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死島百帆子の沈痛(短編)

作者: 小森龍太郎

 うだるような暑さの中、ジャージ姿の死島百帆子は、実家兼職場であるお好み焼屋『黒ん兵衛』 の駐車場で”草むしり”をしていた。

「あぁ暑い。何でこんなに暑いん。くそったれがっ!」

 店の駐車場の除草作業は地味な死島にとって数少ない趣味のひとつだった。今年の春、うららかな陽気に誘われて始めたのがきっかけだったのだが、単純且つ地味な作業で成果が目に見えるそれは、何の目標もない死島にとってはとても心地良く、やり甲斐を実感できるものであった。以来定期的に手作業による除草作業を自身の趣味として楽しんでいた。しかしここ数日、気温は夏に向かってぐんぐんと上昇していった。まだ五月半ばだというのに、気温は30度を超えそうな勢いだ。

「くそぉったれっ、はいっ、くそぉったれっ!」

 言いながら死島はリズムに乗って雑草をぶちっ、ぶちっと根こそぎ取っていった。すると奥の方からガサガサッと音がした。死島はビクッと固まった。ガサガサッ、ガサガサッ、音がこちらに近づいてくる。その正体が素早い速さで死島の足元に出現した。

「ひゃうっ!」

 情けない声で後ろへ下がった死島は尻餅をついた。その正体は小さなトカゲだった。

「何やトカゲかいな。びびるわほんま。そういうのやめよ」

 死島は心臓をバクバクさせながらひとりごち、尻餅をついた恥ずかしい姿を誰かに見られてないか周りをきょろきょろ見渡した。周辺にいたとすれば遠くから杖をつき、おぼつかない足取りでトボトボと散歩している老人だけだった。

「おっそろしいっ!、ハイっ、おっそろしいっ!」

 再びリズムに乗って死島は除草作業を続けた。するとどこからか異臭がする。その不快な臭いは移動しても付いてきていた。

「ん?何やさっきからうんこくさいな」

 もしやと思い、先程尻餅をついた場所に移動した。するとそこには大きく平らに広がった犬の糞があった。そして自身のジャージを見るとその片割れがべったりと付着していた。

「うわっ、最悪や!このままやったら私がうんこもらしたみたいやん。ほんまもんのくそったれやないか!最悪やっ!」

 すると先程の老人がトボトボと杖をついて通りかかった。老人は満面の笑みで死島に言った。

「おや、暑いのにご苦労さんなこって。精がでますな…くっさ!」

 満面の笑みだったその老人は、うんこを見るような顔で死島を見た後、杖をつくのも忘れてそそくさと足早に去っていった。

「何?私、うんこ? 漏らしたどころか存在自体うんこなん?ってか杖必要ないんちゃうん!ダミー?」

 額から大量の汗を垂れ流しながら死島は言った。うだる暑さと悪臭が入り混じり気分も落ちていった。

「あかん、水飲みついでに着替えてこよ」

 そう思いその場を立った刹那、急激な眩暈と吐き気を催し、意識が遠のいていった。死島はその場にバタン、と倒れた。


 気が付くと見覚えのあるいつもの天井が見えた。死島は自分の部屋の布団の中にいた。窓からはさんさんと初夏の日差しが差し込んでいる。

「あれ、私寝てたっけか?てかさっきのは夢なんかいっ」

 やけにリアルな夢だったなと思いながら、布団の上に温かみのある重さを感じて体を起こした。

「もーちゃん、いたんでちゅかー 暑いからどいてくれまちゅかー」

 死島は今年十三歳になったご老体の飼い猫、モーラを抱き上げ、猫なで声で言った。

「…起きたようじゃな」

 すると突然、目の前に居る猫が喋りだした。

「えっ!な、何やっ」

 抱き上げていたモーラを死島は放り投げるようにして離した。モーラはクルクルと回転してぴたっと着地した。

「慌てるでない、こっちが本当の夢の中といった方がよいのかのぅ。まあ夢というよりは…」

 死島はこの素っ頓狂な出来事が夢である事を確かめるように自分の頬をつねってみた。確かに何も感覚はなかった。つねるどころか、つねるものさえない。まるで自分が透明にでもなったかのように。

