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「い、いた……うぅ…くそっ……」
疼痛を訴える声は無意識だ。漏れ続けるそれは次第に誰とも知らぬ相手への罵倒へと変わる。
体中が痛い。そして冷たい。
自分よりよっぽど冷たく硬いものに体を押し当てている。……ツルリとして透明なそれは、どこからどう見てもガラスだ。
叶多の体は今、バスの窓に横たわっていた。
衝撃と共に、常識という脳の中のどこかにあるのだろう不定形のものが歪む感覚。
平衡感覚を失ったように、ぐわんぐわんと、めまいや頭痛のように脳内を襲うそれをやり過ごすと、
無意味な言葉を運び続けるそれは唐突に『バスが何かしらの原因で横転したのだろう』という模範的な回答を連れてきた。
あれから、あのさっきまでの日常からどのくらいの時間が経ったのだろう。
少しでも身を置かれた状況を理解しようと、己の顔のすぐ下にある窓の外へと目を細める。
地面、だろうか。ガラス越しに見えるごつごつとした茶色い隆起は土か岩肌のように感じた。
そのままの姿勢で視線のみを上に向けるが、よどみすらない真暗闇しか映らない。
これではダメだと、鈍くしか動かない体に一層の力を入れる。そうしてようやっと身を起こすことができた。
しかしそうして視点を変えたところで期待した光源は何も見えない。
真夜中なのだろうか。
バスの中は人工的な蛍光灯の光に真横から照らされている。それはいやに不気味な光景だった。
そのうち一つがジジジ と点滅する。
その音に弾かれるようにして、瞬間冷静になった頭が周りを見回せと言った。あの子は無事だろうか。
バッと音が鳴るくらいに勢いよく体をひねったつもりだった。
が、……遅い。
それは…そう、自分の体が自分の体ではないような感覚だった。脳が期待した通りの動きをしない、何ともいえない気持ち悪さ。
先ほどから体の動きが鈍いとは感じていた。だが痛みのせいだ、そう思っていた。
水の中……?
そう認識すると、コポリとどこかで水の揺れる音すら聞こえ始める。
息が、息が苦しい。
バスの中は水で満たされていた。
(息ができない、苦しい、くるし――)
喉を引きつった音が漏れる。
首を締められているわけでもないのに、そこに爪を立てて掻きむしった。
(痛い、苦しい、誰か)
(誰か)
「何をしているの?」
リン と鈴の音が鳴った気がした。その途端スッと脳が冷える。
そこで初めて気づいた。隣に人が立っている。
叶多のすぐそばにしゃがみ込んだ少女は、すっかり動作を止めたその手に細い指を重ねた。
「だって、水が……」
「水なんてないよ? 私もあなたも、ほら。ちゃんと喋って、息出来てるでしょう?」
「あ……」
なんで、気付かなかったんだろう。
「意識を失っている時も水の音を聞き続けて、痛みや混乱で体がうまく動かなくて、それで脳みそが勘違いしちゃったんじゃないかな」
「水の音……?」
確かに今も聞こえている。
『コポ…コポ…』
『サラサラ』
――この音は何だ?
「きっと、パニックになってるんだね。無理もないよ」
こんな状況じゃ。と言って彼女は頭上の窓を指した。
その瞬間、小さな光の筋が過ぎ去る。それも一つではなく、複数が一度に。
流れ星にも見えた。でもあれはそんなロマンチックなものなんかではない。
あれは…日を――いや、この場合バスの光を反射して泳ぐ魚の姿だ。
「…さかな……?」
「うん、そう。魚」
少女は冷静に言った。ひとつの戸惑いも感じさせない声音だった。
「私たち、バスごと波にのまれて……海か、川か、どこか水の中に沈んでしまったのよ」