黒い魔力糸(マギワイヤー)
「ヘムペローザの魔力数値が上がっている! バカな!?」
俺は思わずヘムペローザの肩を掴んだまま叫んでいた。
目の前の少女――ヘムペローザが持つ魔力数値は「187」を示している。この数値は既に中級レベルの魔術師と同等と言っても良いほどのものだからだ。
魔力数値は、俺が便宜上使っている数値に過ぎないが魔力の強さを測る尺度として都合がいい。周囲に展開している魔力糸によって探知した相手の魔力を、自律駆動術式によって判定し、計測結果を「魔力数値」として戦術情報表示に表示する仕組みだ。
これは相手がどの程度の魔力を有しているのかをおおまかに知ることが出来るので、未知の相手との戦闘にかなり有益な情報となる。
ティンギルハイドや四天王クラスが相手ともなれば、数値を測ったところであまり意味は無いのだが……。
通常、魔法を使えない常人ならば0から5という数値だが、魔法使いを名乗る者は100を超える魔力数値を持つのが一般的だ。
ちなみに俺の魔力数値は800を超えているし、レントミアだって1000を超える魔力量がある。魔法剣士であるエルゴノートでさえ500を超える数値を有しているのだが、俺たちはそもそも魔王を倒してきたという「超高レベル」なメンバーなので、飛びぬけて高い数値を持っている。
「にょ? 確かになんだかこう……懐かしい力が漲ってくるにょ!」
ヘムペローザが鼻息を荒くして自分の手のひらを見つめてから、俺にキラキラとした表情を向けてきた。
「お前の魔力が戻ってるんだ……! あの頃みたいに!」
――プラムの延命薬、竜人の血によって、ヘムペローザが本来持っていた魔力が活性化したということなのか!?
俺の驚きをよそに数値はまだ上昇する気配さえある。
この世界においては魔力数値が高いほど、強大な魔法を駆使する事ができるし、逆に簡単な魔法ならばその分数多く使えることになる。ゲームと同じ「MP」と考えてもいいだろうが、少しだけ異なるのは、魔力上限は経験により上昇するという事は稀で、神や悪魔との契約儀式、あるいは魔法のアイテムによって魔力が身につく仕組みになっている。
ヘムペロの場合は、エルゴノートの宝剣の力で「子供に還元された」という特殊な事情があるので前例には当てはまらないのだろうが、薬が引き金になったのは間違いなさそうだ。
「あ……あの頃のワシは……こんな力をもっておったかにょ? 賢者にょ、ワシは……どうすればよいにょ……」
黒髪のダークエルフクォーター少女は僅かに表情を曇らせ、戸惑いの表情を浮かべた。
「ヘムペローザ?」
自分が元悪魔神官で魔王様の寵愛波動だのと言っていたはずなのに、どういうことだろうか? エルゴノートが言うように、以前の記憶を徐々に無くしつつあるのかもしれない。
「ワシは……賢者と、プラムと……リオ姉ぇやみんなと楽しく暮らしたいだけにょ」
「じゃぁ、なんで薬なんか飲んだんだよ?」
「リ……リオ姉ぇが……褒められておったにょ。おまえは凄いって、賢者は……頭を撫でてやっておったではないか……」
ヘムペローザは頬をすこし膨らませて、目線をふぃっと背けた。
確かに昼間リオラを褒めた。生活の事を考える手伝いをしてくれたのだから。しっかりした子だと、思わず頭も撫でた。
「確かにそうだが、だからといって薬をのむなんて」
「ワシじゃって、大人になれば役に立つにょ! 大きくなれば、いろいろと……胸だってほんとうは凄いんじゃ! そのほうが賢者だって嬉しかろうと……!」
あぁ……、そうか。
事情は大体理解できた。おそらくこの薬を飲めば、強い力が手に入るのだと思ったのだろう。魔力か、大人の肉体かはわからないが。
ヘムペローザに邪な気持ちは微塵も無く、ただ純粋に――褒めて欲しかったのか。
「ったく。おまえは頭のいい子だが、やっぱりアホだな」
「にょ!? なんじゃとー」
「そんな事をしなくても、お前はもう十分役に立っているだろう?」
俺はしゃがみこんで、ヘムペローザと同じ目線でそう告げた。
若干泣き虫になってしまった元悪魔神官……いや、もうその呼び名もよそう。ヘムペローザの涙を指先でぬぐってやる。
そして、そのまま頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめる。
「にょ……!」
「ここに居てくれればそれでいいんだ。プラムも喜ぶし、俺も……楽しいからな」
「賢者にょ」
「お前の魔力の使い道は、明日、考えよう。そうだな……今度は、役に立つ魔法が使えると良いな。誰かを傷つけるものじゃなく、優しい魔法がいいな」
「うん……ありがとう、にょ」
かつて――、悪魔神官として世界を闇で染めようとしたその罪は償われた。
だからこれからは、ごく普通の少女としてゆっくり大きくなっていけばいい。プラムと一緒に。
そっと小さな手が俺の背中に回された。
重なった身体の温もりが伝わってくると同時に、えぐ、と鼻をすする嗚咽が聞こえた。
その時――。
『警告! 魔力糸切断! 識別不能反応検知』
けたたましい警告音が静寂を引き裂いた。
「な――!?」
これは――実験室だ!