「そう、お主の体は透明状態じゃ」

 モーラはペロペロと舌で顔を拭った。

「ど、どういうことやねんっ」

「魂とでも言ったほうがええのかのぅ」

 気持ちよさげに後ろ足で首を掻きながらとんでもないことを喋っている。

「た、魂?」

「まぁ、そんなもんじゃの」

 モーラは生あくびをしながら平然と答えた。

「うそやろっ。透明になっとるって言っとるけど、私には腕やら足やら見えとるし。しかも魂て。あほらしっ」

「お主には見えとるだけじゃ。他の人間には見えとらん」

「うそやっ!」

 死島は階段を駆け下り、営業中であるはずの店舗へいった。すると母の真弓が慌てた様子で店を閉める準備をしていた。

「ちょっと!」

 真弓には死島の声がまったく届いてない様子で、外へと走っていった。ドアがパタンと閉まった。

「ちょっとお母さん!」

 死島は真弓のあとに続いた。ドアを開けようとノブに手をかけるとすっと自分の手が通り過ぎた。何度も繰り返したがドアノブには手をかける事ができなかった。

「まじかいなっ!」

 ドアに体当たりするしかないかと思ったが、もしやと思い普通に歩いてみた。すると想像通り死島の体はするりとドアを抜け、外に出ることが出来た。

「ほんまに透明なんや…」

 信じがたい事ではあったが、納得せざるを得なかった。そして外の駐車場は何か慌しかった。その光景に死島は驚愕した。


2

 駐車場はまるで慌しかった。救急車の赤色灯がそれを物語っていた。

「百帆子!百帆子!」

 担架に乗せられて救急車に運び込まれるジャージ姿の死島に、父の芳路が幾度と無く呼びかけている。隣にいる母の真弓も目に泪を浮かべていた。先程までお好み焼きを嗜んでいたであろう数々の常連客も歯に青海苔を付けながら心配そうに事の成り行きを見ていた。マヨネーズが髪に付着した者もいた。

「うそやんっ!あれ私やん!」

 死島はわけがわからないといった表情で立ち尽くしていた。

「あれはお主の抜け殻じゃ」

 いつの間にか足元にモーラが鎮座していた。遠くを見るような目のその顔はいつになく険しかった。

「えっ!私、死んどるんっ!?」

「いや、死んではおらん、意識を失っているだけじゃ」

「どういうことなん!私どうなっとるん!?」

 モーラは立ち上がると死島に背を向け、蠟細工の入ったショーケースの角で爪を研ぎながら言った。

「お主も鈍いのう…お主は意識そのものじゃ。向こうに居る百帆子の意識が今の透明なお主といったら分かるかのう」

「全然わからんのやけど?」

「ではお主は今肉体と精神が分離した状態だといったら分かるか?」

 爪を研ぎ終え満足したかのように伸びをするモーラの言葉に死島ははっとしたように息を呑んだ。

「お主はあの肉体の精神…つまり心そのものじゃ。あの肉体を動かしている」

 モーラは平然と言った。

「じゃあ、私は今二つに分離してるってことなん?」

「まぁ、そういうことになるかの。ただ、この状況は長く続かない。お主が何もアクションを起こさなければ、あの抜け殻は植物人間になるか、そのまま死に至る」

「えっ!」

「お主、昔ワシに言ってたのう。ワシを抱きながら。人生つまらない、何も生きがいが無いと。このまま楽に死ねればどんなにいいかと。泪を浮かべてワシにそう言った。ワシはお主のすべてを知っておる。だから逆にチャンスではないのかの?このまま放置しておけばいいんだからの」

 死島は思い出した。悲しいとき、悔しいとき、辛いとき。側にいたモーラに自分のそのときの思いを独り言のように呟いていたのを。そしてその殆どが、自分のマイナス感情であったことも。モーラは知っている。自分の本当の心を。誰も気付く事のない自分の気持ちを…

