★プラムの涙
森を抜けると、目の前に黄色い麦畑が広がり、道端の草むらでは牛が何頭かのんびり草を食べている光景が目に飛び込んできた。
午後のティータイムの時間はとうに過ぎ、だいぶ傾いた光はオレンジ色を帯び始めているが、夕方まではまだ時間がありそうだ。
のんびりとした村はずれの牧歌的な風景は、魔物の襲撃が嘘のように平和だった。
「うおらぁああ!」
イオラの元気いっぱいの叫び声が聞こえた。
悲鳴ではなく、どちらかと言えば余裕のある歓声に近い。
辺りを探しまわるまでも無く、俺が探す一行はすぐに見つかった。
少しばかり進んだ畑の脇で、イオラが黄色い汁まみれになりながら、パンプキン・ヘッドの残党と死闘(?)を演じていた。
短剣を振り回して、体当たりをしてくる腐ったカボチャに叩き込む。
途端に、びゅっと噴出す汚らしい汁がイオラに降りかかった。
「うわぁ!? 目が……目がぁああ!?」
洗ってもらったはずの全身は、腐ったカボチャの汁で再び汚れ、酷い有様だ。
「……もう洗濯してあげないからね」
リオラの呆れたような声が続く。
妹のリオラとセシリーさんは少し離れた木陰で見物を決め込んでいる。もはや危険は無さそうで、イオラの独壇場、体力向上、経験値かせぎの場のようだ。
そして、何故か少し離れたところにプラムが一人ぽつん、としゃがんでいるのが見えた。
俺の目にだけ映る、戦術情報表示自律駆動術式には、その場にいる誰のHP減少も見られない。
つまり怪我も無く無事なのだ。俺はホッとしながら近づき声をかけた。
「みんな、大丈夫だったか?」
「あ! ググレさまなのですー!」
一番最初に俺に気が付いたプラムが駆け寄ってきたかと思えば、タックル気味に腰に抱きついた。
「ぐはっ」
……いつか腰を折るぞ俺は。
「ぶ、無事で良かった。イオラ以外は……かな」
「はいなのですー! イオ兄ィがまた臭くなったのですー!」
プラムが愉快そうに笑う。
「あれは名誉の負傷ならぬ、汚物まみれってやつだ」
「メイヨ……?」
ぱちくりと目を瞬かせて俺を見上げるプラムの赤毛頭を、俺はくしゃりと撫でた。
「賢者さま!」「ご無事で!」
セシリーさんとリオラも俺に気が付いたようだ。
俺は二人に軽く手を振って応えた。
絹糸の様な金髪をなびかせて駆け寄ってくる碧眼美少女、セシリーさんの笑顔が俺の疲れを瞬時に癒してくれる。やはり天使のほほえみの効果は抜群だ。
もちろんリオラだって可愛い。栗色の瞳と艶やかな髪、はにかんだ自然な笑みが年相応の女の子らしい。
「はは、笑顔の女の子二人に出迎えられるなんて……まるで俺のターンだな」
イオラは最後のカボチャにとどめを刺すと、その場にべちゃんと座り込んだ。荒い息を吐きながらも俺を見つけると、白い歯をのぞかせて笑みを漏らした。
五体ほど相手にしたらしく、相当疲労はしているだろう。
「……よぉニセ賢者! そっちは……片付いたのかよ?」
「あぁ、丁重にお帰り頂いた」
「剣も無いのに、あの化け猿を倒したのか……」
イオラが信じられない、という風に目を丸くする。
「殺したわけじゃない。だが相当痛めつけたから、もう現れることは無いだろう」
「あ、ありがとうございます……賢者様」
セシリーさんがぺこりとお辞儀をする。
「……やっぱスゲェな、賢者ってのは」
俺は、少年の素直な賛辞を聞き流した。
倒す事は出来たかもしれないが、あの猿が操られたものである以上、無益な殺生はしたくなかったのだ。暫く戦いから離れていたせいで、少し甘くなったのかもしれない。
――だが、誰が一体何のために……?
エイシェント・エイプスを操った者の目的が俺であることは明らかだった。
もしもセシリーさんやイオラたちを狙うなら、逃げる間すら与えないようにするはずだ。
俺は賢者として世界を回り、いろいろな冒険や戦いに身を投じてきた。
恨みを買う事もあったかもしれない。だがもし、俺の命を狙うなら、もっと上手い手があるのではないだろうか……?
