レントミアと中年魔法使いの劣情
◇
昼下がりの王立図書館は利用者も少なく、ひっそりと静まり返っていた。
古びたインクと時を重ねた背表紙として使われているなめし革や木片、様々な背表紙が醸し出す匂いが複雑に絡み合い混じった空気が肺腑を満たす。
ググレカスが言うところの「至高の香り」というやつか。
レントミアが広い館内を見回すと、学舎帰りの学生が数人中央付近の共用デスクで本とノートに向かっていた。擦りガラス越しの柔らかな光が斜めに差し込み、空中の塵が時折妖精のように輝いている。
「いらっしゃいませレントミアさま」
「やぁマリエル」
すっかり顔なじみとなった司書官マリエルが、受付カウンター前で静かに声をかけてきた。グレーの髪をきゅっと纏め、司祭のような青い制服に身を包んでいる。受付カウンターに返却された本を数冊抱え、書棚に向かうところだったようだ。
本好きが高じて司書官となった彼女は、ググレカスとも気が合うようで、世界樹からいつ戻ってくるのかしらと気をかけていた。西国ストラリアから入荷した珍しい魔導書や、王都で人気の軽小説の新刊などを準備して待っているという。
「あのさ、ちょっと人を探しているんだけど」
「王城の中の方であれば何名かいらしていますが」
「魔法使いのメリハメール、来ていないかな」
「えーと、あぁ、それなら少し前にお見かけしましたわ。おそらく二階の第三閲覧室ですわ」
「ありがと」
「ごゆっくりどうぞ」
広大な館内を進み、天井を支える三本目の柱を右に曲がる。突き当りの螺旋階段を登って二階の左端のエリアが第三閲覧室だ。
壁とドアで区切られた先は、中央の閲覧用テーブルを囲んで書棚が並んでいた。書物はどれも貴重な専門書ばかりで持ち出し禁止、主に魔法関連の書物が多い。
細い窓が西側の壁にあり一階同様に光が差し込み、五つの閲覧用テーブルに濃い影を落としている。
さほど広くない閲覧室、目的の人物はすぐに見つかった。
年の頃は四十を過ぎているだろうか。禿げ上がった頭に落ち窪んだ眼窩には鋭い眼光。首を隠すような襟元が特徴的な長いローブを身に着けている。
メタノシュタットの最上位魔法使いの一人、メリハメールだ。
国王陛下の最側近の魔道師。防御系魔法を得意とする男で階位は最上位。それを誇るかのようにローブの色は銀色がかった白のローブを身に着けている。
だが魔法の実力ではググレカスには到底及ばないとレントミアは値踏みしていた。
「こんにちは、メリハメール殿」
「……これは、レントミア殿ではありませんか。こんな人気のない場所でお会いできるとは。まるで学徒に声をかけられたかと思いましたぞ」
上から下まで舐めるような視線を向け、粘っこい笑みを口元に浮かべる。
レントミアに向き直りながら素早く近くの書棚に細い枝のような腕を伸ばし、比較的新しい背表紙の魔導書を手に取った。
無数にある書籍の中から迷いなく一冊を選んだ動きに、かすかな違和感を覚える。
相手は海千山千の魔道師だ。レントミアも図書館に入る前に抜かり無く防御魔法結界を体表面に展開済みだが油断はできない。
「平服のほうが気楽ですから」
「いけませんぞ、姫殿下のお付きの近衛ともなればそのような……。愛らしいお姿ゆえ威厳というものがいささか足りませぬ」
「近衛だなんて恐れ多い。僕は食客に過ぎません」
「ご謙遜を。同じ最高位に位置する誉れ高き魔導師ではありませんか」
どこまでも控えめな口調。しかし喉の奥からは包み隠しきれない邪な昂りが感じられる。
レントミアは雑談にはそれ以上応じず本題に入る。
