さよならと、賢者と
辺りは静寂に包まれていた。
生き物の声も、虫の鳴き声も、木々のざわめきさえも無く、異様に静まり返っていた。
次第に慣れてきた目が捉えた光景に、俺は言葉を失った。
俺達は「爆心地」の中心に呆然と佇んでいた。
「うっ……!」
周囲には腐敗した動植物の異様な臭気が立ち込め、思わず口元を押さえる。一息吸うごとに肺が腐ってしまいそうな、そんな臭いだ。
どす黒く変色した有機物の残骸が一面の地表を埋め尽くし、辛うじて木々だとわかる「黒い柱」のようなものが、視界の隅でグズグズと白い煙を吐きながら崩れ落ちた。
俺達のいる場所を中心に、半径百メルテは一面の「焦土」と化していた。いや、焦土という表現は正しくない。
全ての生命体が腐り尽きて分解してしまった、残骸だけの死に絶えた土地だ。
一瞬、世界全てがそうなってしまったかと不安にかられるが、俺の近くにいたイオラとリオラ、それに馬車が無事だとわかり俺は胸を撫で下ろした。
更に視線を転じると百メルテ程向うに、腐った土地と緑の森との境目が見えた。そこから先は今までと変わらない緑豊かなキョデッィテルの森の木々が風に揺れていた。
「イオラ、リオラ……大丈夫か!」
二人は互いの手を取り合って呆然と座り込んでいた。言葉を無くした二人の周囲、僅か1メルテの範囲だけに緑の草が生え残っている。馬車の周囲も同じように緑の草が残っていた。
俺は咄嗟に全力で結界を張った。馬車と双子を空間ごと隔離するようなレベルの結界で包み込み、マニュフェルノの『禁呪』から護るので精一杯だった。
俺が常時展開している十六種類の対魔法結界のうち『対腐』属性の魔法防御のみを、最大出力で256層重ね合わせ、俺と馬車と双子の周囲に展開したのだ。それでも最終的に残った結界は、僅か10枚だけだ。おかげで俺は殆どの魔法力を消耗していた。
馬車はマニュフェルノという「爆心」の真横にありながらまったくの無傷だ。
レントミアも当然、自力で結界を張れる。俺が展開するとほぼ同時に、馬車の周囲を結界で包んでくれていたようだ。つまり俺との二重結界で完全に護られたのだろう。
「プラム、ヘムペロ、レントミア! 無事か!?」
「ふぇ……? ググレさま、ぐぐれさまー!」
「賢者にょ、これほどの禁呪……あの僧侶、一体何者にょ!?」
泣きべそをかいているプラムと、冷静な元悪魔神官ヘムペローザ。二人は馬車の中にいて無事だったが、この事態を一番理解できているのは褐色の肌のダークエルフクォーター少女かもしれない。
「禁呪……。マニュが約束を……破った」
レントミアは屋根の上でよろよろと上がると、信じられないといった面持ちで俺に困惑気味の視線を向けた。エルフ耳が傾いでいる。
――マニュフェルノが唱えた極大呪文、腐朽魔法。
自分の全魔法力と引き換えに、周囲の全ての有機物を腐敗させてしまう死の魔法。
生命体の体内や表皮にいるバクテリアを魔力波動で変異させ、超活性化。周囲の有機物を瞬く間に分解させてしまう。それは周囲に存在するありとあらゆる生命、植物でも動物でも、生きていても死んでいてもお構い無しに発動する。
強固な対腐結界で身を守る以外、防ぐ手立ての無い必殺の暗黒僧侶の極大魔法。
マニュフェルノは生まれ故郷の村で、この禁呪を暴発させ壊滅させたと聞く。
呪われた血筋の忌み子として幽閉されていたマニュフェルノが、そこでディカマランの英雄――勇者エルゴノート・リカルと出会い、その後どういう冒険の人生を歩んできたのか、俺やレントミアにはわからない。
ただ、極大魔法の属性と効果、知識だけは俺達に伝えてくれていた。
そして、その禁呪は「以後使わない」と、マニュ自らが硬く誓ったものだった。
「マニュ、マニュフェルノ! どこだ!?」
俺は叫んだ。
周囲を見回すが姿が見当たらない。これを唱えたからと言って術者本人が消えてしまうわけではない。随分と後退してしまった緑の森の彼方に目を凝らす。と……、居た!
