除夜の鐘を聞きながら
その年の大晦日は、チラチラと雪の降る寒い日だった。
「おばあちゃん、なんかお話して」
美也は、こたつに入る祖母の隣に潜り込むと、甘えた声を出した。
「そうかいそうかい、どんな話が良いかねぇ」
美也はまだ3つである。
父親はなく、母親は美也を祖母、自分の母の幸子へ預けて家を出て行ってしまった。
時々帰っては来るけれど、小言の多い祖母とは折り合いが悪く、またすぐに家を出ていってしまう。そして50歳になったばかりの祖母は、仕事を続けながら美也を育てていた。
ガチャリ。
その時だった、
玄関で鍵を回す音がして、女性が二人入って来た。
一人は美也の母の恵美で、もう一人は知らない女性である。
「ただいま、美也、良い子にしてた?」
年に数回しか帰ってこない母が帰ってきても、美也には母という実感はなく、すぐに祖母の影に隠れてしまった。
「ホント、愛想のない子なんだから」と、美也の母はボヤいて自分の母の方へ向き直った。
「お母さん、もう少し愛想が出るように育てたら?」
「何を言っているんだい、急に帰ってきたと思ったら…。
そんなに気になるんだったら自分で育てれば良いんだよ、あんたの娘だろう?」
祖母は、呆れて応える。それでも娘は可愛いのか、黙って家の中に迎え入れた。
「ところで、そちらの方は?」と、祖母は、一緒に来たもう一人の女性を示した。
歳の頃は30を少し過ぎたぐらいだろう。女性なら、誰でも嫉妬しそうな体型と、不思議な色気を醸し出している。どちらかというと、美人の部類に入らない美也の祖母としては、あまりお付き合いしたくないタイプの女性だった。
「こちら、山村愛美さん。私の福の神よ。
この家に居付いている貧乏神を追い出してもらおうと思って付いて来て貰ったの。
愛美、こっちが私の母でここの主よ」
「まったくこの子は…」 祖母は、呆れたように呟いた。
「山村さん、ごめんなさい。この子が迷惑をかけませんでした?」
「とんでもない、私の方がいつもお世話になっていますわ」
愛美は、如才なく応える。そこへ、恵美が話を遮るように割り込んできた。
「だから、今日は彼女にも泊まって貰うから、二階の部屋を使うわね」
そう言って、美也と愛美を伴って二階に上がっていった。
それは、大晦日恒例の紅白歌合戦が終わる時刻だった。
恵美は、二階に上がったまま階下へは降りて来ず、それは美也と客人も同じだった。
一人階下へ残された幸子は、何処からか伝わって来た除夜の鐘を聞きながら、初詣へ出かけようか迷っていた。
ことり。
幸子は、勝手口の方で物音がしたような気がして、台所へ入ってみる。
そこには、痩せて顔色の悪い老人が一人立っていた。
悲鳴をあげようとしても、幸子の身体は動かなかった。彼女は、ただ口をパクパクさせてその老人を見つめる。その老人は、不思議な威圧感があった。
「長く世話になったな」
その老人は、幸子を見て口を開いた。
「やってきたのは福の神ではなかったが、私は子供が好きでね。これから起こることを想像すると、とてもこの家にいる気にならないんだ」
彼は、勝手に戸棚を開けると、中に入っていた日本酒を手酌で一杯飲み干した。
「あの女、気をつけたほうがいいぞ。お嬢が言ってたような福の神なら良いが、もっと禍々しいものだ。彼女に福をもたらす代わりに、アンタの一番大事なものを奪っていくはずだ」
そこで老人は、幸子の疑問に気がついたようだ。
「俺が何者かって? さっきお嬢が言ってた貧乏神だよ。
大晦日に来たのが福の神じゃなかったから、別に出ていく必要はないんだが、血なまぐさいのは苦手でね。あの女が何か始める前に出ていくことにしたんだ」
フッと、幸子の身体が軽くなり、動けるようになっていた。
「もう間に合わないかもしれないが、柘榴の実を用意したほうがいいぞ。もし、夜明けまでに手に入れられれば釈迦の加護を受けられるかもしれん」