「ひとつお聞きたいことがあるのですが」
「おぉ、私に答えられることならなんなりと」
「最近かわったことはありませんか? 外国の魔法使いに絡まれたとか」
「さて……どうでしたかな。国王陛下をお護りする立場上、常に何らかの魔力干渉はございます故。時として払いのけることはありますが」
魔法の禅問答だとでも思ったのか、答えをはぐらかしている。するすると近寄ってきてレントミアの横に並び、馴れ馴れしく肩を寄せ本を開く。
「それより、この本をご存知で?」
「え、いや……」
「最近収蔵されたばかりの魔導書でしてな。北方で売出し中の魔導師が記したものです。忌々しいことに、実に難解で。妙に凝った術式が……ほら、ここなど興味深い」
そういってメリハメールは、深緑色の革細工で装丁された分厚い魔導書のとあるページを広げてみせた。
中は特殊な書体で書かれた何かの魔法の解説書らしかい。
「メリハメール殿でも難解なんて、おかしいですね。わざと難しく書いているだけでは? これは……確かに古代ユークルシア系の魔法記述ですが……」
「おぉ流石はレントミア殿、造詣がお深い。ここの『大いなる知恵の鍵、魔力を共有する術式』あたりの記述がなにぶん難解でして……度々足を運んでいるのですよ」
横から視線を感じるが、魔眼程度なら通じない。
レントミアは防御よりも攻めが特異な術者だが、並の呪詛程度なら撥ね返す自信はある。対魔法結界は十分に展開済み。何か企んでいるにせよ、いないにせよ、何か胡散臭い。ここはあえて相手の誘いに乗り情報を引き出すのも手か。
節くれだった指先が、本の一部をなぞる。
――清めたる水晶同調せり、し魔素を擬、似的に介し、魂の憑……
「確かに難解ですね」
「……読めますかな? これは千年帝国の秘法、言葉を介さずとも心と魔法を伝える事のできる、共鳴術式らしいのですよ」
「共鳴……術式」
「そう、神託を受けるのに必要で大切な魔法の真髄です」
顔が近くて気味が悪い。生理的にこの男に近づきたくない。
チリッと目の奥に違和感を感じる。
「今日はもうこのへんで、う……?」
「おや、いかがなされましたかな、レントミア殿」
左目の奥に明らかな痛みが生じていた。
おかしい。本の中に書かれた文字列は読めば感染するような視毒性の強い術式など混じっていなかったはずだ。メリハメールの魔眼? 何かを詠唱した? いや、それならば索敵結界で検知できたはずだ。魔力が励起された気配は無かった。
この感覚は明らかに……呪詛だ。
ということは原因は魔道書――
ズキンと深い部分が痛み思わず目を押さえる。
「あっ」
「そうそう、言い忘れておりましたがこの本……。実に特殊な潜入工作用の魔法記述構文が隠されておりまして……。どんな結界を張ろうとも視界から入る情報は防げない。その仕組を利用したアナグラムを仕込んだ魔文らしいのですが……おやぁ? まさか、気づいておられませんでしたかな?」
しまった、と思ったときは遅かった。埒外に秘匿された術式が仕込まれていたらしい。
「くっ……!?」
刺すような激痛に左目を押さえ、よろける。
「まさか、今や姫殿下の右腕とさえ囁かれるレントミア殿が気づかれなかった? 気分がお悪いですかな? 大丈夫ですともささ、そこに腰掛けましょうか」
書棚に倒れ掛かりそうになる身体を抱き寄せて、メリハメールが顔を近づけてきた。ニタァと隠すこともなく厭らしい笑みを浮かべる。
「放……して」
「そうおっしゃらずに。私と同じ、すぐに『神託』を授ける側になれますから」
「神託……!」
こいつが神託者……!?
