★邂逅、賢者と魔王
◇
気がつくと俺は「白い世界」に立っていた。
上も下もわからない、天井も壁も床すらも無い真っ白な空間だ。全身がふわふわとした感覚に包まれている。
――あぁ、そういえば……食われたんだったな。
「俺は……死んだのか……?」
一人ごちてみても返事は無い。もしかしてここは天国か地獄、あるいはもっとどこか別の世界なのだろうか?
魔王妖緑体デスプラネティアとの死力を尽くした戦いで、俺は……負けた。ヘムペローザとプラム達を何とか逃がすことには成功したが、力尽きた俺はヤツの体内に取り込まれてしまった……というところまではぼんやりと覚えている。
だが今は体も手足も自由に動く。身体に傷が無い事から考えると、どうやらここは夢の中か精神世界のような、現実とは位相のずれた場所なのだろうとおおよその察しがつく。
試しに「地面」と「扉」をイメージすると、白い世界に突如、固い床とシンプルな手書きの絵の様なドアが出現した。
「ほぉ……? なるほどな」
足の裏が硬い地面につく感触に、思わず感嘆する。
魔王妖緑体デスプラネティアの魔力回路を形成する魔力貯蔵庫あたりに、俺の精神だけが迷い込んでいるのだろうか?
自問自答してゆくうちに周囲の景色が明確に変化し、徐々に壁や窓が、そして床の模様がハッキリと見えるようになってきた。色は相変わらずの白一色だが、純白の大理石のような質感が生じはじめていた。
ここは円形の部屋で、ガラスの無い石組みの窓が計12個、ぐるりと俺を囲んでいる。見上げる天井も丸いドーム状で、塔の最上階にある部屋に似ていた。
見回しても出入り口らしいものは最初に現れた扉一つだけだ。
――まるで塔に囚われた姫君だな。
一人でそんな事を思いながら、扉に手をかける……と、何の抵抗も無くあっさりと扉は開いた。
「う……?」
俺は眩しさに顔をしかめた。目が次第に慣れてくると青と白の二色に世界は変わっていた。見上げる上半分は青い空のようだが、雲も太陽も見当たらない。目を凝らすと、それは碧く明るく輝く「宇宙」だった。
半球状の天球は、星空と昼間の青空を同時に写したような煌きで埋め尽くされていた。
一方の白い部分は、最初にいた部屋から続く大理石造りの床の延長だ。足は今もしっかりと踏みしめているし、磨きこまれた床に俺の顔が反射して見えている。
振り返ると開けたドアから続く白い床が、半円形のバルコニーのように広がっているようだった。
ここは、宇宙に突き出た「出島」のような不思議な空間だった。
――時空の……狭間か? まさかな。
「本日二人目の客人は……君か」
不意の声に俺はぎょっとしてあたりを見回した。すると、いつの間にか一人の人物が宇宙に突き出たバルコニーの縁、ギリギリのところに立っていた。
その姿に俺はハッとして身構える。
隆々とした筋肉に覆われた体躯、美しいまでに精悍な顔立ちを包むで赤黒い色の長い髪。挑発的な笑みを浮かべる口元に、射竦めるような鋭い光を放つ紅い瞳。何よりも目を引くのは凶暴なドラゴンのような「羽」だ。それは竜人族の青年だった。
そして――その顔には見覚えがあった。
「魔王……デンマーン!」
俺の喉から、呻くような声が漏れた。
魔王の城で戦っときとは幾分姿も雰囲気も異なるが、間違いない。魔王デンマーンだ。
俺は咄嗟に戦術情報表示を開こうとするが、反応が無い。再度試しても同じだった。直接口で詠唱してみてもダメ、魔力が励起しないのだ。
「なに……!?」
途端に心臓の鼓動が跳ね上がる。
猛獣の檻に裸で投げ込まれたようなものだ。
巨大怪獣の次は「魔王様」とご対面とは、厄日にも程がある。俺は神様に嫌われるようなことを何かしたのだろうか? ……逡巡すると思い当たる節が無いわけではないが。
「オレも試したが、どうやら無駄らしいぞ?」
「……!」
デンマーンが悠然と笑い、からかう様な声色で言葉を続ける。
「まったく『何も無い』ところだなここは。茶を出したいところだが、生憎ともちあわせがなくてね」
腕組みをしたまま超然と立ち、白いバルコニーの縁ギリギリを歩きながら、こちらに視線を巡らせる。
その姿は一糸も纏ってはいないが、鎧のような外皮のせいで裸だという感じはしない。まるで彫刻のように美しく完璧なその姿に魅了されそうになり、慌てて自分の体を確かめる。どうやら俺のほうはジーンズのようなズボンにシャツという、貧乏青年のような貧相な格好だ。身を守り自信を与えてくれる「賢者のローブ」は見当たらない。
「そうか、ここは魔王妖緑体……デスプラネティアの精神体の中、というわけか」
俺は辛うじて力の無い言葉を返す。
