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大谷が眠っているのか、死んでいるのか、それを判断する術は叶多たちになかった。
誰もそこに近寄る度胸なんて無い。
食べ物はもうない。
彼は言った。人肉でもいいと。
近寄った瞬間、先ほどの美夏のように絡めとられてしまうのではないか。
不信感、恐怖、不安。大谷を心配する気持ちはそこにはなかった。
なるべく大谷を視界に入れない。
それだけが叶多たちに許された対処方法だ。
「なぁ美夏ちゃん、もうあんな危ないことしちゃダメだよ」
心配だから、と建前を浮かべつつ、自分の中で気にし続ける『それ』から意識をそらすために、叶多は美夏に話しかけた。
「うん。でもね、だいじょぶだよ。おとうさんが……むかえにきてくれるもん。たすけてくれるもん!」
「おにいちゃんみたいにね、わるいひとをたおしてくれるんだよー」
そう言ってニコニコと笑う。美夏の中では叶多が大谷を倒したことになっているらしい。
ヒーローに憧れない男子はいない。向けられる好意や尊敬の視線に気恥ずかしさを感じる。
しかしそれに勝るほどの罪悪感とやるせなさに胸がズシリと重くなった。
「そっか。うん、でも約束してな。何かするときはお母さんかお兄ちゃんに相談して」
「うん!やくそくー」
差し出された小指に小指を絡める。酷く懐かしい気持ちになった。
こんなことをするのはいつぶりだろうか。
「ゆびきった」と指を離した途端、きゃあと笑った美夏はバスの運転席の方に走って行った。
既にあの恐怖体験は過去のものになったらしい。
「お父さんが迎えに来てくれる、か……。本当にこんなとこまで迎えに来てくれたらなあ」
何気なく、呟いた。
「……迎えになんて来ませんよ」
「え?」
まさか返事が返ってくるとは思っていなかった叶多は虚を突かれて目を瞬かせる。
「……夫とは何年も前に離婚してるんです」
「毎月振り込まれてた養育費が半年前から振り込まれなくなって、私が何を言っても「俺にも家庭があるから」の一点張りで……」
「娘の顔を見たら気持ちが変わるんじゃないかって……」
「……」
軽々しく言っていい話題ではなかった。何気ない一言がこの人を傷つけた。
本来なら、そう気にしなかったかもしれない。
でも今はそうじゃない。食料もなく、いつ助けがくるかもわからない極限状態。たった今娘が危険に晒されたばかり。
彼女の心はもう限界だったんだ。
「馬鹿ですよね。そんな気を起こさなければ、こんなことに巻き込まれたりしなかったのに」
さめざめと泣き出す相沢が痛々しかった。
何と声を掛けていいのかわからなかった。むしろ他人に、人生経験の少ない自分に何も言えることなど何もないのではないだろうか。
しかしだからといって何もしないのは気が引けた。
叶多はそっと相沢から離れる。
「なぁ、松浦さん。ちょっと協力してくれないか?」
「相沢さん」
相沢は既に泣くのをやめていた。それは傍に美夏がいるからだろう。
母親は強い。しかしそれは娘の前で涙を見せることは許されないということなのだろうか。
「なに。如月くん」
「……相沢さんは今、疲れてるんだと思います。頑張りすぎちゃったんですよ。だからちょっと……ちょっとだけ、横になっててください」
松浦と一緒に外れた座席をかき集め、簡易的なソファーのようなものを作った。
それを指さす。
「あれ……私のために?」
驚いたように目を見張らせた相沢は、しかし次の瞬間にはくしゃりと笑みを見せた。
こうしてみると美夏ととても似ているように感じる。
「ふふ、ありがと。なんだか、少し眠くなってきたみたい」
「ちょっとだけ……ね?」
と言って横になった相沢が起き上がることはなかった。
「人は寝なくても生きていけるのに、可哀想な彼女は眠気を思い出してしまったんだね」