「賢者にょ!? ワシも……感じた……こ、これは……?」
「ヘムペローザはプラムの部屋へ!」
俺は叫ぶなり飛び出した。
ドアを勢いよく開け放つ音と声に、リオラが驚いて顔をのぞかせる。薄手の下着姿だが、俺は構わずにその肩をつかみ「俺の部屋に隠れて!」と大声で言い残し、階段を駆け下りた。
突き当たりの廊下を曲がってさらに進んだ先が実験室だ。
その間も戦術情報表示が館の中に現れた正体不明の「存在」を指し示している。その魔力指数はわずかだが着実に増大してゆく。
3……10……50……と。
「な、なんだこれは!?」
俺が実験室の扉を開けた時、目に飛び込んできた光景に思わず叫ぶ。
合成用の『ワイン樽』から何本もの「黒い魔力糸」が溢れ出し、のたうちながら周囲を這いずり回っていた。
鍋から吹きこぼれたシチューのようにゴボゴボと泡と粘液を撒き散らしながら、ハッキリと目視できるほどに実体化した魔力糸の繊維が、それぞれ意思を持つかのように空中や床をにゅるにゅると蠢いている。
異様な生物とも魔法の一種ともつかないそれは、初めて見る物体だった。
――以前から感じていた音、魔力波動……すべてコイツが原因なのか!
触媒を合成するワイン樽は全部で四つあるが、そのうちの一つから、まるで地獄の底から来たかのような不気味で忌まわしい不定形の生物が、のたうちながら溢れだしていた。
「こいつ……、ワイン樽の滓の奥底で……少しずつ育ってやがったのか!」
俺は戦闘用の術式を戦術情報表示から選び出した。炎や爆発は使えないが、相手の魔力を分散、消失させる逆浸透型自律駆動術式を撃ち込むのだ。
――ワレ……ハ、闇……ナ……リ
そいつは、声ではない何かで直接頭に干渉してきた。戦術情報表示が次々と真っ赤な警告表示で埋め尽くされていく。
「な、まさか……こいつ!」
この感じ、冷たく凍るような、黒い闇の波動――
「魔王……デン……マーン、さ、ま?」
はっとして振り返ると、そこに呆然と立ち尽くすヘムペローザの姿があった。
「バカ来るな! プラムとリオラと逃げ――」
一瞬の隙を突き、黒い魔力糸がヘムペローザの足に絡みついた。あっという間に褐色の肌を嘗め回すように這い登ると、黒い糸が全身を覆ってゆく。
――ワガ……ヨリシロ、…………イチブ……
ヘムペローザはその間、何も声を上げなかった。
ただ、我を失ったかのように中空を見つめたまま、黒いロープの塊のような化け物に蹂躙されてゆく。
「くっそ! こいつッ!」
ありったけの魔力を放出し黒い魔力糸を溶断する。ジュッ! と音と立てて千切れた黒い触手は消えていくが、次から次へとヘムペローザに向かってくるそれを防ぎきれない。
樽の中身が濁流となって這い寄り、足元からペムペローザに纏わりついてゆく。
俺は原始的で力のある単純な魔力放出をぶつけ、それを寸断し続けた。呪文詠唱も自律駆動術式を選択する暇さえない猛攻に、俺はただ無我夢中で魔力を放出しつづけた。が――
「ヘムペローザしっかかりしろ!」
次の瞬間、豪腕のような束と化した黒い魔力糸の塊が、俺を邪魔だといわんばかりに薙ぎ払った。
「ぐはッ!」
俺はそのまま壁際まで吹き飛ばされ、棚に激突した。
棚が崩れ薬のビンが音を立てて床に転がりおちる。咄嗟の事で結界も何も張れなかったのだ。
黒い塊はついにヘムペローザを飲み込むと人間ほどの大きさにまで膨れ上がり、実験室の入り口からズルリと外へと移動を開始した。
――ダメだ……! そっちには……プラムやリオラが!
立ち上がると背中と脇腹に鋭い痛みが走った。
化け物は人間が黒い布を被ったようにも見えるが、表面は絶え間なく蠢く黒い魔力糸で覆われている。
少女の顔までもが完全に黒い塊に飲まれる瞬間、つぅ……と頬を伝い落ちてゆく涙が見えた。
「たすけて……賢者」
ヘムペローザは口元だけを動かして、俺に助けを求めていた。
「ヘム……ペローザ!」
俺は激痛に顔をゆがめながら、黒い化け物の後を追って実験室を飛び出した。
<つづく>