遥か遠方、森との境目の付近によろよろと遠ざかる人影が見えた。
「皆はここで出発の準備を! フルフル、ブルブル! 馬車に戻れ!」
俺の命令に、黒く腐った地面の中からヌボッ! と二対のワイン樽ゴーレムが姿を現した。この二体も有機物が使われているが、俺以外の制御を受け付けぬようにと、複雑な対魔法防御を施していた事が幸いし無事だったようだ。
「レントミア皆を頼む、俺はマニュを連れ戻す」
「ググレ! ダメだ! マニュは今……」
レントミアが後ろで叫んだが、そんな事はお構い無しに、殆ど残っていない魔力を搾り出すように魔力強化外装を展開した。
俺は地面を蹴ってマニュを追った。月面を跳ね飛ぶような格好で、マニュフェルノの元へと急ぐ。
魔力が尽きて無様に着地に失敗したところで、俺はようやく白い僧侶の衣装に身を包んだマニュフェルノの所へとたどり着いた。
はぁはぁと荒い息を吐きながら、ようやく追いついた俺に、銀髪の僧侶は振り返ると驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに唇を固く結んで足を速め、森の方へと向かってゆく。
「まってくれ、マニュ!」
マニュフェルノの小さな手を掴んだ途端、ジュワッという焼けるような音を立てて、俺の残り少ない結界が数枚消失した。
マニュフェルノが唱えた極大魔法によって、身体から放出された「腐朽」の魔力は、まだ燻り続けているのだ。
もし結界を持たない生身の人間なら、腕が腐り落ちていていただろう。
強固なはずの賢者の結界――「対腐」防御に特化したはずのシールドは、五枚を残すばかりとなっていた。魔力が尽きかけた今、結界を再生するよりも維持するので精一杯だ。
「哀願。さよなら……ググレ君、わたしはもう、皆と居られない」
その瞳からは涙が溢れていた。眼鏡の向うでウサギのような赤い瞳が儚げに揺れる。
「マニュのお陰で俺は、いや俺達は助かったんだ! なぜ去る必要がある!?」
「無理。私は、この身体から溢れる瘴気は……しばらく止まらない」
そういって視線を落とす足元で、青い可憐な花を咲かせていた草花が萎れ、先端からどす黒く変色し崩れ去った。
マニュフェルノが俺の手を振りほどき、再び歩き出そうとする。
「だからって行く事はないだろう! あの状況で、地中に居る魔物を倒せたのはマニュの魔法だけだったんだ。禁忌を破ってまで……助けてくれたんだろ! だからみんな助かったんだ……感謝してる、だから!」
「安堵。みんな無事ならそれでいい、旅を続けてほしい。可愛い、あの子を助けてあげて」
マニュが優しい目線を馬車の方へと向ける。細めた瞳が俺達に別れを告げていた。
「ダメだ、一人でなんて行かせられるか。俺達は……俺は、マニュが必要なんだ」
風が、腐った大地を吹き抜けた。
止まっていた空気が、時間が、再び動き出したかのように。
「無理。私から溢れる瘴気は……他の皆を殺してしまう」
「そんなもの、俺がなんとかする」
「無理。ググレ君にこの力は止められない。私の、身体に流れる魔族の血が生み出すものだから」
「く……!」
禁呪。その発動プロセスは、マニュフェルノの体内に溜め込んでいる「瘴気」を、解き放つものなのだ。瘴気は魔族の血が産み出すいわば副産物のようなものだ。
一時的にでも開放してしまった瘴気は、容易には収まらない。
「摂理。居なくなれ、消えろと言われ続けた……呪われた血の、私が背負った罪なの」
――何が摂理だ。
心の奥底から滾るような怒りが溢れ出した。
血筋が何だ、摂理がなんだ! お前は俺と同じ人間だ。仲間だ、友達だ。一緒に居たい。だから……助ける!
奥歯を噛み締め、拳を握り、目線を強くして腹のそこから叫ぶ。
「止めてみせる、賢者の力……見くびるなッ!」
「賢者。ググレ……君? でも、この瘴気は……封じられない」
「だったら、――逃がせばいい!」
俺は、柔らかく小さなマニュフェルノの手を握り締めた。
「駄目。危ない……!」
マニュが叫ぶ。だが俺は結界一枚だけを残し、残存した魔力全てを注ぎ込んで数百本の魔力糸を作り出した。そしてマニュフェルノの身体を繭のように包み、その根元を直接マニュフェルノの体内へ接続してゆく。
「う、ぉおおお!」
検索魔法で得た知識ではない。俺自身の直感と、これまでの冒険で培ってきた魔術の経験値だけが頼りだった。これは一か八かの賭けだ。
魔法糸が持つ魔力伝導性。その性質は俺とレントミアが見せた連携攻撃で実証済みだ。レントミアの極大魔法、円環魔法のエネルギーの弾道すら捻じ曲げたのだから。
――だったら、マニュの瘴気、つまり暗黒魔法の力だろうとも!
「マニュの全ての瘴気を、魔力糸そのものにアースのように伝導ッ! 絡め取り、纏わせて吸い取るッ!」
「吸収。!? うそ……瘴気が……吸い取られてゆく!」
マニュフェルノの瞳が驚愕に見開かれた。
吸い取り、逃がす先は俺が伸ばし続ける「魔力糸」そのものだ。
魔力伝導性を利用し、魔力糸をコイル状に束ねた即席の「蓄積装置」へと溜め込んでゆく。
見えない空間の向うで、糸はぐるぐると円を描き、やがて塊となり、一つの結晶のような形へと焼結してゆく。
「これがっ……! 賢者の……力だぁあああああ!」
全魔法力を蓄積装置へ投入し、超駆動! マニュフェルノの瘴気、腐朽の魔力、全てを蓄積し隔離する。
そしてそれは次元の境界を越え、物質世界へと顕現する。目の前の空間に眩い輝きとなって、小さな「結晶」が姿を現し始めた。
魔力の消耗と共に、俺が展開していた最期の防御結界が消滅した。
丸裸同然となった指先に、焼け付くような痛みが走る。僅かに残るマニュの腐敗の魔力で手が煙を上げて焼けただれてゆく。
「嗚呼。ググレくん……ダメ、そんなの!」
「ぐ、ぬぅうううう!」
だが、俺は手を離さない。全ての……瘴気を吸い尽くし、結晶化させる!
それが今、マニュを救う最善の手段だ。
完全に魔力が尽きたとき、俺はその場に倒れこんだ。
手のひらは完全に焼け、痛みも感じない。
同時にカラン……と、石の様な結晶が地面に転がるのを、真横になった視界の隅に捉えていた。
「どうだマニュ、これで……一緒に……居られるだろ」
「ググレ……くん!」
僧侶の瞳から零れ落ちる涙が、俺の頬を濡らしていた。
森の奥から流れてくる風が、爛れた大知を癒すかのように吹き抜けて、マニュフェルノの銀色の髪を揺らしている。
そこで俺の意識は途絶えた。
<つづく>




