星詠み離宮の囚われ王妃(前編)
◆
王都メタノシュタットは夜霧に包まれていた。
夜も深い時間とあって、城も城下街も静まり返っている。
暗い夜空に牙を向けるように聳え立つのは城の尖塔。かつては王国の権威の象徴、単なる物見やぐらと思われていたが、巨大な魔法の遺物『聖剣戦艦』が格納された強固なシェルターであることが判明した。現在はその地下に王国軍、特にスヌーヴェル姫殿下の私兵集団と噂される中央即応部隊――メタノミリティアの総司令部が置かれているという。
そのすぐ脇、闇夜にぼんやりと浮かび上がるシルエットは荘厳な王城だ。不夜城さながらに、ほとんどの窓に明かりが灯っている。
王城からほど近い北側に広がる森の中を、静かに移動してゆく一つの影があった。
ここは、王都の水瓶である『三日月池』を囲む森の中。辺りは暗い闇に沈んでいる。
「あ、虫に刺された。もう」
梢から漏れる月光が端正な顔を浮かび上がらせた。切れ長の目と、切り揃えた若草色の髪。揺れる髪の隙間から尖ったエルフ耳が突き出ている。闇に馴染む灰色のローブを纏った魔法使い、レントミアだ。中性的な顔立ちに、少年のような華奢な身体つき。だが、すでに成人の年齢に達している。
辺りは王都の中心にあるとは思えないほどの、深い闇に包まれていた。それを意に介す風もなく、鹿のような俊敏さで、木も灌木も避けて進んで行く。
『索敵結界』による地形と障害物の把握、それに『魔力強化外装』を連動させた芸当だ。魔法の力無くしては、厳重な警備体制を避けて、移動するのは困難だ。
「痒い。こういう暗闇でこそこそするのはググレの得意分野なんだけどな……」
ぶつくさいいながらレントミアが向かっているのは、メタノシュタット王城から離れた場所にある館だった。
目的地は三日月池のほとり。かつて賢者ググレカスの『賢者の館』が立っていた敷地と、池を挟んでちょうど反対側に位置している。
――星詠み離宮。
隠居した王族の住まいであり、魔法使いのサロンの分室でもあるという。
未来を見通す『星詠み』という秘密の魔術儀式。そうした未来を見通す予言の力は、代々メタノシュタット王族、それも女系のみが継承する魔力と云われている。
「あれだ」
鬱蒼とした木々の向こうに、小さな古城のような佇まいの建物が見えた。月明かりにぼんやりと浮かび上がったシルエットは、賢者の館よりも数倍大きい。だが決して華美な印象ではない。
目の前は三日月池、背後を鎮守の森。建物の周囲は背の低いバラが植えられた庭園になっている。
夜陰に乗じて侵入するには月明かりが強すぎた。レントミアは恨めしげに夜空を見上げる。
天頂では二つの月が、皓々とした光を放っていた。
ティティヲの夜空に浮かぶ二つの月は、赤みがかった方をルナ・アメジアル、青みがかった方をルナ・サフィリアと呼んでいる。
双方とも満月に近い待宵月で、魔術的にも決していい条件とはいえない。
他ならぬスヌーヴェル姫殿下の頼み。それに深い関係にあるググレカスの顔を立てる意味でも、ここは頑張ってみるしかない。
「よし」
意を決して近づくと薔薇の甘い香りが漂ってきた。
バラの咲き誇る離宮の庭園は、夜特有の湿った空気と相まって、濃厚で妖艶な香気に満ちている。
思わずうっとりと、芳醇な香りに惑わされそうになる。
男性ならまるで美女の色香に誘惑されたように感じ、女性ならばこの香りを自分のものにしたいという強い欲望に駆られるだろう。香りは容易に脳髄に届き、正常な判断を狂わせる。
「……香気による魔術結界なんて、流石だよね」
王妃さまを幽閉しているだけあって、いい趣味をしている。
けれどレントミアには通じない。三重の防御結界を展開しているところが大きいが、性的に中性的な体質であることも関係があるだろう。
庭自体も侵入者を惑わすある種の結界として機能するように巧妙に仕組まれている。迷路の形に植えられた木々も、全てに魔術的な守護の意味がある。
わずかばかりの距離が、ひどく遠く感じられた。
視覚からの情報と実際の庭園の様子が違う。自分の感覚が信じられなくなる。賢者ググレカスが多用する認識撹乱魔法そっくりだ。
感覚には頼らず、魔力糸による詳細な索敵結界により突破する。
「くっ……。これって中の人を、外に出さないための迷宮結界になっているんだ」
侵入者を拒み、内側の人間さえも檻のように閉じ込める。そう意図されたバラの庭園結界を抜け、屋敷に近づいた。
そこでレントミアは足を止めた。
すっと庭木の下に身を隠す。
受動型索敵結界に反応があった。
見上げると屋根の上空を、ゆっくりと横切って移動してゆく赤い小さな光が見えた。
「哨戒用の無人飛行魔法具」
警備が厳重だ。対人警戒用として世界樹を警備する『中央即応特殊作戦群』が利用している装備に似ているが、別種のようだ。省力化のために、王国の正規軍でもようやく導入しはじめたらしい。
だが能動的索敵結界のように積極的に魔力波動を放っているわけではない。映像による監視か、せいぜい熱反応の検知だろうか。
――『光学迷彩術式』に温度調整の『熱移送術式』を励起。
純白のローブは魔法使いの最上位を示すもの。だが闇夜では目立ちすぎる。なので光学迷彩術式で暗灰色に変え、表面の温度も下げる。
やがて空飛ぶ無人の小さなトンボは去っていった。
空からの哨戒は定期的に王城とこの『星詠み離宮』を往復しているらしい。
「さて、来てみたのはいいけれど、正門から入るわけにもいかないよねぇ……」
離宮には魔法のランプが煌々と灯されていた。警備の兵や魔法使いが、夜通し起きているだろう。
王立魔法協会の副会長という今のレントミアの肩書をもってしても、堂々と正面から入ることは叶わない。ならばちょっと潜入してみるしかないだろう。
「気が重いけど、しかたないね」
ここにスヌーヴェル姫殿下の母君が幽閉されている。名目は病気療養だが、しかしある時を境に「気が触れた」と噂される。メタノシュタット王妃様とのご対面のために。
<つづく>