そう言って、老人は勝手口のドアを開いた。
彼はそのまま、粉雪の降る闇の中へ消えていく。
幸子が、追いかけるように勝手口を開けると、老人の痕跡は、すでに足跡すら残されていなかった。そして、遠くから、百八回目の除夜の鐘が聞こえてきて、夜の闇の静けさに溶けていった。
元旦、東京の朝は遅く、ビルの間から最初の光が地上を照らすのは、時計の針がもうすぐ7の数字を示そうとする時刻だった。
その日は、前日に振った雪がかなり積もった元日の朝だった。
その、他に足跡すらない新雪の上を、点々と何かが赤く染めている。それは、幸子の家から出てきて、大通りの方までまで続いていた。
「間に合わなかったか…」
自称貧乏神は、その赤い染みを目で追いそう呟いた。さらに、その反対側、大通りの向こう、打ち捨てられた社に目をやる。
「なんで、切り倒したのかねぇ」
それは、先日まで境内の脇に生えていた柘榴の古木の事だった。
柘榴は、毎年たわわに実をつけ、その殆どを誰かが収穫していた。
「先の戦争が始まる前は、この近所であの柘榴に手を出す人間なんか居なかったのに…」
社の柘榴は神様の物。かつて、この近所の人々があの柘榴を神への供物として大切にしてきたはずだった。
「あ〜、やだだやだ、正月早々血なまぐさいことで」
貧乏神は、その染みを避けるように違う方向へ歩きだした。
誰かがその姿に気がついたら目を見張っただろう。なぜなら、その足元にはある筈の影と、柔らかい新雪の上に出来る筈の足跡がなかったから…。
元旦の、正月らしく人々が行動を始めた遅い時間。
老人の姿が多い古い住宅の一角が、多くの警官と消防、野次馬の姿でごった返していた。
きっかけは、朝刊をとりに出てきた近所の老人が、幸子の家から伸びている赤い染みを不審に思ったのが最初だった。
110番通報するまでもないと思った老人が地元の警察に電話して、近所の交番から警邏のお巡りさんが駆けつけて来たのがそれから30分ぐらい後、やって来た巡査が、鍵のかかっていない玄関の扉を開けて奥に声をかけたが、中から何の反応もなかった。
「ちょっとおじゃましますよ」
巡査は、そっと中に入ると奥へ進んだ。
特に変わったような様子は見られない。しかし、一番奥の、台所のドアを開けた途端、巡査はあまりの凄惨さ腰を抜かして後退った。
巡査より連絡を受けて、本庁から人が来るのにさほど時間がかからなかった。
手慣れた様子で立入禁止のロープを張り、その間に鑑識が中へ入っていく。
そこには、ベテラン鑑識達でも目を背けたくなるような状態の現場が保存されていた。
胸から包丁の柄を生やした女性と、食い散らかされた、というしかない幼女の死体。女の子は、原型を半分も留めていない状態だった。
「この家の住民はこの二人だけか?」
「もう一人、被害者の娘、子供の母親がいるようですね。
近所の連中の話では、母親と折り合いが悪くてあまり戻らない見たいですが」
班長の疑問に捜査員の一人が答える。
「あと、通報してきた隣の年寄りなんですけどねぇ…」
その捜査員は、言いにくそうにそこで口ごもった。
「なんだ?」
「通りの向こうの神社の石榴の木を切ったせいだと言うんですよね」
「はっ?」
「この辺には昔鬼子母神信仰があったみたいですね。それで、先月その社の石榴を切ったから、また鬼子母神が子供を襲い始めたと…」
「馬鹿な事を言っていないで、その娘とやらを探してこい」
班長の言葉に、捜査員たちは更なる聞き込みを開始した。その時の彼等は、まだ事件の手がかりがすぐ手に入るつもりでいた。
しかしそれは、後に迷宮入りする、連続幼児殺人事件の幕開けだった。
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