王子エルゴノートの帰還
俺とエルゴノートが今後の作戦について会話を交わしていると、すたすたとリオラが近づいてきた。
「賢者さま、街の人がこっちに来ますよ」
「ん?」
栗毛の妹は静かに街並みの方を指さした。
けれど俺はその指差す方向ではなく、リオラの指先に目が行ってしまう。
綺麗に磨かれた爪はほんのりと桜色で年頃の女の子らしさを感じさせるものだ。腕も水晶の柱を一撃で叩き割ったとは俄かに信じられないほどに細く、たおやかな印象をうける。
と、指先はサッと素早く腰の後ろに仕舞い込まれてしまった。
「ツメの先が少し割れてて……恥ずかしいです」
俺の目線に気がついて指先を隠したのだが、別に怒っている風ではなく、純粋に照れていたようだ。
幾ら「鉄拳」を着けていたとはいえ流石に痛かったのだろう。
「そうか。無理をさせたみたいだな。どこか他に痛い所――」
「爪か! それはいけないな。見せてごらん」
ぐばっと俺を押しのけてエルゴノートが手を伸ばすが、リオラはさっと素早く一歩後ろに下がり勇者の魔の手(?)から逃れる。
「へーきです、勇者さま」
服の裾と髪を軽やかに揺らしながら笑みを零す。
リオラが身に纏っているのは水色の薄手の平服でワンピース風のものだ。オアシス都市カーニャンでは物珍しさと「可愛い双子の兄妹」ということで、道行く人々から結構注目されていた事をぼんやり思い出す。
エルゴノートが女の子の手を握りたがるのはいつもの事だが、リオラは上手く逃れているようだ。
反面、兄のイオラは男同士ということもあり、無警戒で握られまくっている気がする。
先日の食後の一時にイオラは庭先で剣の鍛錬をしていたが、「その振りをするなら、手はこうだ」と、エルゴノートが後ろから抱かかえるようにして手を握り腰に手を添えていた。あれも……今考えると必要じゃない気がする。
「まったくエルゴは少し自重しろよ……」
「ぬぅ? プラムやヘムペロの手を握り放題のググレには、俺の渇きは分からんか?」
「わからんわ!」
賢者と勇者がキッと目線を合わせるが、原因は実にくだらない。
これから大事な国家間の交渉があるというのにエルゴノートは相変わらずだ。
――まぁ、どんな時でもマイペースなぐらいがリーダーとしては安心だがな。
俺は溜息をつきつつも戦術情報表示に目を走らせた。
索敵結界が捉えた情報を表示している架空の窓には、街の住人を示す白い点がいくつか表示されていた。
危険な敵以外は通知しない設定だったので、気がつかなかったらしい。
見ると白い点が二つ近づいてきている。地区の代表者だろうか?
「お迎えした方がいいですか?」
館の家事全般とメイド的な立場を取り仕切るリオラとしては、お客様なら出迎えねばと考えてくれたようだ。
「いや……。まずは様子を見よう」
「はい」
「もしかすると街の人々はエルゴノートに用事があるのかもしれない」
俺はイスラヴィアの王子の腕をつついた。
「今はまだ……俺はこの国の皆にあわせる顔が無いよ」
エルゴノートがどこか沈んだ雰囲気を漂わせている。リオラ相手におどけて見せたのは、こうした不安な気持ちを誤魔化すためだったのだろうか。
「しっかりしろよエルゴノート。お前はさっき、この国の皆を救いたい、救えなくて何が勇者かって言ったばかりじゃないか」
まったく、とことんマイペースかと思いきや、俺みたいにナイーブな一面もある。今日の俺はなんだかメンタルヘルスばかりやっている気がする。
こういう事はメティウスにでも頼みたい所だが、いろいろな「アドバイザー」を自称するおせっかい焼きの妖精は、館のメンテナンスを終えるとリビングに置いてあった本の中にもぐりこみ寝てしまった。今は休眠モードで魔力を養っている最中だ。
「できる事なら俺は……。この国の元、王子としてではなく『勇者』として……悪い敵を倒し、それで平和をもたらして……めでたしめでたしと去ってしまいたいんだ」
「エルゴノート……」
エルゴは今のこの国の現状に責任を感じているらしかった。国を捨て自分ひとりだけ逃げた王子だと石を持って追われても仕方がない……。そんな風に考えているのだろう。
砂漠の民の平服を纏った背中は、近づいてくる人影が発するであろう罵りの言葉をじっと待っている咎人のようだった。
◇
端から見れば賢者の館は、水場の脇の地面にすっぽりと収まって、あたかも「最初からそこに建っていた」かのように見えるだろう。
