記憶への旅、はるか遠く
階下からは夕食を準備する音と、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
美味しそうな匂いが漂い、思わずお腹がぐぅと鳴る。今夜はクリームシチューと、チキンの香草焼きらしい。
さっきリオラが「もうすこし時間がかかりますよ」と言っていたので、二階の書斎で考えを練ることにする。
日が沈み辺りはカエルの大合唱が響いている。香油ランプを灯し思索に耽る。温かみのある色合いは落ち着いてものを考えるにはうってつけだ。
「次世代の実用的な乗り物か……」
紙にいろいろなアイデアを書き出しては、うーんと唸る。
「……以前から不思議に思っておりましたけれど、賢者ググレカスの突拍子もない……いえ、素敵なアイデアは、どこから湧いてくるものなのですか?」
妖精メティウスがインクの瓶に腰掛けながら、思いついたように問いかけてきた。フワフワとした金色の髪の毛に半透明の羽根。静かに佇んでいると、本当にお人形さんのようだ。
「そうだなぁ……。以前も話したかもしれないが、遠い過去の記憶から見つけてくるんだ。夢のような……遠い記憶の断片が、夢の残滓みたいに頭の奥に眠っているからね」
だが、以前暮らしていた「こことは違う世界」の記憶は確実に失われていた。失ってゆくことに、えも言われぬ寂しさを覚える。
チリ……とランプの炎が揺れる。
心の奥底を覗く時、自分の「生い立ち」や「前世」での記憶が、徐々に失われているのを実感する。まるで日記のページに虫食いの穴が空き、ページが朽ちて読めなくなるような感覚に襲われるのだ。
「色んな想い出が詰まっていたんだ。多分……楽しいこと、辛いこと。どんな暮らしをしていたか、誰と暮らしていたか……。今ではもうほとんど思い出せないが、たしかに俺はそこに居たんだ。そこには、何に使うかもわからない品々や機械。それに魔法のような乗り物もたくさんあった」
「そうでしたの……。不思議ですわね」
「近頃はだいぶ忘れてしまったよ。ほんとうに、遠い夢物語のようさ」
アイデアの源泉となり、時に魔法の知識を体系的に使う手助けとなった記憶は、もう遠く霞みつつある。
「私も時々夢を見ますわ。どこかの素敵なお城で暮らしている……なんてよくある夢ですけれど。きっと、魂が記憶しているのでしょうね」
それは、メティウス姫の頃の本当の記憶だろう。ルーツが解っているのだから、疑うべくもない。
「そうかもしれないな。きっと」
「ご自分の魂が何処から来たかなんて、誰にも分かりませんものね。以前は別人だったなんて考えると、なんだかロマンチックですけれど」
「案外、前世も同じ人物かもしれないぞ。中身はな」
「まぁ? そうなのかしら」
そう。向こうの世界では「チヒロ」という、もう一人の自分が居た。今の俺は世界へ召喚され、分離した存在だ。彼とは別の「自分」という存在とも言えるが。
……あれ? そういえばどんな字を書くか忘れてしまった。チヒロ、思い出せない。
「俺も確か、むこうの世界では、別の名で呼ばれていたんだよ」
「賢者ググレカスは、ググレカスではなくて?」
「うん、別の……名前だ」
――チヒロ……。
あれ?
不意に、遠い記憶の彼方から、呼ばれたような気がした。
誘われるように目を閉じて、椅子の背もたれに身を預け声をたどる。
目をつぶると途端に暗い闇の中へと吸い込まれた。
何かの……硬い連続した振動音と、大勢の人間の声が遠くから聴こえる。それはとても懐かしい人たちのような気がする。
もういちど名を呼ばれた。聞き覚えのあるような、けれど思い出せない少女の声だ。
やがて暗闇の向こうに光が見えた。ひかりの輪は大きくなり、赤と青の瞬きを通り過ぎると、目の前に風景が広がった。
車窓から見える海、眩しさに目を細める。どうやら眠っていたらしい。馬車の客室のような場所で、対面には黒髪の少女が座っている。顔は……よく見えない。まるで感度の悪い『幻灯投影魔法具』の映像のように、色が薄く、雑音も混じっている。
『海だよ。起きて、チヒロってば!』
『あ……うん? もうすぐ、駅か』
タタン、タタタン……と小気味よい音がする。景色が速く流れてゆく。馬車では到底出せない速度。これは……そうだ、『列車』だ。
鉄道、二本の鉄のレールの上を、列車という鉄の箱を走らせる、乗り物。
チヒロはそれに乗り、どこかへ向かっているようだ。
『落書き。顔に注意』
『……うそだろ!?』
慌てて車窓のガラス窓に自分の顔を映してみる。外の景色に重なるように現れたのは、黒髪とメガネの、やや幼い中等部の頃の顔だった。いや、それは、チヒロと呼ぶべきだろうか。
顔には、落書きなどされていない。
『嘘です』
『おまえなぁ!』
朗らかに笑っているのは、座席の対面に座っているお下げ髪の女の子。制服を着ていて、どことなくマニュフェルノに似ている。
声や仕草がまぶしくて懐かしい。けれど顔は見えない。名前も……思い出せない。
修学旅行だろうか。他にも大勢の友達がいるようだが、目の前の女の子しか見ていないようだ。
やがて、カーブに差し掛かる。二本の鉄の道、長い先頭の車両が窓から見える。
――そうだ、鉄道……! この仕組なら大量輸送、高速移動ができる……!
『チヒロ、どうしたのぼーっとして。ポッキーたべる?』
『起きてるよ、いつもこんな顔なのは知ってるだろ、トキ――』
と、そこで俺はハッと我に返った。
気が付くと、妖精メティウスが、インク瓶の上に腰掛けてうとうとしている。
時間はほとんど経っていない。
――夢……か。
遠い記憶への旅をしていたのだろうか。その旅の中で、問題解決へのヒントも見つけた。これは、啓示なのかもしれない。
鉄道、列車、二本のレール。
これだ。これそこが、次世代の乗り物のヒントなのだ。この世界で実現可能な方法で、似たような仕組みを構築できれば……!
紙にペンを走らせる。アイデアを忘れないうちにと書き記しておく。
と、ぽたりと水滴が紙に落ちてはっとする。
「賢者ググレカス……? 泣いていらっしゃいますの?」
「あ、あれ……? おかしいな。なんでだろう」
気がつくと、とてつもない喪失感があった。
もう、決して戻れない場所、二度ともう逢えない人……。
「夕飯。できましたよー。ググレくん、眠てる? 夕飯たべる?」
マニュフェルノがやってきて、書斎のドアを叩いた。
俺は弾かれたように椅子から立ち上がるとドアを開け、「あら」と目を瞬かせるマニュフェルノを抱きしめた。甘い香りと柔らかな身体を感じて、心の底から安堵する。
「突然。どうしたの?」
「……すこし、こうしていたいんだ。マニュフェルノ」
「微笑。いいですとも」
腕がぎゅっと背中に回されて、優しい手のひらが頭を撫でる。
――俺は、確かにここにいる。
<つづく>