あの程度の化け物一匹を俺に差し向けたところで、時間稼ぎにもならないのだから。
つまり、他の目的があったということか。
そんな事を考えていた俺の手が、柔らかいものに包まれて、俺は驚いて顔を上げた。
「ググレさま、ご無事でよかった……。なんとお礼を言っていいのか」
すこし潤んだ瞳でセシリーさんが俺の手を握っていた。
柔らかくしなやかな指先の感触に、思わずドキリとし、声が上ずる。
「あ、あっ……!? あの程度の化け物なんてよよよ、余裕ですよ。そそ、それに大猿はさておき、ここらを荒らすパンプキンヘッドを倒しまくったのは、イオラですから」
「わかってんじゃん、偽賢者」
生意気な顔で、カボチャの腐汁をぬぐうイオラ。
「イオ、調子に乗らないの」
しっかり者のリオラが叱る。兄のしつけ担当らしい。
「ご褒美に、帰ったら暖かいお風呂で洗ってあげるね」
「セシリーさま! それはわたしがやりますから」
「ダメ……! 私はあなた達のおねぇさん替わりなんですからね、イオくん」
「ふ、風呂ぐらい自分で入れるっつーの!」
セシリーさんとリオラがバチバチと視線をぶつけ合いながら帰り支度を始める。
「さ、かえりましょ」「いくよ、イオ!」「なんなんだよぉ!?」
黄色い汁まみれのイオラが両手を掴まれて連行されてゆく。
今度はお風呂でハーレムですか。
そうですか。あぁ、なんて羨ましい。俺の苦労の褒美は、セシリーさんの手の感触だけか……。
こんな事なら俺もカボチャ汁を頭から被っておけばよかったな。
先を行く三人の後ろ姿を見ながら、俺も歩こうとして、気が付く。
いつもなら元気なプラムが随分と静かな事に。プラムは、俺の腹のあたりに顔を埋めたままなのだ。
「どうしたんだ、俺達も帰るぞ」
「…………なのです……」
「……プラム?」
「……冷たかったのです……」
プラムの小さな肩が小刻みに震えていた。
さっきまで笑顔を見せていたのは、気丈に振る舞っていただけだったのだ。幼さを残す人造生命体の顔には、ただ不安げな表情が浮かんでいる。
お気に入りのメイド服も今は薄汚れ、可愛くまとめたツインテールも少しほつれている。
俺はプラムの頬についていたカボチャの汚れを指先でそっと拭いながら、静かに尋ねた。
「何が……冷たかったんだ?」
「森を走っていた時……、セシリーおねぇさまの……手……なのです」
――!
トクン、と心臓が脈打つのを感じる。
「そんなこと……! 人は緊張すれば指先が冷たくなるんだ、そんな事……何も……」
俺は自分に言い聞かせるように、語りかけた。
心臓の鼓動が急速に早まって行く。
モンスターと対峙していた時以上の、血液が逆流しそうな感覚に襲われる。
彼女に限って……そんなことがあるものか。
俺は湧き上がる暗い疑念を振り払うように、無理やりの笑顔で、プラムの両肩に手を添えて優しく囁きかけた。
「あの人は……、優しい人だよ」
けれどプラムは目に涙を浮かべて、ふるふると首を振って、
「セシリーおねぇさんは……糸をだしていたのです……」
「な……」
魔力糸、それは上級の魔術師、あるいは賢者であれば使える、魔力を糸状に束ねた仮想の繊維だ。
あの化け猿を操っていたのは確かに魔力糸だった。双方向の情報伝達が可能な糸を使い、魔物を遠隔操作するのは、俺の十八番でもある。
俺と同等……もしくはそれ以上の糸使い。
それがセシリーさんだとでも言うのか……?
考えたくもない可能性、信じたくない事実が、まるで死神の手のように俺の心臓を撫でた。
オレンジ色に染まった帰路の向こうから、イオラ、リオラ、そしてセシリーさんの影が長く伸びている。
「ググレさまー! お早く」
セシリーさんが振り返り叫ぶ。
その顔は、逆光でうかがい知れない。
その時、湿った生ぬるい風が吹き抜けた。
風はやがて夕闇を運んでくる。
何かが動き始めている、俺はそんな気配を感じ始めていた。
だが、それは疑念であって確信ではない。
「帰ろうプラム。俺が……一緒だから」
「はい……なのですー」
俺はプラムの小さな手を引いて、ゆっくりと歩きはじめた。
<章完結>