忽然と出現した「賢者の館」に、周辺の住民達は驚き恐れ、誰も近づこうとしなかった。
家に手足が生えて歩いてきた、というだけでも腰を抜かす者が出る始末なのだから当然といえば当然だろう。
更にその後に始まった俺達とアーキテクト達による激しい戦いを目の当たりにして、驚きと恐怖で建物の中に身を隠し、嵐が過ぎるのを待つより他は無かったのだろう。
砂漠の空に突如立ち込めた暗雲の下で行われた戦闘は熾烈を極めた。
不気味に響き渡るサザンペディア・アーキテクトの高笑いと、エルゴノートの宝剣が放つ雷光、迸る赤い光線魔法、そして全てを吹き飛ばすほどの竜巻に、家の壁を破壊するほどの衝撃波――。
ネオ・イスラヴィアの首都インクラムドに住む人々にとっては、神話に出てくる神と悪魔の終末戦争が始まったのか、と恐れおののく程だったのだろう。
それ程までについ先刻行われた戦いは激しかった。
だが今は、空はからっと青く晴れ渡り、傾きかけた西日は、砂漠に流れる悠久の時間を感じさせるいつもの光景に戻っている。
「あれ……? やっぱり近づけないよ、長老さま」
頭に布を巻いた砂漠の民の少年が、戸惑いの声をあげた。
蜃気楼のように現れた「賢者の館」に近づこうとしても、いつの間にかUターンして、元の方向へ戻ってしまうのだ。
「フォフォ、幻惑の魔法、我らには越えられまいて……」
駐機中の館の周囲には、強力な幻惑魔法と認識撹乱魔法による結界が張られていて、普通の人間は近づく事はできない。
館の中から外は普通に見えるのだが、外から見れば蜃気楼のように揺らぎ、庭に人が居ることさえ認識できないだろう。
俺が「印」――これは一種の暗号解除魔法なのだが――を授けたものだけが自由に出入りできるのだ。
もっとも、中級以上の魔法使いならば、自らの感覚に頼らずに精霊の声に耳を傾けたり、魔力糸で周囲を探ったりしながら入り口にたどり着く事は出来るだろう。だが、そこから先は更に施錠魔法もあるので侵入は困難だ。
「こんな厳重な結界は見た事が無いわい……。噂に聞くディカマランの六英雄……賢者ググレカスさまのお力で間違いあるまいて」
ゆっくりと歩いてきた腰の曲がった老人は、あごひげを撫でながら白い眉毛の奥から瞳を光らせた。腰に下げた呪術用のまじない道具や、香草の入った袋をみると、呪術師か何か、あるいは祈祷師のような、祈りを捧げる役割を担う魔術に長けた人物だろう。
「長老様、その賢者さまも、エルゴノート王子さまのお仲間なのですか?」
「あぁ、そうじゃとも。あの恐ろしい魔王を打ち倒した我らが王子、エルゴノート様のお仲間の一人じゃ」
「す、すげぇ!」
少年が瞳を輝かせると、白髪の腰の曲がった老人は結界の効果ギリギリの範囲まで進んでから足を止め、館に向かって声をかけた。
「異国から来た英雄たちよ……! ワシはこの地区の長老、リディナールと申すものじゃ。悪霊に取り付かれたわれらの王と、呪いの暗雲に包まれたこの国を救って下さった事にまず礼を申し上げたい! お顔を見せてはくれぬだろうか? ――正当なる我らがイスラヴィア王の血脈、勇者エルゴノート王子よ! 是非、是非とも顔を見せて頂きたい!」
俺はその声を聞き、エルゴノートの背中を押した。
「ほら、お前を待っている。どう見ても歓迎さ、行けよ」
「あ、あぁ!」
エルゴノートは赤銅色の瞳に光を取り戻し、いつもの自信に満ちた表情をうかべると、館の外へと向かって歩いていった。
途端に声が、歓声が、あちこちからあがる。
一斉に、建物の陰に隠れて様子を伺っていた街の人々が駆け出してきたのだ。男に女、若者も老人も、子供に犬さえも。
その表情は皆、驚きと嬉しさに溢れていた。エルゴノートの周りにあっという間に人の輪ができる。
エルゴノートが人々にもみくちゃにされないのは、リディナールと名乗った長老の一種の結界魔法のお陰だろう。
「エ、エルゴノート様!?」
「間違いない、エルゴノート・リカル王子だ!」
「あぁ、エルゴノート様! ほんとうに、ほんとうにお戻りになられたのですね!」
「我らの正当なる血脈……エルゴノート王子だ!」
口々に叫び、あるものは嬉しさに泣き崩れ膝をつき、そして祈るような仕草を見せる。
エルゴノートは照れたような笑みを浮かべ、しかし、意を決したように白い歯を見せて笑うと、豪快な声をあげた。
「みんな、待たせてすまなかったな! 俺は――、この国に帰ってきたぞ!」
<つづく>