「ほら聞こえてきませんか? 声が――ガ『……(ザザッ)端末導入術式侵入。強制挿入術式、アンカー展開中……進捗25パーセント……』あぁほらぁ、福音ですよ」
メリハメールの口から別人の声が漏れた。
聞いたことのない、男とも女ともつかないノイズのような、声。
「これで僕に……遠隔操作系の術式を仕込む……つもり」
痛みは眼球の奥から次第に首の後へと浸潤してくる。ジワジワと身体を支配されていく感覚に、次第に声が出せなくなる。
「おぉ、流石ですレントミア殿! ご理解が早い……(ザッ)――『我が名は、ゼロ・リモーティア・エンクロード。過去と未来を繋ぐ魔力の総体にして全てを統べる智慧の具現。失われし千年帝国栄光の魔導領域へと至るもの。我と共に歩めば汝、福音が与えられん……(ザザッ)進捗35パーセント……』」
レントミアの身体を引きよせ、節くれだった汚らしい指先を細い首すじに這わせてくる。悪寒と頭痛で吐き気がする。
「誰が……お前なんかと」
至近距離で殺傷性の火炎魔法を体内に流し込んでやろうかと考えたが、この密着状態では同じことが相手も可能なのだ。むしろ頭痛で高速詠唱が阻害され不利な状況だ。
ありったけの対抗術式を頭の中で唱えても謎の術式の浸潤を止められない。
最初のきっかけは怪しげな本だった。だが脳の思考領域の一部を支配しようとする魔法の術式は、レントミアの肌に触れるメリハメールの手を中継し、流れ込んできているのだ。
まるで接触感染するように。
「抗えば辛いだけですよ。そう、みんな一つになればいいのです。一人の魔力は小さくとも、皆がさらなる大きな力を得るために……あぁレントミア殿はお若いもうすこし肌に直接触れて……」
「やっ……」
ニチャァ……と耳を黄ばんだ歯でかじろうとした、その時。
「ぎゃっ……!?」
メリハメールが悲鳴とともに手を引っこめ、後ずさった。レントミアはよろけながら離れ、テーブルを挟んで向き合う。メリハメールは右手の先を押さえていた。
見れば指先がジュウ……と酸で焼けただれている。
「おのれ……!? なんだそれは」
『――薄汚い手で触れるんじゃない。これは俺のものだ』
キュッと肩から小さな声がした。
見るとピンク色の水玉がにゅるにゅると這い出し、ぴゅっと酸を飛ばす。
「そ、その耳障りな声は……賢者ググレカス……!」
メリハメールが歯ぎしりをする。
「ググレスライム、いつの間に……」
『――図書館は俺の庭だ。本を食い荒らす虫の対策と、盗難防止のためにあちこちに潜ませている』
しれっと言い放つが、いつからググレのものになったのか。
「それ、見つかったら怒られるからね」
『――大丈夫かレントミア』
「ちょっと苦しい」
はるか世界樹から遠隔通信を通じ、ググレスライムを介して声を送り届けている。
通常の音声魔法通信で無いのは、位置をググレスライムのほうが特定しやすいからだろう。
『――対抗術式を俺が唱えるからスライムを耳に。古代ユークルシア系の呪詛なら、俺も世話になっているからな。侵攻を止め、解呪する』
「気が……すすまないなぁ」
にゅるっと左耳にググレスライムをかぶせる。と聞き慣れない呪文の詠唱が聞こえてきた。それは頭の中で魔法円を描き、呪詛の進行を遅らせた。
「ここで邪魔などさせるものか!」
メリハメールが両腕を突き出し魔法を励起した。室内の空気が一気に変わる。魔法の使用禁止という禁忌を犯してもここでレントミアを支配下に置くつもりだ。
レントミアは結界を張りつつ距離を取る。
「でも尻尾をつかまえたよググレ」
『――あぁ、今そっちに援軍が向かって……心配は無用か』
「レントミア殿の柔肌に触れたいい――」
欲望を露にした瞬間、真横にメリハメールが吹き飛んだ。
「ギャッ!」
書棚の一つを突き破り、次の書棚に背を打ち付けて止まる。盛大に本が崩れ魔導師の身体を埋めた。埃が舞い上がり視界を遮るが、入り口の向こうにしなやかな女性のシルエットがあった。
「私としたことが、つい図書館で禁忌を犯してしまいました。故にしばらく謹慎をしなければいけませんね」
「レイストリア……!」
<つづく>