「そか、このままにしておけば私は自然といなくなれるんか…」

 死島が乗った救急車に父と母が乗り込み、ハッチが閉められるのを見ながら言った。

「お主の肉体は、、だがな…それでもよいならこのまま事の流れを見てればいい」

「えっ?どういうこと?」

「いいか、お主はあの体の精神なのじゃ。肉体がこの世から消えるだけの事だ。だが精神は違う。このままこの世界に居残り続ける」

「えぇっ!それって霊って事!」

「そうとも言えるの。つまり、お主の身体が植物人間、或いは死に至ったとしても、意識だけは残り続けている。ということは何を意味するか分かるかね?お主が居なくなった世界を精神であるお主は嫌でも覗いていかないといけない」

 死島はぞっとした。自分がいなくなっても世の中は動いている。そしてそれは同時に父と母の悲しい人生を垣間見ることを意味する。何も触れられず、声すら届かず、その後の世界を今のようにずっと眺めている…

「そんなん嫌や!嫌や!嫌や!」

 死島は気が狂ったように絶叫した。

「理解できたようじゃの」

「こんなん嫌や!モーラ、どうしたらええのん私? さっき言ってたアクションを起こせばええのん?」

「解決策はただ一つ、お主があの肉体に入り込めばいい」

 救急車が大きなサイレンを鳴らして発進した。死島の肉体が離れていく。

「急げ!急がんと間に合わんぞ!」

 モーラが慌てるように言った。

「でも、もう間に合わへん。あんなに遠くにいってもうた」

「まだ目に入るうちは間に合う。お主は精神だ。障害物はいくらでもすり抜けられる」

「でも歩く速度は変わらへんやん。こんなん走っても無理やわ」

「大丈夫だ。呪文がある」

「呪文?」

「これからわしが教える呪文を唱えればお主は空中移動できる。しかも猛スピードじゃ。その勢いのまま救急車を追いかけてとりあえず中に入れ!」

「ほんまっ!早よ教えて!!」

 死島はモーラから教わった呪文を唱えた。

『鼻くそほじってピンっ!』

 刹那、死島は浮遊し、救急車と逆の方向へ猛スピードで飛んでいった。

「ばか者!救急車はあっちだ!」

 モーラの声が聞こえた。どうやら離れていても彼のメッセージは届くようだ。

「ど、どうすればええのん?」

「これを唱えれば一回転して逆向きにできる!」

 死島は大きな声で教えられた呪文を唱えた。

『ごちそうさまでしたっ!!!!』



3

死島は自身の肉体が運ばれている救急車を目指して猛スピードで浮遊していた。

「ひゃうっ!ひゃうっ!」

 救急車の後続車をすり抜ける度、死島は情けない声を上げていた。すり抜けられると分かってていても、ぶつかるのではないかという恐怖でいっぱいいっぱいであった。そしてようやく救急車まで追いついたのだが、死島は猛スピードのまま救急車までもすり抜けてしまった。

「ひゃうっ!よう考えたら止まり方分からんがなっ!ひゃうっ ひゃうっ もーちゃん!どないしたらええのん!ひゃうっ!」

「ちょっと待て、今忙しいのじゃ!」

 モーラが忙しいのは自分の事を思って色々と計画を立ててくれている為だろうと感じ、死島は感慨深くなった。そしてその頃、モーラは駐車場で見つけたトカゲを追い掛け回していた。

「もーちゃんっ!!!あかん、琵琶湖見えてきた!」

 死島の言葉にはっとして、モーラは賢者モードになった。

「ばか者!何処まで行っておるのじゃ!早く戻れ!」

 モーラのドスの効いた声に死島は事の重要性を再確認した。

『ごちそうさまでしたっ!!』

 例の呪文を唱え死島は向きを変えた。

「止まる呪文教えてくれへんかったやないか!!ひゃうっ ひゃうっ!」

 猛スピードで引き返しながら死島が叫んだ。

「すまん、忘れておった。これを唱えろ。真顔でな!」

救急車をすり抜けた刹那、死島は言われたとおり能面のように真顔になり、教えられた呪文を唱えた。

『ストッピング。』

 あまりに普通な呪文に拍子抜けしながらも、無事救急車の中に入り込むことに成功した。


 父と母はハンカチで鼻と口を押さえながら心配そうな表情で死島を見ていた。精神である死島には嗅覚がないため感じ取ることは出来なかったが、 恐らくうんこくさいのだろう。

