樽の底から生まれたモノと、賢者の苦闘
実験室から転がるようにして廊下へ飛び出すと、暗い廊下の曲がり角で、ズルリと黒い幽鬼のような怪物が消えていくところが見えた。
「まてこの……ッ!」
追いかけようとしたところで脇腹の痛みに顔をしかめる。最初の一撃で肋骨がどうにかなってしまったらしい。すぐさま沈静魔法を直接自分のわき腹に励起し痛みを紛らわせ、続けざまに魔力強化外装を脚部に展開、床板を蹴って追跡を開始する。
数歩のダッシュで廊下の曲がり角に達した俺は、壁をけりつけるようにして急停止。視界の先にに捕らえた黒い物体は、玄関から外に出ようとしているのか、廊下をズルズルと這いずるように進んでいる。
俺はそれをを見定めると、右手に近接格闘用の術式「手刀」――魔力糸を超高速振動させ対象物を物理的に切断できる術式――を展開し、黒い塊を目がけて飛び掛かった。
「ヘムペロを……返せッ!」
俺に向けて伸ばされた黒い触手を「手刀」術式を纏わせた右手で切り払い、本体に肉薄する。表層を切り裂いて、中からヘムペローザを引きずり出すのだ。
だが、黒い不定形の化け物に触れた途端、焼け付くような痛みが全身を駆け巡った。
「ぐっ!?」
それは痛みなどという生易しいものではなかった。炎のように熱いのに極寒の氷のように冷たく、嫌悪しか感じない生の肉のような触感でありながら、鉄の糸で編みこんだかのように硬い。次々と理解を超えた感触が皮膚を通じて伝わってくる。全身にゾワリと怖気が走った。
表面は幾千匹もの湿ったヘビの群れのように蠢いていて、色は光を吸収しているのではないかと思えるほどに黒い。
俺は歯を食いしばり、思い切り「手刀」を突き立てた、キュィイという高周波音と共に意外なほど容易に黒い塊を切り裂き、体内へと右手が飲み込まれていく。
『ワレハ……闇……、アクゥ……ゲン……復……』
途端に支離滅裂でどす黒い思念が俺の手を伝い流れ込んできた。この怪物は魔王デンマーンなんかじゃない!
暗黒の波動こそ似ているが、本質はまるで違う。何かもっと「別のモノ」だ。
「ヘムペロ……ッ!」
飲み込まれてしまったヘムペローザを掴もうと更に腕を突っ込むが、逆に獲物を喰らうように絡みついてくる黒い触手が、俺の体表面を覆っている高速暗号化魔法防壁の侵食を行おうと解呪を試みている。
その時、俺の指先に何かが触れた。暖かい感触は間違いなくヘムペローザだった。瞬間的に俺は出来る限りの防御を施した魔力糸を絡みつけた。
戦術情報表示に「第1層侵食」「魔力防壁耐久限界」の警告が次々と赤い文字で浮かびあがり、対象からの退避を促す。
――こいつ……俺も喰らうつもりか! ならば!
俺は目の前に浮かぶ戦術情報表示の最下層から、普段は使わない強力で危険な「逆浸透型自律駆動術式」を選択し、相手に向けて一斉に放出する。
――これでも喰らってろ!