「魔王妖……プラネティ……? あぁ、この『零虚空』のことか」
魔王デンマーンは星のちりばめられた不思議な青空を仰ぎ見た。
「零虚空?」
「この閉鎖空間のことさ。植物系魔物の本能が生み出した閉ざされた世界。ただひたすらに増殖し、世界を食い尽くす虚無なる怪物の、内なる宇宙だ」
「この真っ白の、何も無い世界が?」
俺はあたりを見回した。
ほんとに何も無い寒々しい場所だ。これがあの化け物の心の中、増殖の果てに全てを喰らいつくし、虚無に覆われた何も無い世界なのか――。
「そうさ。君が必死で戦っていたこの化け物は……ただの食人植物の魔物が変化したものじゃない。集まったこの世界の『歪み』そのものさ。やがて世界が収斂する虚無なる暗黒と静寂、その美しい終着点が……この世界だ」
魔王デンマーンが呆れたような表情を見せ、饒舌に語り続ける。どうやら意外にもこいつは話好きのようだ。まぁこんな場所にずっといたのでは人恋しくもなるだろうが、俺は少なくとも魔王と死闘を繰り広げたディカマランの英雄だ。
「……だが。俺も最初はこいつを、この化け物を支配できると思ったさ、しかし――無理だった。今の俺は転生に失敗し、逆にこの化け物にさえ取り込まれてしまった哀れな『魔王』さ。滑稽だとは思わないか? 賢者ググレカス」
自嘲気味に肩をすくめ、俺に視線を向ける。俺はその言葉の意味を図りかねる。
「デンマーン、お前がこの化け物を生み出したんじゃないのか?」
「ハハ? 創り出したのは君だろう? 賢者ググレカス」
デンマーンは大仰に眉をひそめ、そして俺に目線を向けてハッキリと言い切った。
「違う、俺は……ただ、薬を……」
俺はそこで押し黙った。世界の「理」を捻じ曲げたという俺自信の罪が、この化け物を生み出してしまったのではなかったか?
デンマーンは俄かに険しい顔で俺を睨んでいたが、やがてふっと表情を緩め、そして、
「賢者ググレカス、君とは一度じっくり話しをしてみたかったのだ。オレと同じ千年図書館に出入りできる存在だからな」
「――!? お前も……あの書架迷宮を……知っているのか?」
「君ほど効率的に使うことは出来ないさ。だが、書き込むことは出来るがな」
――書き込める! つまり……千年図書館の書籍情報を書き換えられるのか!
「俺は、この力の使い道をずっと考えていた。世界を闇で覆い、支配する上で何の役にも立たない力だからな」
「あ……!」
「だが、『賢者』を名乗る君が現れた。千年図書館の力を驚くべき方法で駆使し、勇者達を導き、オレのしもべたちを次々と倒し、我が寵児ヘムペローザさえ葬った」
その目つきは相変わらず鋭いが、どこか諦めたような空々しい笑いを口元に浮かべている。
「オレは勇者に心臓を貫かれる瞬間、太古の書物の人造生命体を創り出す書籍に、自分が復活する為の『術式』を仕込んだのさ。オレは……賢者ググレカス、君の好奇心に賭けたのさ」
口元に嘲るような気配が微かに浮かんだ。
ぐわんと視界が歪み、玉の汗が吹き出す。
俺は……この魔王デンマーンにすべて見抜かれていたのだ。
賢者の力の秘密も、そして――、俺の心の空虚な部分が、やがて心の隙間を埋めようと、人造生命体の創造という禁忌へと手を染めるであろう事を。
「俺は……」
悔しさに打ち震える。
負けたのか。デスプラネティアにも、そして、魔王デンマーンにも。
「だがな、賢者ググレカス殿。オレも、実のところ失敗したのだよ」
「失……敗?」
溜息をついて再びバルコニーの縁に沿ってゆっくりと歩き始めた。
「勇者エルゴノートが持つ剣に……あんな秘められた力があるとは思わなかったからな。ヘムペローザと再会して確信したよ。……おかげでオレは転生に失敗し……いや、成功しすぎたのかな? ワイン樽の底で微生物のように蠢くだけの微小な存在にまで『還元』されてしまったのさ」
魔王デンマーンの言葉が意味するもの。それはエルゴノートの宝剣が持つ転生の力と、デンマーン自身が仕込んだ転生の魔術が干渉しあい、子供どころか胎児以前の細胞のような状態にまで還元されてしまったという事なのだろう。
転生の場所が俺の屋敷の実験室の「樽」だったのは、ヘムペローザと同様、異世界からやってきた特殊な存在である俺に引き寄せられたからだろう。
「そこで、植物の残りカスと仲良くなったというわけか……」
「まぁそんなところだ」
デンマーンは興味をなくしたかのように言うと、白いバルコニーの縁から、下を覗き込んだ。
そして俺を振り返ると、来いと手招きをした。俺は言われるまま、フラフラと縁まで近づく。