「詳しいことは病院で検査してみないと分かりませんが、恐らく熱中症でしょう」

 救急隊員が説明していた。

「熱中症を侮ってはいけません。最悪死に至るケースもあります」

「えっ!」

「脳機能や腎臓障害などの後遺症もありうる、とても恐ろしい症状なんです」

 熱中症の恐ろしさというものを芳路と真弓は改めて実感しているようだった。

「じゃあこの匂いも…」

「おそらく本人が意識を失った瞬間にでも漏らしたんでしょう」

 死島はふむふむと真面目に聞いていたが、最後のやりとりを耳にして慌てふためいた。

「ちゃうっ!それは犬のうんこや!私が漏らした事になっとるやん!最悪やっ!」

「何をやっとる。早く肉体に入らぬか」

 モーラの声が聞こえた。

「どうやって肉体の中に入ればええのん?また呪文でもあるの?」

「いや、そのまますっと入り込めるはずだ」

 死島は自身の肉体に体を重ねるようにしてみた。だが、今までのようにするりと抜けていくだけだった。

「すり抜けていくだけで入り込めんけど?」

「ふむ、おかしいのう。何回かチャレンジしてみてくれ」

 死島は色んなパターンで肉体に入り込もうとしたがやはり虚しくすり抜けるだけだった。

「全然あかんわ。入れへん」

「うぬ、おかしいのう」

 モーラはしばし考えているのか、沈黙が続いていた。

「もーちゃん、私、このままなんやろか。もうこの肉体は死んでいって、私だけこの世に取り残されるんやろか」

 透明な死島の目からは涙がこぼれていた。

「もーちゃん、何か言って!もーちゃん!」

沈黙が続いていた。

「もーちゃんっ!」

「お、すまん、ちょっと取り込み中だったもんでの」

 一人になってしまったのかと泣きそうになっていた時、ようやく返事があった。モーラは自身の排泄物に砂をかけているところだった。

「考えたのだがの、御主、過去に何かやり残した事ないかね?」

「やり残した事?」

「そうじゃ。過去にやり残した事、もしくはやらなくて後悔した事、どちらでもよいが」

「いっぱいある」

 即座に死島は答えた。

「うぬ、恐らく原因はそれかもしれん」

「どういうこと?」

「つまり御主の精神が過去に未練を残したままになっているということじゃ」

「言っている意味が全然わからんのやけど」

「御主が今その肉体に入れないのは、未練を残したまま未来の自分に戻りたくないと拒否反応を起こしているのかもしれん、ということじゃ」

「えっ!」

「心当たりはいっぱいあると言っておったな」

「うん」

「よし、じゃあその中でも特にやり直したいことを一つだけ思い浮かべて大きな声でこう唱えろ。叫ぶように目一杯じゃ!そうすれば道が広がるかもしれん」

 死島は、やり直すにはあれしかない、とあの日の光景を思い出し、モーラに教わった呪文を叫んだ。

『セクロスッ!』

 刹那、目の前が闇に包まれ、無数の星のような光の点がものすごい勢いで流れていた。猛スピードでどこかへ連れて行かれている感覚だった。

「何やこれっ!もーちゃん! 何これ! もーちゃん」

「そこから先はわしは行けぬ。あとは自分でなんとかせぃ」

 エコーがかかったようにモーラの声が遠ざかっていった。

「もーちゃぁーんっ!」

 ごーっというすざましい音と共に死島は身を任すしかなかった。



4

 どれくらい時間がたったのだろう。突然ぱっと闇から光が差し込んだ。

「まっぶしっ! 目ぇ痛たっ!」

 死島は真っ暗な闇の中からフラッシュでも焚かれたかのような強烈な光で目を眩ませていた。そのうち目が慣れてきたのであろう、徐々に視界が開けてきた。フェードインしてきた光の視界の先には池があり、大きな錦鯉が口をパクパクさせながら気持ちよさげに泳いでいる。それは見たことのある懐かしい風景だった。木造の校舎とコンクリート建ての校舎との間にある、「憩いのひろば」という空間に死島は居た。

