9
どのくらいの時間が経っただろう。時計など見る余裕が無かった。
第一叶多の手元には携帯も腕時計もない。
美夏の母親は、まだ起きない。
「おにいちゃん、おかあさんが起きないよ……」
美夏が握っていた叶多の上着の裾を引く。
声は酷く弱弱しかった。
「お母さんは疲れてるんだよ。もうちょっと寝かしてあげよう」
何度この言葉を返しただろう。
繰り返されるたびに効力を失っていく言葉に気付かなかったわけじゃない。
「うん…」
返事は小さい。
納得できていないのに、無理矢理納得しようとしている。そういった反応だ。
そしてずっと握られていた裾が離された。
あっ と思う。これは、失望だ。
叶多は美夏にどう声をかけてやればいいのかなんていう所まで気が回らなくなっていた。
そんな自分にようやく、気付く。
美夏は不安からかフルリと小さく肩を震わせていた。
もしかしたら、寒いのかもしれない。美夏の服はこの季節に着るにしては少々薄いように感じた。
春とはいえまだ外気は冷たい。いや、この場所ではそれはほとんど関係ないかもしれないが。
しかし光の入らない水の下では温かみの欠片すら感じられないのは事実だ。
取り繕うように、言う。
「美夏ちゃん寒いだろ? 俺の上着、上に着てな」
その言葉にぱちくりと目を瞬かせた美夏は、「ありがとう おにいちゃん」と久々にも感じる笑顔を見せた。
叶多も笑顔を返す。それは叶多の虚栄心を満たすのに十分なものだった。
美夏に後ろを向かせ、コートを羽織らせてやる。
その瞬間だった。
「さ…さむいよ……」
「おにいちゃん、さむい…」
「えっ?」
今まで美夏は「寒い」など一度も口にしなかった筈だ。
しかし今確かに肩を、体を、先ほどとは比べ物にならないほどに震わせている。
「おかあさん……」
そして突然叶多から興味を失ったように、ふらふらと寝ている母親の方に向かって行く。
その膝元、その腕の中に、自身の膝を曲げ丸まったような姿勢で横になる。
それは母親と胎児を連想させる体勢だった。
そして、動かなくなる。
「人は――「もういい」」
これまでと同じように、松浦が続けようとするのを遮る。
聞きたくなかった。
「こんなのおかしい。絶対におかしい」
頭を抱え、これまで起きたことを思い起こす。
口から出るのは全てを否定する言葉のみだった。
おかしい。間違ってる。おかしい。
『おかしい』
誰かの声と重なった。
バッと顔をあげる。声が重なったのに気付いたのは叶多だけではなかった。
彼は見つめていた。叶多を。
いったいいつからだろうか。
「お、お前のせいで皆おかしくなってしまったんだ…。一緒になんていられない、つ、次はきっと私の番だ!」
彼は指さし、
「お前のせいだ!」
そう言い放って、
バスのドアを開けた。
水が、流れ込んでくる。
ごうごうと。騒音を響かせて。
それはとても懐かしい音だと思った。
気付けは増田はいなくなっていた。泳いで脱出したんだろうか。
もう、自分には関係のない話だ。
「彼も、彼女も、この子も、あの人も……俺が余計な事を言わなければ、苦しまずに済んだのか……?」
「叶多は悪くないよ」
まだ一人、自分以外にも動く人がいることをようやく思い出す。
彼女はなぜここにいるんだろうか。
ここにいちゃいけない。死なせたくない。
ここにいるべき人ではない。
「松浦、泳いで逃げろ。このままじゃ溺れ死ぬぞ」
語調を強めて言うが、彼女はフルフル と首を振る。ひどく緩慢な動作だ。
水はもう腰まで来ているにも関わらず、焦っているのは叶多だけのようだった。
「皆俺のせいでおかしくなった。俺と一緒にいちゃいけない」
「叶多は悪くないよ」
同じように繰り返し、彼女は叶多の頭を撫でる。
じんわりとそこから熱が伝わるようだった。
「……寂しいんだね。叶多は愛が欲しいんだ」
「ち、がう」
見透かされているようで気味が悪い。恰好がつかない。いたたまれない。
混乱する頭は一つの答えを吐き出した。虚栄心の剥がれ落ちた、死への恐怖が支配した本能からの答えだった。
「違う!要らないっ。愛なんていらない!」
「欲しがってしまったら、俺も『ああ』なってしまうんだろ! ほら、どうせ…人間は愛がなくても生きていけるって言うんだろっ?」
フルフル と、彼女はまた首を振る。慈愛に満ちた表情で。
女神のような美しさで。
「ヒトは愛が無ければ生きてはいけないよ」
水で満ちたバスの中。静寂の中にリンと響いた。