賢者、本気出す
「――急いで支度をしろ! イオラもだ! 来るぞ……今度は……」
俺は視線を森の奥へと向けた。
メキメキ……ズゥン……、という木々がへし折れ倒される音。
暗い森の奥で怯えた小鳥たちが一斉に飛び立つ気配が伝わってきた。
美少女二人に囲まれて、きゃっきゃうふふと水浴びをしていたイオラも流石に異様な気配に気がついたらしく、水から立ち上がると傍らの剣を取った。
「一体何だ!?」「賢者様……これは!?」「まさか……魔物……」
イオラ、リオラ、セシリーさんが戸惑いそれぞれ口にしながら、イオラの身支度を手伝う。
そうしている間にも、二本目、三本目と同心円状に配置していた魔力糸が切断されてゆく。
「大物のお出ましらしい」
重苦しく黒い気配が、急速に接近する。
――速い……! こんな場所に……現れるなんて。
嫌な汗が流れ、俺は奥歯をぎゅっと噛んだ。
魔力糸が切断される瞬間、伝えてきた敵の情報はかなりの上位魔物であるということだった。とはいえ……俺一人ならばなんとかなる。
だが、今ここに居るのは戦いに不慣れな兄妹と、か弱いセシリーさんなのだ。
「プラム、いい子だからよく聞け、セシリーさんと走れ。全力で、森の外へ」
「うん……、わかったのですー!」
「セシリーさん、この子を頼みます」
「は、はい!」
俺の真剣な様子に気圧されたかのように、プラムが素直に頷き、意図を察したセシリーさんが首肯する。
俺は身支度を終えたイオラとリオラに向き直ると、腰に手を当てて背筋を伸ばし、そして賢者らしく尊大な身振りを混ぜて命じる。
「イオラ、リオラ、お前たちはプラムとセシリーさんを護衛するんだ。森の外まで安全に、だ」
逃げろ、と言って聞くような二人じゃないだろう。
とはいえ今度の相手は強い。今のイオラでは一撃で戦闘不能になるのがオチだ。
だから二人には護衛任務という立派な職務を与えてやるのさ。
「なんだと偽賢者! お前、一人で戦うつもりかよ!?」
イオラが食い下がり、リオラがそれを制止するいつものやりとり。
「ここは俺が食い止める、お前たちは先に行け! ……と言ってみたいのさ」
俺は軽く笑みを作って片目をつぶって見せた。
「でも……!」
「お前たちは勇者志望だろう? 誰かを護るってのは、立派な勇者の務めだ」
不安げな面持ちのリオラに俺は優しく諭すように語りかけた。
「……わかったぜ、偽賢者!」
「はい、賢者さま」
凛、と澄んだ声が少年と少女から発せられた。
だが、それは凄まじい咆哮にかき消された。
「ゴガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
空気を震わせる野獣の叫びに、小鳥が一斉に飛び立ち、数体のパンプキン・ヘッド達が猛烈な勢いで俺達を掠めて逃げてゆく。
「ぅわッ!?」「きゃ!?」「かぼちゃのお化けが沢山なのですー!?」
黄色い低級魔物達は、びょんびょんと跳ねながら移動して、あっという間に繁みの奥へと消えていった。
それは上位魔物の気配に恐れをなしての遁走だ。
つまり、敵は群れを成さずに行動する、凶暴な単体魔物ということだ。
「セシリーさん、プラム走れ!」
「はい!」「ググレさまぁああ!?」
俺の声に弾かれたように、金髪と緋色の髪の少女が手を取り合いながら駆け出した。
続いて双子の兄妹も同じタイミングで駆け出す。
森の外までは百メルテ程の距離だ。走れば十分逃げきれるはずだ。
パンプキンヘッド達も逃げていった方向だが、イオラとリオラが付いていれば心配はないだろう。
――さて。
瞬間、俺の背後の木々が爆ぜる音と共になぎ倒された。
激しく飛び散る木々の枝が、バラバラと俺の周囲に降り注いだ。
「足止め役ってのは……、久しぶりだなぁ」
俺は静かにひとりごちると、ゆらりと振り返った。
そこに現れたのは異様に膨れ上がった体躯を持つ『太古の大猿』、エイシェント・エイプス。
牛二頭が現れた――と、最初は勘違いしてしまうかもしれない。
それが強大な筋肉を纏った二本の「腕」だと言うことに、一瞬遅れて気がつく。魔力により肥大した上腕を振り回す、破壊的な怪力をもつ上位の魔物だ。
■野獣型魔物・太古の大猿
HP:750
MP: 0
特殊:恐慌の咆哮
俺の眼前に、戦術情報表示自律駆動術式が、ポップアップで敵の情報を映し出した。
体力バカの魔物で、耐久性と体力値が異様に高い。
パンプキンヘッドのHPが僅か「20」程度という事を鑑みれば、いかほどの強敵か判るだろう。
胴体よりも太いほどに異様に膨れ上がった腕で木々を握り潰す。その落ち窪んだ眼に宿った禍々しい赤い鬼火が、もはや通常の生態系とは異なる魔界の存在であることを告げている。
考える間も無く、そいつは飛びかかってきた。
巨大な犬歯をむき出しにして、耳障りな獣の叫びをあげながら、瞬時に俺との間合いを縮めてくる。
俺はその場で身構えると、魔力糸を複数同時に操作した。
「糸」は幾らでも再生可能で、長さも限界はあるが自由自在だ。これは位相空間に展開する概念上の存在で、魔力によって編み込まれた術式の糸なのだ。
俺の魔力糸は複雑な軌跡を描きながら、エイシェント・エイプスに絡みついた。
それはおそらく、大猿には見えてもいないし、感じる事もない。
物理攻撃を殆ど弾くほどの強度を持つという大猿の表皮をいともたやすく透過し、体内深くに達した俺の魔力糸が、その皺の少ない脳味噌に触れる。
――運動中枢制御系に魔力干渉……改竄!
