海と空と賢者と、メティウス姫の願い
メティウス姫が封じられている閉鎖空間、「図書館世界」は崩壊の時を迎えていた。
空間を支えていた「人々の願い」や「思いの力」が枯渇し、支えきれなくなったのだ。
それは姫の物語を「魔女の未来予見」と信じていたクリスタニア達の心が離れたからに他ならない。
数百はあろうかと思われた書棚は迫り来る暗闇に次々と飲まれ、悲鳴のような音をたてながら砕け散っていく。そこに並べられていた本も次々と砂粒のようになり、闇の彼方へと消えて行くのが見えた。
俺とてあの闇に飲まれれば同じ運命を辿るだろう。
――何処とも知れない宇宙空間に放り出されるなんて冗談じゃない!
俺は「賢者の無敵結界」の展開範囲を最大出力で展開し、空間を内側から支えようと試みたが、僅かにその浸食を遅らせるのが精一杯のようだ。
空間そのもの崩壊を支えるには、あまりに非力なのだ。16層ある俺の結界が一枚、また一枚と負荷限界を超えて破壊されてゆく。
「くっ……! 長くは持たんな」
見れば四方の書棚全てが同じ状態だった。俺と姫が居る場所を中心にして、半径10メルテ程までにその包囲網は狭まっていた。捻じ曲がり崩壊していく闇の壁が、じわじわと近づいてくるのは相当の恐怖だ。
姫はずっとここで一人、崩壊の足音を聞いていたのだ。
逃げることもままならず確実に近づく「消失」という死の足音をずっと感じているのは耐え難い絶望と恐怖のはずだ。
まるで黒い球体に飲み込まれ、内側に押しつぶされるような感覚の中、俺は必死に姫を救う方法を考えていた。この空間を結界で俺が支えるのは無理だ。僅かに時間を引き延ばしたところで崩壊は止められない。
ここから脱出するだけならば、空間を切り取るほどに強力な結界を造る要領で魔法力を一点に集中し、ぶつけることで「穴」ぐらいは開けられるだろう。
だが、それではおそらく姫を外の世界には連れ出せない。
この空間から抜け出した途端にメティウス姫は形を失い、本当に天に召されるだろう。
結果的に俺をこの世界に呼び寄せて、賢者として導いてくれた姫を、俺は全力で救う義理があるのだ。
――だが、どうすればいい……!?
「賢者さま……」
車椅子から不安そうな面持ちで身を乗り出した姫の身体を俺は支えた。
「大丈夫だ。今……君を救う手立てを考えている。だから、先に逃げてなんて言わないでくれよ」
「でも! このままでは賢者さまも……」
姫のか細い肩が震えていた。
消えてもいい一人でいるのに飽きた、と言っていた姫だったが、迫りくる暗黒の壁を目にして、やはり恐怖がこみ上げてきたのだろう。
だが、それはむしろ喜ばしいことかもしれない。生きているのと何ら変わらない姫の霊魂は、豊かな感情をずっと失わずにここまでいたのだから。
もし、人間としての心を失えば、死霊となんら変わらない存在になり果てるからだ。
ビキシッ、と鋭い音を立ててまた俺の結界が砕けた。
ビリビリと空気が震えると何匹もの検索妖精達が逃げ惑った。手のひらに載るほどの大きさの、羽の生えた少女の妖精は、俺に力を与えてくれる図書館を司る精霊達だ。
時空を超越しありとあらゆる本の間を自由に飛翔するこの妖精たちでさえ、この異変は予想できなかったのか、慌てふためいたようなでたらめな軌道を描いて飛び回った。
「妖精たちよ、俺のローブに隠れろ!」
俺は叫び、検索魔法画像検索を唱え、自らの「賢者のローブ」を指示する。もちろんこれは「書籍」ではないが、この空間内部ならば同じことだ。
途端に俺のローブをめがけて、検索妖精達がよろよろとと舞いながら集り、ローブの中にしがみついた。
その数は数十人(匹か?)はいるだろうか。
重さも何も無く、言葉も発さない小さな少女の姿をした妖精たちは、明らかに怯えていた。
世界に散らばった全体で一人に、一人で全体に情報を伝播する力を持つ妖精たちは、本を調べたその知識を共有できる。
俺の検索魔法は、まさにこの妖精たちの生み出す知識共有の原理を利用しているに過ぎないのだ。
「こんなに沢山……! この図書館に住み着いていたのね」
姫は優しく微笑んで、妖精に白い指先をそっと伸ばす。自らの存在が危ういと言うのに、その仕草や表情には悲壮感はまるで無い。
俺の傍らにいる姫はまるで、これからもずっと変わらないかのように安らいでいて……、