「ここってやっぱり…」

 ここはかつて死島が在校していた小学校だった。そしてこの場所の時空が現在でないということもうっすら認識できていた。何故なら本校舎と呼ばれていたこの木造校舎はとっくの昔に取り壊されているからだ。タイムトラベル――死島はそんな言葉を思い出していた。

 死島は記憶を頼りに当時の教室に向かった。死島の推測が正しければ今は給食の時間。そして死島はその日、日直当番であるはずだった。意を決して教室のドアをすっとくぐり抜けた。思ったとおりそこには二人の小さな男女がマスクをして教壇の前にいた。幼い顔をした向森勝則と死島だ。

「やっぱり間違いない、あの時空に私はいる…」

 今から起こる出来事を死島は理解している。呪文を唱えながら思い出していた記憶とは、まさにこれだった。 死島のやり直したい事――今では伝説にもなっているこの出来事をやり直し、なかった事にするということだ。そしてその時が来た。二人の小さな男女は顔を見合わせ、せーのっという風に声を合わせて口を開いた。

「みなさん手を合わせてください♪」

 見事なほどに勝則と死島の声が綺麗なハーモニーを奏でていた。ぺこぺこにお腹を空かせたクラスの皆は、目の前の食事にやっとありつけると言わんばかりに嬉しげに手を合わせていた。来た!っと死島は思った。

「ごちそうさまでした♪」

 勝則の「いただきます♪」の声に被せるかのように、手を合わせ丁寧におじぎをしながら「ごちそうさまでした」と死島は言い切っていた。綺麗にハモっていた男女の声が分離し、それはまるでステレオ音声かのようであった。無論周りはざわつき、爆笑の渦に巻き込まれていた。ギャグ冴えとる!めっちゃおもろいわ!などと、意図しない賛辞の声と笑い声があがっていた。特に八の字眉が印象的な大林隆一がはしゃいでいた。

「わちゃぁ、ほんまやってもうとるがな私。真剣な顔で自信満々に言い切っとるがな。。。」

 初めて客観的に見たそれは、当の本人でさえも笑ってしまう位の光景だった。

「こりゃ伝説になるわ…って感心しとる場合ちゃう! 早よやり直さな!ってかもう事が過ぎてしまってやりなおせんのかっ!」

 死島はしまった、と言う風にうなだれた。小学生の死島が例の台詞を言う前にあの体に入り込んで、正規の台詞を言わなければならなかったのだ。あろうことか死島は事の流れを普通に見届けてしまった。

「やってもうた。。もう終わりや。。」

 諦めかけていたその時、あの呪文を思い出した。

「もしかして…」

 自分の考えが正しければいけるはず…そう思いもう一度例の呪文を叫ぶように唱えた。

『セクロスっ!!』

 ぱっと一瞬闇に包まれたが、すぐに光が差し込み、視界が広がった。そこには二人の小さな男女がマスクをして教壇の前にいた。幼い顔をした向森勝則と死島だ。

 よしきたっ!と死島は思った。思い描いた場面でこの呪文を唱えると、もう一度その時空に戻れるのだ。

「セクロスってすっげー!。」

 感心してひとりごちていた刹那、「ごちそうさまでした♪」と聞こえてきた。周りからは大爆笑の渦があがっている。感心している間にタイミングを逃してしまった。

「あ、やってもた。。じゃあもう一度、セクロスっ!!!」

 闇が光に変わり、フェードインした視界には、二人の小さな男女がマスクをして教壇の前にいた。幼い顔をした向森勝則と死島だ。

「よしきたっ!今度こそ」

 死島は今から言葉を発する当時の死島へ駆け寄った。

「みなさん手を合わせてくださいっ♪」

「今やっ!」

 死島は手を合わせた彼女の中にすっと入り込んだ。いけた!と同時にすぐさま正規の台詞を口にした。

「いただきます♪」

 勝則の声とうまくハーモニーを奏でることが出来た。すると突然ごーっという音と共に視界が揺れ、目の前の光が徐々にフェードアウトしていった。そしてまた星のような光の点が流れ、猛スピードでどこかへ連れて行かれる感覚になった。



