擬態霊魂(ミリリアンソウル)と、賢者の因果
「お逢いしとうございました、メティウス姫」
「わたくしも、待ち焦がれておりました」
心地よい涼やかな声が、天から降り注いだ。
片膝をついた俺はその声に導かれるように頭を上げた。
目の前には、感極まったと言う表情で涙を零すメティウス姫の顔があった。
整った卵形の輪郭に蕾のような唇、潤んだ瞳は碧い宝石のようだ。しかしその長いまつげに縁取られた瞳は、不思議な星の煌めきを宿している。
姫は以前逢った時変わらない水色のドレスを纏い、蜂蜜色の緩やかに揺れる髪にリボンを結んでいる。
乙女の涙に俺は戸惑い何かを喋らなければ焦り、普段は使わないような堅苦しい言葉を無理やり紡ぐ。
「と、突然の訪問のご無礼をお許しください。本来ならば立ち入れぬ場所である事はわかっておりますが……」
「ふふ、賢者さま。あなたの言葉でお話し下さいませ」
「メティウス姫……! ううむ、確かにこれでは舌が回らない。では……、お言葉に甘えて」
互いに見つめ合うと周囲の空気が暖かく緩む。
「私が知っている賢者さまは何物にも囚われないお方です。おとぎ話の世界から現れて、自由で、強くて、優しくて、そして慈悲深く、世界を……人々を救ったのですから……!」
姫は白い絹の手袋の覆われた細い指先で涙を拭うと、ようやく笑みを漏らした。緊張がほぐれたのか、その小さな唇はいきいきと妄想の賢者を語る。
「ははは、それはたぶん俺じゃない。別の賢者さまとお間違えのようだ」
「そんな事は無いわ、ググレカス、あなたの事よ?」
「俺はただの本好きの変わり者だ」
「あら、それならば私も同じだわ」
悲しそうな表情から一転し、ようやくころころとした笑みを浮かべてくれる。
――やばい……、可愛いなこのお姫様。
なんというか、淑やかで「おひめさま」らしい仕草は新鮮だ。
指先の仕草とか、気品のある雰囲気とか。それでいて春の花のように柔らかく華やいだ雰囲気もいい。
少女ならば誰もが憧れるような、可愛らしいフリルのついた水色のドレスが華奢な体を包んでいる。その姿はまるで椅子に座ったドールのようにさえ見える。
足はやはり動かないのか、白い靴を履いた足先は置物のように揃えられたままだ。
「だが俺は……姫と交わした約束を忘れていたのです。何故だかは判らないが、まるで、記憶がすっぽり抜け落ちたみたいに……」
いい訳じみた俺の言葉に、少女は小首を僅かに傾げ、瞳を細めた。
「……それでも賢者さまは、私を見つけてくださいました」
細く暖かい指先が、そっと俺のほほに触れた。
その感触に俺ははっとして姫の顔を見た。その瞳はどこか悲しげだが、それでも嬉しそうな笑みを口元に浮かべている。
「この場所に誰かが来てくれたのは、あのパーティの夜が初めてよ、5年間ずっと私はここに一人だったわ」
「姫……」
「凄くうれしかった。奇跡が起きたんだって思ったの! だって……私が夢想していたほんものの賢者さまが来てくれたのですもの。ほんとうに、最後に逢えてよかった……」
「!? 最後……とは?」
――現メタノシュタット王、コーティルト・アヴネィス・ロードの愛娘、第二王女メティウス。五年前に忽然と表舞台から消えたと言われる姫は、本当は……君は、
「私は多分……5年前に死んでいるの。気がついた時からずっとこの本に囲まれた、暗く閉塞した世界の中に閉じ込められていたのだから。誰がそうしたのか、いえ……、私自身が生前に自らに行った魔術のせいかもしれません。理由はわからないの。けれど……もう、それも終わりみたい」
今日はあの子の5回目の命日だ、といったメタノシュタット王の言葉は真実だったのだ。愕然としつつも、語られた真実の重さに眩暈のする思いだ。
なによりも姫が告げた「終わり」という言葉の意味を俺は測りかねた。
「終わりとは……一体?」
「力を失ったこの世界はいま、閉じようとしています。……一冊の本を読み終えて、その表紙を閉じるみたいに」
本が好きというメティウス姫らしい言葉に俺はハッと息をのんだ。
さっき図書館で読んだあの本――!
――擬態霊魂
俺はそこでようやく理解した。
いたいけなこの少女は、神話の世界の賢者ヴィル=ゲリッシュが考案した『擬態霊魂』の魔法でここに囚われているのだ。
姫の世界とは即ち、秘蔵された本の文字列の情報の中を漂い続ける事なのだ。永遠に変わる事の無い文字のなかで、生きていた頃から引き継いだ想いを時折ページの片隅に落書きをしているだけの……、哀しい魂の幻影に過ぎないのだ、と。
「俺が姫を忘れかけていたのは、姫をこの世に縛っている魔法の力が弱くなった、ということか……」
世界の事象平面から姫の存在が消えかけているのならば、俺の異常な忘却の説明もつく。
「難しい事はわからないの。けれど……おそらくもう、誰も私の物語を必要としてくれていないの」
「物語を……?」
「必要とされなくなった物語は忘れられ、私も……少しずつ消えて行くわ」
姫はそこで本当に悲しそうに唇をかんで、ぎゅぅとドレスの裾を握り締めた。
英雄達と魔王の戦いを書き記したメティウス姫の日記は、クリスタニアの連中が魔女・未来予見と呼び、予言の書ともてはやされ、聖典とされていたはずだ。
清らかなひとつの世界への道しるべと信じて疑わない、理想主義者たちが突如、姫の紡いだ物語を捨て始めたという事なのか。
「……まさか……」
――俺が世界の理をねじ曲げ、死ぬはずの仲間を生かし、そして……魔王の転生すら阻止した事で、クリスタニアの連中はもう、ウィッキ・ミルンの預言書を信じなくなったという事なのか!?