「あ……、あぁ! そうか! そうなのか……」
俺自身が今、姫を想い、必要だと感じている事自体が、姫の存在を確かなものにしているのだ。と気づく。
「賢者さま?」
「姫、すこしだけ覚悟をして貰う事になるが……」
「え……?」
限定された空間の内側だけとはいえ、生きている人間と変わらない思考と暖かい肉体を持ち、生前さながらに感情を発露するこの擬態霊魂と言う魔法は、恐るべき超高度な魔術だ。
神話世界の伝説の賢者、ヴィル=ゲリッシュは、擬似空間の維持、霊魂の固定、そして擬似的な肉体の維持に、「人間の想いのエネルギー」を利用するような仕組みを作り上げた。
本物の賢者を超える事は出来そうも無いが、一つだけこの姫を救う手立てがある。あるとすればだが、賢者ヴィル=ゲリッシュがこれほどまでに優れた魔術師であるならば当然、考えていないはずがないのだ。「隠しコマンド」的な抜け道を。
「姫、運命も理も……超えて行く覚悟ができるかい?」
俺は姫の両手を掴んだ。それぞれの手で、ぎゅっと強く。碧く澄んだ瞳が俺を見つめた。
僅かに瞳を閉じて、そして
「――はい!」
姫は弾むような声色で返事をし、深く頷いた。
そうと決まればこうしてはいられない。姫自身の内側にあるはずの、思いの力が残っている今が最後のチャンスだ。
「姫、立てるかい? ここから出るんだ」
「だけど……、無理です……わたし、脚が……うごかないの……」
姫は怯えたように自らの脚に視線を這わせた。生まれながらに体が弱く、城の外に出たことの無かった姫は16歳で世を去ったのだ。
「ここは姫の世界ななんだ。つまり、まだ姫の「世界改変」の力が通じるはずだ! 強く、生きたいと願うんだ!」
「願う……かいへん、セカイ?」
俺の言葉にどうしたらいいか判らないというふうに目を瞬かせる。
「歩きたい、飛びたいと!」
書棚が後ろでまた崩れ去った。徐々に空間が小さくなってゆく。
「歩く……? 私が?」
俺は戸惑いの表情を浮かべるメティウス姫の足に、魔力強化外装を展開した。他人に実行するのは難しく制御にはコツが必要だ。だが、ルゥローニィの腰フリを抑えたりする技術がここで役にたった。
姫の両手を握り、姫を少々強引に車椅子から引き剥がし立たせる。
「きゃ! す……すごい……わたし、立っているの……!?」
驚愕と戸惑いと、そして喜びの表情を浮かべ、姫が生まれたての小鹿のような足取りで一歩、俺の方へと進む。
「そう! 俺と一緒なら、姫は立つ事だって、歩くことだって、そして、外の世界へだって行くことができるんだ」
「外の……世界へ?」
「あぁ! 広い海や空、そして灼熱の砂漠に、真っ白な雪原! 姫が願えば、いけるんだ、俺と」
「でも、どうすれば……」
「『車椅子』は姫をここに縛り付けているイメージに過ぎないんだ。だからこうして立てるし、歩ける! 本当は、君は……この妖精達のように、自由に空を飛ぶ事だって出来るはずだろう!?」
「妖精……、素敵! あぁ……もしも、なれるなら、私、この子達みたいな可愛い妖精になりたい! 羽を生やして空を自由に飛んで! そして――ググレカスさまのお傍にいるの!」
「あぁ、俺も妖精は大好きだ。小さくて、可憐で、掌に乗せられる女の子なんて……男の、いや人類の夢だからな!」
姫はすっ……と瞳を閉じて、俺の言葉をイメージし始めた。
背後では次々と書棚が崩れてゆく。もはや五メルテほどの空間だけが離れ小島のように残されているばかりだ。図書館だった空間は、闇の中に浮かんでいた。
と――、メティウス姫の姿が黄金の光に包まれた。眩い輝きはその姿を覆い尽くし、やがて徐々に小さな光へと収斂してゆく。
それはすぐに小さな人の身体を形作り、背中からは光る透明な羽が伸びはじめる。まるで手のひらに乗せらそうなサイズに縮小したメティウス姫の姿は検索妖精とは違う、可憐な妖精へと変貌を遂げていた。
小さな顔を傾げ、俺を見上げると鈴の鳴るような声が響いた。
「ググレカスさま、私……、この姿は……!?」
「そう、それでいいんだ」
羽の生えた妖精の姿になりたいと、飛びたいと、外の世界に行きたいと――、メティウス姫は「願った」のだ。
強く、自らが変わりたいと。
だから変われた。
擬態霊魂の再構成は、やはり可能だったのだ。
――流石だな、偉大なる伝説の賢者、ヴィル=ゲリッシュ……。
<つづく>