5

 気が付くと見覚えのあるいつもの天井が見えた。死島は自分の部屋の布団の中にいた。窓からはさんさんと初夏の日差しが差し込んでいる。

「あれ、私寝てたっけか?てかさっきのは夢なんかいっ」

 やけにリアルな夢だったなと思いながら、布団の上に温かみのある重さを感じて体を起こした。

「もーちゃん、いたんでちゅかー 暑いからどいてくれまちゅかー」

 死島は今年十三歳になったご老体の飼い猫、モーラを抱き上げ、猫なで声で言った。飼い猫のモーラはにゃぁと鳴き、ゴロゴロと喉を鳴らしすり寄ってきた。突然死島は何故か無性に母と父に会いたくなり、階下の営業中の店舗を覗きに言った。母の真弓は人気の唐揚げをフライヤーで揚げているところだった。

「あら ひーちゃん、どしたん?まだ出勤時間には早いで?」

 母の真弓が物珍しそうに死島の顔を覗き込んだ。

「ううん、ちょっと覗きにきただけ」

 すると新聞を読んでいた父の芳路が嬉しそうに死島のところへ来た。

「あそこの神社にレアキャラおるんや。行ってこかな♪」

 芳路はスマートフォンを片手にニヤニヤしながら言った。

「まだそれやっとるんか。もう時代は終わったで」

 死島は芳路を馬鹿にしつつも「パチモンGO」をやっている父親の無邪気な姿を見て、なぜか涙が零れていた。それを悟られないように死島は地元の新聞の「おめでとう」と「おくやみ」欄を見ている振りをした。暫くして、チリンっと来客を告げる店のドアが開く音がした。

「いらっしゃいませっ」

 芳路がスマートフォンを隠し、営業モードの声で言った。そこには八の字眉の見覚えのある顔が入ってきた。よぉ!、といって死島がいつも座っている喫茶ブースのカウンターに座った。小学校からの同級生、大林隆一だ。因みにあの日、一番大爆笑してた彼である。今は遠く離れた神奈川県に在住しているが、こちらに帰省するたびこの店に顔を出してくれる。隆一は死島の隣に座り、彼がいつもそうするようにビールと唐揚げを注文した。

「帰ってきてたんすか。また太ったんとちゃいます?」

 死島はあからさまに告げた。

「まぁええ加減おっさんやでな。あと数年でお互い40やないか」

「まぁそうですが…」

「同級生は相変わらず来てくれるんかいな?」

「ちょくちょく来てくれますわ」

 30を過ぎた頃、彼の提案で小規模ながらも同窓会をこの店で開いたことがある。当時は「フェイスノート」と言うSNSが流行りはじめた頃だった。隆一が影の発起人となって、かなりの人数の同級生を集めていた。彼のテンションの低下と、ブームも下火になった今ではそういったイベントは全くしなくなったが、いい思い出になったのは確かだ。なぜか隆一本人は同窓会を指示するだけで参加していないのであるが。

 それ以来、稀にではあるが、お客さんとして同級生が家族を連れて来店してくれたり、個人的にも訪れてくれるようになった。

「そか、なら良かったの。少しでも売り上げに貢献してもらったらええやな」

 彼はビールをグイと飲みながら言った。

「ここはええ憩いの場やで。少なくとも俺にとってはな。お主が同級生やなかったらこの店にも来とらへんと思うしな、ははっ」

「りゅうさん、ひとつ聞いてええ?」

「ん?」

「私、給食当番の日直の日、ごちそうさまって言ってへんやんな?」

「は?今更何を言うとんねん。あれはどう考えても記憶に残る世紀の伝説やろ!」

 そういって彼はキンキンに冷えたビールと出来立ての唐揚げを美味しそうに頬張っていた。


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