ぐらりと視界が揺らぐ。ざらりとした冷たい手で心臓を掴まれたような気がした。
「俺が全て……予言とは違う道を進み、予言を覆して……しまったから?」
激しい動悸と眩暈に襲われる。呼吸が浅くなり、揺らぐ視界の向うで姫が何かを叫び、必死に俺の身体を支えようと腕を伸ばしている。
「違うわ、賢者ググレカス。あなたは運命を打ち破るためにこの世界に来たのだから」
「それでは姫は消えてしまう……!」
「いいの……。もうね、ここにある全てもの本も読み尽くして、飽き飽きして……退屈していたところなの」
姫が屈託のない笑顔を取り繕う。
「物語を予言と信じ、必要としていた者たちが居たから、今日まで存在していた姫を、俺が……破壊してきたという事か……!」
――なんて……ことだ。
俺が世界の運命を捻じ曲げてしまった因果が応報、俺自身がこの愛らしい姫を消そうとしているのだ。
クリスタニアの連中の信じる気持ちが、メティウス姫をこの世界に繋ぎ止める力――擬態霊魂のエネルギー源となっているというのは、なんという皮肉な神の悪戯だ。
この魔法を考え出した太古の賢者ヴィル=ゲリッシュはおそらく、「この世界に魂を繋ぎ止めるには、他の誰かの想いが必要だ」と考えたのだろう。
例えば、子を失った親がもう一度逢いたいと思う強い気持ちや、偉大なる指導者の死を悼み、復活や永遠の命を祈る国民の気持ちは魔術の源、すなわち動力源となるからだ。
――だが、それなら、まだ手はある。姫が消えてしまうその前に……。
その時、ギギギッ! メリメリ……と耳障りな音を立てて、数段先の書棚が軋み音を立てはじめた。
「な!?」
同時に、鳥が飛び立つように沢山の検索妖精たちが、金色の光の粉を散らしながら逃げ惑った。何匹かは俺の顔をかすめ、別の本の隙間へと逃げ隠れてゆく。
そうしている間にも、ビキビキと本棚が崩れ去り暗闇の向こうに塵となって消えていった。俺はその非現実的な光景に我が目を疑った。
「メティウス姫! ここから出よう」
「無理です賢者さま。私は……ここから出られません。私自身がこの場所そのものだから。それぐらいはわかるわ。もう……いいのです」
姫は静かに首を横に振った。
「よくない! ダメだ! 姫とはまだ……話したい事があるんだ! 物語の続きはどうするんだ!? 少なくとも俺は続きが知りたいぞ!」
俺はたまらず声を張り上げた。自らを奮い立たせるように一気呵成に叫ぶ。
「賢者……さま?」
大きく見開かれた瞳には俺の顔が映っている。吸い込まれそうな瞳がとても近く、姫の緩やかな甘い息づかいさえ感じられた。
幽霊だろうが霊魂だろうが……こんなにも確かな存在を、消させてなるものか。
「君には力があるはずだ! 未来を予見、いや、世界を変えてゆく力が!」
「確かに生きていた頃は何かそんな力があったのかも……しれません。それは物語を描くことで現れた力です。けれど、私にはもう力は残されていないの……」
「そんなはずはない。姫が書いた詩は、満点ではなくとも当たってはいるんだ。だから姫! 自分を信じて……願うんだ」
更に背後で音がする。空間全体が歪み始めていた。俺は姫の細い腕を掴み身構えた。戦術情報表示が警告を発し始める。
――空間歪曲率上昇、重力場異常検知。現空間を擬似空間と断定――!
警告が次々と浮かび上がる。想定していない空間の異常に、戦術情報表示でさえ対処方法を示せないでいる。
俺は知らず知らずのうちに擬態霊魂魔法が生み出した、メティウス姫を捕らえている擬似空間――一種の閉鎖空間に捕らえられていたのだ。
周囲を見回すと、俺達を中心とした四隅の書棚が同じように音を立て、徐々に底知れぬ闇の向こうに消え始めていた。
すぐそこはには虚無が口を空けていた。
本が宇宙の暗闇へ吸い込まれてゆくように、バラバラと音を立てて落ちてゆくのが見えた。
巨大植物怪獣、魔王デンマーンすら飲み込んだその内なる宇宙にも、暗黒の虚無が存在した。全てを喰らい尽くす無の世界が。
ゴゴオン、と鳴動し崩れ始める空間の真ん中で姫はじっと恐怖に耐えていた。俺の手をそっと離すと、気丈にも微笑みを浮かべる。
「お逃げください賢者さま……わたしはもう……」
「嫌だ。俺は……諦めない!」
俺は一度は離れた姫の手を、強く握りしめた。
<つづく>