冬 小春日
ともあれ、瑛美のおかげで命拾いをした。
しばらくは有給扱いだったけど、年単位で通院しなくちゃだから、ホテルのパティシエを辞めて実家に戻った。
過保護に過ごしているからか、退院してから風邪ひとつひいてないし、もう少し働きたい。
けど、お姉ちゃんにも、お母さんにも、おばあちゃんにも、掃除くらいしかさせてもらえない。
ご近所さんという常連さんたちからも、止められている。
見た目? 見た目の問題かな? 10キロも痩せてガリガリになってしまったから? ソフト部で日焼けしまくりだった私が、青白くなったから?
ちょっとでもむせようものなら、「あんたたちは看板娘なんだから座ってて」と、レジ横の高級ソファに、ネコのヒトミと押し込められてしまう始末だ。
ヒトミは私が小さい頃に拾ってきたネコで、猫の目食堂の正しい看板娘。目がぱっちりした三毛ちゃんだ。
18歳の美魔女で、寝てばかりいる。若い頃は腕利きの怪盗だったんだけどな。
今や、わたしが抱っこしても、めったに起きない。膝の上にのせてしばらくすると、無抵抗に寝てしまう。
平和だ。
ほんとに平和だ。
ホテルで働いていた頃の、戦場みたいだったデザートタイムが、嘘みたいだ。
で、極めつけの平和が、ドアベルを鳴らして入店する、この人。
「こんにちはー。裏のおばあちゃんから柿たくさんもらったんでー。デザートにいかがっすか?」
閉店15分前にやってくる常連さん。
並木通りの交番勤務の駐在さん。
高校時代のクラスメイトで、現在、わたしの婚約者の…。
「わー。冴俊くんいらっしゃーい」
厨房の奥から、店長のお姉ちゃんが顔をだした。
お姉ちゃんこと来宮薫子。
「真実の愛」に目覚めた夫に三行半をつきつけ、双方から教育費と慰謝料をぶんどり、出戻ってきた3児の母。ちなみに元ヤンです。
ちなみに、冴俊くんは元野球少年。今も草野球してるけど。
「あらー、立派な柿ね。ありがたいなあ」
「B定食のジャムにしてほしいって、おばあちゃんが」
元ヤンと元野球少年の会話は、こんな風にいつもほのぼのしている。
ちなみにA定食がごはんに味噌汁、B定食がパンにスープ、それぞれお肉かお魚を選ぶのが、「猫の目食堂」のランチメニューだ。
ほんと、やる気ない。
でも、おいしい。
ホテルみたいな贅沢なおいしさでも、家庭料理ってほど素朴でもない、ファミレスほど普遍的な外食でもない、いわゆる家族経営の、食べ物屋さんの味だ。
「オッケーオッケー。ゼリーにもしたいんだよね」
「それ言っときます。実がなりすぎて困ってたから」
「作りたいなあ。そのゼリー」
「あんたは採算度外視だから、却下。冴俊くんにコーヒー出して座ってなさい」
うー。
たしかに、私だったらゼラチンから材料を吟味して、柿と合うお砂糖を選んで、洋酒かな、いや日本酒でいこう。蔵元は……と、ホテル仕様になってしまう。
業務スーパーで材料を揃えるとか、絶対ナイ。
それが田舎の喫茶店で受け入れられるかナゾだし、受け入れられたとしても、今度は採算がとれない。
店を継がない娘が、口出しできる領域じゃナイらしい。
「それなら、オレんとこの白菜もってくるわー。A定食の浅漬けにしてくれんかね」
「そりゃーいいね。あ、じゃあ柚子もらわんか? たーんとあったわ」
常連のおじいさんたちも会話に入ってきた。
う。柿と柚子のソルベをつくりたい。
元ヤンが睨んでくるから、なんも言わないけど。
「やー。いつもすいませんねえ。でも、ありがたいわ」
姉ちゃんったら、ご近所さんの差し入れにホクホクだ。ほんと、しっかりしている。
家庭裁判所で「真実の愛は、おめーんとこじゃなくて、私と子どもたちの間にあんだよ!」と叫び、拍手喝采を浴びた女傑だし。
駐車場の銀杏みたいに、しっかりどっしりこの地に根を下ろしてる。
「あ、薫子さん、オレA定食。肉で」
「はいはーい。お母さーん。冴俊くん、Aミートねー」
「はーい。あ、厨房の電気切れちゃった。悪いんだけど、付け替えてくれない?」
うちはおじいちゃんもお父さんがサラリーマンだから、昼は男手がないのだ。
「オッケー。他に何か用事ある?」
「明日の仕込み手伝うかい?」
「休憩時間内に戻れない手伝いは、きびしいなあ」
制服姿の駐在さんは、勝手知ったる店の厨房に消えた。
わたしは、カウンターのエスプレッソマシンに向かった。マシンの音にまどろみから覚めたヒトミが、嫌そうに「ニャア」と鳴く。またすぐに寝ちゃうくせに。
このエスプレッソマシンはパティシエ時代に購入した業務用で、田舎町の喫茶店ではちょっと浮いてる。
お姉ちゃんはともかく、お母さんとおばあちゃんは、まだいまいち使いこなせてない。でも、近い将来、ちゃんと使えるようになるだろう。
使う人の手に馴染めば、店の景色にも馴染む。商売道具とは、そういうものだ。
「瞳子ちゃん、無理したらいかんよ」
「そうそう。コーヒーなんか、インスタントでもいーんだから」
常連さんたちが、今日も私を甘やかす。
「使わないと腕がなまっちゃうもん。おじさんたちにも淹れるね。白菜と柚子をくれるから、サービスよ」
閉店間際の「猫の目食堂」は、駐在さんのランチタイムと、物々交換と、まったりしたおしゃべりで、のんびり時が流れる。閉店の札を出した後も、しばらくだべるのもお約束だ。
「猫の目食堂の次女瞳子ちゃんの彼氏は、お巡りさん」って存在に、聖地巡礼にきたオタクさんたちが挙動不審になるのも、見慣れた光景だ。
最近の冴俊くんの定番コミュニケーションは、そんなオタクさんたちに名刺を見せること。
「美登里町並木通り派出所 駐在 槇村冴俊」
この字面に、オタクさんたちが吹くことったら。
往年の大人気アニメの登場人物を、かけあわせた名前だもんね。
老若男女問わず、知名度高いなあ。
瑛美も「あの作品の、三女を演りたい」とか言ってたし。
瑛美がエイミを演じたノリで、瞳子の妹がヒトミさんの妹を演らなくても。
……こんな風に、止まってるみたいにゆったりした時の中にいると、キラキラした都会で働いていたことも、半年間の入院と闘病生活も、自分のことじゃなかったみたいに思えてくる。
退院した日に「結婚してください」って言ってくれた冴俊くんに「5年間、再発しなければ」頷いたことさえも。
自覚症状がない状態で病気がわかって、治療がはじまっちゃったからだろうか。
病気より、薬の副作用の方がしんどかった。
本当は元気だったのに、騙されて治療させられた気分になったこともある。
同じ病気の闘病ツイートを読んで、自分がいかに幸運だったか、頭ではわかっているのにどこか釈然としないというか。
目に見えるものに、耳が拾う音に、皮膚感覚の全てに、ぼんやり薄い膜がかかっているみたいだ。
私はいったい、何に疲れ果てているのだろう……?