目もくらむような高さだった。そこからは世界そのものが水球のように見えていた。デンマーンの視線の先を、促されるまま更に凝視すると、チリッと光る火花が見えた。
更に目を凝らすと……巨大な怪物に挑みかかる人影が、見覚えのある人達が、戦っている姿が見えた。
「あ……あれは!」
「そう、君の、仲間達さ」
勇者エルゴノートリカルが宝剣を振るい雷を呼び起こす。レントミアが巨大な火球を撃ち放つ。ファリアが必殺の奥義で食腕を叩き斬る――。
だが、そのすべての攻撃が吸収され、デスプラネティアはますますその力を増大させる。
「ダメだ……!」
俺は拳を握り締め方を震わせて呻いた。
「なかなかの眺めだろう? 英雄たちが敗北し、世界が虚無の化け物に喰い尽されるのを見ることの出来る『特等席』だ」
「黙れ……!」
「だが、君はもう何も出来ない。残された肉体は魔力を吸い尽くされ朽ち果て、精神だけがここに残るのさ」
嘲笑めいた視線を俺に注ぐデンマーンを、俺はギッと睨み返した。
この精神世界から脱出し元の体に戻りさえすれば、最終戦闘術式――俺に残された最後の手段、あれさえ励起できれば……形勢の逆転は可能だ。
――まだだ、まだ終われない。
「俺は、まだやれる、いや……、やるんだ!」
ぐっと全身に力を漲らせ覚醒を、魔力の欠片でも搾り出せないかと足掻く。
眼下では仲間たちが必死に戦っている。
『ググレを……返してよ!』『我が友人を、吐き出せと……言っておろうがッ!』レントミアが、ファリアがその巨体に挑みかかるが、連携の取れないディカマランの英雄達の攻撃は、魔王妖緑体デスプラネティアに容易に弾き返されてしまう。
怪物の特性も弱点も、それを理解する暇を与えられずに仲間たちが戦っているのだ。
このままでは消耗し、やがて……。
「くそっ! レントミア! エルゴ! ファリア! ……マニュ! ルゥ!」
だが、幾ら叫んだところで届かないことは判っていた。
ここはデスプラネティアに取り込まれた俺とデンマーンが封じられた虚ろな夢の世界、閉塞された零虚空なのだ。
嫌だ……。
誰も失いたくない。
戻らなければ……あそこに、あの……世界へ!
――と、
「賢者ググレカス、実はオレは今……フラれてしまってな、機嫌が悪いのだ」
「……?」
突然、魔王デンマーンが不機嫌そうに声を低めた。
「寵愛して止まなかったあのヘムペローザが、ここに来てくれた時は、流石のオレも運命だと感じ、嬉しかったさ。オレの孤独を……僅かでも紛らわせることが出来ると思ったからな」
「ヘム……ペローザ……?」
「だが! あいつはお前のことばかり話すのだ。小さくなった身体で一生懸命にな。賢者がどうで、ああで、楽しかったと。そして――嬉しかったと」
デンマーンはフンと鼻を鳴らして腕組みをし、どこか遠くを睨んでいる。
「は……はは」
俺は思わず脱力して膝を落としそうになった。まったく、自分がどんな状況になって、俺がどれほど必死で戦ったと思ってやがるんだ?
――帰ったら……説教してやらないとな。
「お前は……俺の唯一の話し相手であるヘムペローザを、奪い去ったのだ!」
ガァ! と悪鬼のように恐ろしい形相で牙をむく魔王、デンマーン。その迫力に思わずたじろぎそうになるが、もはや俺は何も恐れなかった。
涼しい顔で眼鏡を持ち上げて、
「あぁ、俺がアイツを預かって、きっちりと育ててやると決めたからな。魔王さま」
と、不敵に微笑んでみせる。
「いいだろう、賢者ググレカス! お前には苦痛を与えてやろう! この……安らかな世界は……オレだけのものだからな!」
「――!?」
デンマーンの全身から凄まじい闘気が噴き出した。魔力の使えない零虚空の中で唯一、自らの意思で生み出すことの出来る力――、闘気。
目に見えるほどの力の奔流を右手に纏わせて、銀色の巨大な風の渦を創り出した。それは、魔力とは違う別のエネルギーの塊としてデンマーンの右の拳に収斂されてゆく。
「混沌と苦痛に満ちた世界で……、苦しむがいいわァアアッ!」
裂ぱくの気合と共に、デンマーンが右手を振り抜いた。その瞬間、まるでガラスを砕くかのように空間が引き裂かれ、その向うに禍々しい暗闇が現れた。そこは、あのデスプラネティアの体内だった。
「戻るがいい……賢者よ。そして……、ヘムペローザに伝えてくれ」
「うっ!? デンマーン!?」
首根っこを力任せに掴むと、デンマーンはそのまま軽々と空間の裂け目に俺の身体を投げ込んだ。強烈な落下の感覚に悲鳴を上げるが、デンマーンが発した最後の言葉を、俺は信じられない思いで聞いていた。
――幸せになれよ、と。
<つづく>