どんな相手であれ魔法の力を駆使している以上、魔力中枢を破壊もしくは麻痺させる事ができるウィルスを打ち込めば活動を阻害できるはずだ。
「賢者さま!」
「ググレさまー!?」
背後からリオラとプラムの叫び声がした。階段の上から何事かとこちらを覗きこんでいる。
「来るなッ! 怪物がいるんだッ!」
俺は咄嗟に叫びながら腕を抜き、後ろへと飛び跳ねた。ウィルスの効果があったのか、怪物はブルブルと身を揺らして動きを止め、追ってはこない。瞬時に崩壊しないところを見ると、逆浸透型自律駆動術式では倒せないようだ。せいぜい足どめと時間稼ぎか。
階段のところまで急ぎ戻ったところでリオラとプラムの無事を確かめる。
「大丈夫かふたりとも」
「ヘムペロちゃんが居ないんです!」
「きゃぅ!? な……何かいるのですー! 」
リオラは青い顔でヘムペロが居ない事を訴え、プラムが怯えた様子で俺の腕にしがみついてきた。俺は辛い真実を告げる。
「ヘムペロは……あの化け物に飲み込まれた……」
日常から非日常とはまさにこの事だ。自分の口をついて出た言葉に、俺自身が信じられない思いだった。おそらく俺は険しく苦悶の表情を浮かべているだろう。
「そんな!? ……どうしてそんな!」
「ヘムペロちゃんーッ!?」
「ダメだプラム! 絶対にここを動くな。必ず……俺が助けるから」
飛び出そうとするプラムを押さえ込み、リオラに託す。
――俺が居ながら……なんてことだ。
ぐっと拳を震わせて強く唇を噛み、動きを止めた黒い塊を注視する。
痛み続けるわき腹と焦りと悔しさで冷静な思考が出来ない。だが、戦術情報表示の別の画面を確認すると、ヘムペローザと魔力糸は繋がっていた。
そして、確かに生きている事を伝えてきていた。
「生きてる……!」
凍り付いていた心の一点に、僅かに希望の灯がともる。
弱々しいが呼吸も脈拍も確かにある。そして肉体の無事を示す体力値(HP)も健在だ。プラムの薬を飲んだ事で一時的に上昇した魔力数値だけが急速に減少していた。それは黒い化け物がヘムペローザの魔力を吸収しているからだろう。
おそらく、樽の底で生まれた化け物は、この機会をずっと待っていたのだ。正体が魔王デンマーンの転生か、違う「何か」であれ、容易に取りつき魔力を吸収できる相手が現れるのをずっと伺っていたのだ。
レントミアが聞いた音をあの時もっと詳しく調べていれば、あるいは今日、俺自身が聞いた時に徹底的に調べていれば、こんな化け物は樽ごと燃やしてしまえたのに……。
考えれば考える程に口惜しく、自分の愚かさを呪いたい気分だった。
だが、今はそんなことをしている場合じゃない。
「賢者さま、ヘムペロちゃんを……助けてください」
リオラが祈るような面持ちで、涙を浮かべながら気丈に言った。
俺自身が半ばパニックになりかけているにも関わらず、リオラは「賢者」である俺を信じようとしてくれているのだ。
どんな相手にも負けない「英雄」の一人として。
「心配するな、絶対に助ける。だからリオラとプラムは、俺の部屋に隠れていてくれ」
俺の部屋は屋敷の中でも特に防御が強固な場所だ。物理攻撃にも魔法攻撃にも耐えうるように術式が施してある一種のシェルターだ。
「はい!」
「ググレさま、プラムもお願いなのです。ヘムペロちゃんを……ぜったいに助けてくださいー!」
リオラが静かに頷く。プラムはぐっと泣きたいのをこらえている様子だった。
そんな二人の顔を見ているうちに、俺は次第に冷静さを取りもどしてゆく。ズキズキとする痛みも気付け薬だと思えば、耐えられる。
――そうだ、俺がしっかりしなくてどうする。
ヘムペロはまだ生きている。あの黒い魔力糸の塊をヘムペローザは「魔王デンマーン」と呼んでいたが、違う。
化け物と接触したときに流れ込んできた暗い思念は、圧迫と苦痛、悲しみ、全ての負の感情を凝縮したような混沌の「闇」そのものだった。
あれは――樽の底で触媒の残りカスや魔力を吸収しながら、少しつづ復活の時を待っていたデンマーンかもしれないが、明らかに異常をきたしている。
――あれは魔王のなれの果て、出来損ない、復活に失敗した……化け物だ。
樽の底に勝手に入ったのではない。おそらく人造生命体のプラムを練成する過程で使用した、太古の文献そのものに何かしらの細工が施されていたとしか考えられない。
俺が検索魔法を駆使して千年図書館を調べることを事前に理解し、錬成順序となる書籍に「復活の遺伝子コード」のような何かを加えたのだろうか?
だとすれば俺は、知らず知らずのうちに魔王の復活を手助けしていたことになる。だが結果……プラムの合成が完全ではなかったように、ヤツもまた不完全な状態で育ってしまったのか。
――なんて……ことだ。
感慨に耽る間もなく、化け物は再び蠢きだした。苦しげにウネウネと動きながら玄関のドアを押し開け、外へと逃げる様に這い出してしまった。
と――、そこで館の周囲に張り巡らせていた対人結界が、館に向かってくる集団の接近を検知し警告を発しはじめた。
その数は、ざっと30人を超えている。
夜更けに謎の集団が向かってくる時点で怪しすぎるし、何よりも黒い化け物の登場とタイミングが良すぎる。
「この忙しいときに、今度はなんだ……!?」
俺は苛立ちもあらわに、外へと逃げた化け物を追って飛び出した。
<つづく>