彼女はその場を離れる。仕切り直されたときにも彼女は帰って来ず、お母さんは順当に市大会への切符を手にしたわ。
けれども、釈然としない。彼女を上回ったという確証を持てないまま大会に臨まされるなんて、お母さんとしては気分が悪かった。
まるでこの競争に、価値がないとばかりのなめきった態度。詰問しなくちゃ気が済まない。
その日の帰り際。お母さんは彼女を捕まえて、無理やり一緒に帰ろうとしたみたい。
当たり障りのない話から入って、競争の件へつなごうと画策するも、彼女のほうから「今日のことでしょ?」と先手を打たれてしまう。
分かってんなら……と、少し腹が立ってくるお母さん。すぐに質問をぶつけるけど、彼女はそれを、指を立てながら制してくる。
風がまた吹いてきたのよ。横殴りの風で、彼女のポニーテールが大きくなびく。
「ちょっと我慢しよ?」
彼女は唐突に、足を風が吹いてくる方に向ける。お母さんの手もつかんできて、半ば無理やりだった。
あの徒競走の時の5割増しくらい、強い風。お母さんの髪も逆立って、目をしっかり開けていられないほどだったとか。
それでも彼女は方向を変える気配がない。家がこちら方向なのかと思ったけど、そうでもなかった。彼女がいうには、「冷やす風」を浴びないといけないのだとか。
「風っていろいろな方向から吹くよね? たいていはただの風なんだけど、ときどき変なものを運んでくるときがあるんだって。お母さんが話していたんだけど。
さっきは、太陽の方向から吹いてきていた。あのまま始まったらひどいことになると思ったから、ちょっと止めてもらったんだ」
仕切り直した時点で風が収まらなかったら、収まるまで止めるつもりだったけど、とも彼女は話してきた。
お母さんは耳に言葉こそ入っていたけど、じょじょに自宅から遠ざかることへの不安が勝ってくる。こんな世迷い言を聞きたくて、彼女を捕まえたわけじゃないんだ。
お母さんは無理やり手を離そうとして、彼女にぎゅっと手を強くつかみ直される。更に空いている指で、後ろを見るようにいわれて、ちらりと目を向ける。
背後の景色に、おかしいところはなかった。立ち並ぶ家々と、そのずっと後ろにでんと控える太陽。より西へ傾いたその光は、赤みを増してお母さんたちの背中に注がれている。
けれども、彼女の風になびくポニーテールはどうかというと、先っちょが白くなっていたの。つい先ほどまで、一分のスキもない見事な黒髪だったのに。
新品の筆を思わせるまっさらな白は、少しずつ版図を広げつつあったわ。先端の毛そのものは、ぽろぽろと勝手に抜け落ちていく。その様子に、お母さんは仏壇にあげるお線香の灰の姿を思い浮かべたとか。
ここのところ、太陽の様子がおかしい。太陽から吹く風に気をつけなよ。
向かい風が止むと、彼女はそう注意しながら、ようやくお母さんを解放してくれた。
お母さんは、それとなく風向きを気にするようにしたけど、体育大会当日はそうはいかない。
太陽を背にする形でトラックに立つお母さんは、ついちらちらと後ろを気にしてしまう。
そして走る直前。わずかではあるけど、太陽のほうからそよぐ追い風の気配が。
すでにクラウチングスタートでいるお母さん。けれど、あのときの彼女のようなマネ、この大舞台でできるはずもなく。
お母さんは走った。走り出しとともに、背中を押す風がなお強くなる。
そして熱い。自分の持つものだけじゃない。汗をもはねのけ、背中を焦がしにかかる熱。アルコールランプであぶられるような痛みを、お母さんはその背に受け続けたの。
十数秒に過ぎないその時間を、お母さんはほとんど覚えていない。トラックを外れて全員が走り終わるまで待機するとき、背中がうずくのをじっと耐え忍んでいたことのほうが、よっぽど記憶に残ってたとか。
そして体育大会が終わった後。家のお風呂で裸になったお母さんは、鏡で背中を含めた自分の裏側の皮膚が、すっかり焼けて黒くなってしまっているのを見たそうよ。