俺は、指先で円を描くようにしながら、自律駆動術式を静かに選択し実行してゆく。
本能と憎しみだけに支配された脳中枢の更に原始的な運動野、つまり運動をコントロールする大脳皮質の情報を、俺は瞬時に書き換えた。
眼前まで迫っていた大猿が、巨大な腕を振り上げた瞬間、エイシェント・エイプスは動きをピタリと止め、そして――自らの反対の腕を打ち砕いた。
「ゴガァアアアアアアア!?」
大猿が吠える。
振り上げた右腕が砕いたのは俺ではない。自らの左腕だ。
「楽しいピクニックを……邪魔してくれたお礼だ」
俺は大猿に肩をすくめて見せた。
エイシェント・エイプスは自らの一撃で左腕の骨が砕けたのか、ダラリと垂れ下がり、まともに動かすことは出来そうもない。
猿の瞳に宿っていた憎しみの炎が揺らぎ、やがてその声は徐々に弱まり、痛みに耐えかねたように身をよじりながら、森の方へと身体の向きを変えた。
このまま戦意を喪失し、逃げてくれないだろうか?
だが、ぶるぶると身体を震わせたかと思うと、再び激しく吠えたエイシェント・エイプスは、身体を捻りながら俺へと拳を振り下ろした。
「なッ!?」
その猿の瞳に、攻撃の意思は無かった。
あるのは戸惑いと、恐怖。何が起きているか判らない、という表情。
俺は咄嗟に後ろへ飛びのき一撃を避ける。俺が立っていた地面がえぐれ、同時に猿自身の拳が砕けたような音が響いた。
「ゴァアアア……! アァアア!?」
もはや悲鳴にも似た大猿の呻き。
通常、生物の身体は自らを傷つけるような行為には制限がかかる。いわゆるリミッターと呼ばれるものが無意識に作動するからだ。
だが、今の一撃は明らかにそれを無視したものだ。
嫌な予感がした。
そもそも、村の女たちがイチゴ狩りに来るような、平和な森に出没するような魔物ではないのだ。
パンプキンヘッド達とはレベルが違う、この猿は――。
――誰かに……操られているのか?
俺は近くで逃げ遅れたらしいパンプキン・ヘッドを操って、大猿の顔面へと体当たりを喰らわせた。
びちゃん! と盛大に潰れる哀れな低級魔物の腐汁に目と鼻を潰され、エイシェント・エイプスが悶絶しながらドタバタと転げまわる。
罪のないカボチャにはかわいそうな事をしたが、この際仕方あるまい。
「操られている、とするならばッ……!」
俺は魔力糸を高速で振りわまし、鞭のように大猿の周囲を薙ぎ払った。
俺と同じ魔力糸がコイツを操作しているとすれば、これでその「回線」を切断できるはずなのだ。
もちろんこれは「魔法戦闘の概念」を理解しやすく説明すればそうなる、という意味であり、実際は「高度な魔法術式同士の解呪戦闘」というのが正しいだろう。
「グモッ……!? グルァウウウ……ウ」
その読みは当たったらしく、エイシェント・エイプスは急速におとなしくなった。
状況がわからないのか辺りをきょろきょろと見回してから、怯えたように森へと逃げ込んでしまった。
やはり何者かに操られここまで呼び寄せられていたのだろう。それも俺と同じ魔力糸での操魔術を用いて……。
「面倒な事にならなければいいが……」
俺はズレれたメガネを指先で持ち上げる。そして、大猿がよろめきながら森の奥へと姿を消すのを、複雑な思いで見送り続けた。
<つづく>