賢者と、ぬるぬる粘液女相撲!
謁見の間を兼ねた大広間では、酒と歌のパーティが続いていた。いや、正確には格式ばった会食と挨拶の「パーティ」の時間は終わったらしく、王国最高の豪華な広間をつかった「宴会」、つまりはドンチャン騒ぎへと徐々に様変わりしているようだった。
元来が格式などをあまり尊ばない辺境国の王族や、武人上がりの将軍などは、床にあぐらをかいて車座になって座り込み、ワインの瓶を手に持って飲んでいる始末だ。
メタノシュタットを束ねる王、コーティルト・アヴネィス・ロードですらその車座の中に居るに至っては、もはや咎める者など居ようはずも無かった。
この後、優雅な社交ダンスパーティ……と思っていたが、若干雲行きが怪しい。
「ググレー! お前がなんとかしてくれよ!?」
「な、なんで俺が……!」
「お前の説得なら聞くだろうが、世界の賢者らろー!」
半泣きの勇者エルゴノートが俺の方を揺さぶる。既にしこたま酒を飲んでいたらしく、ろれつが回っていない。お前だって世界の勇者だろうが! という俺の声は届いていないようだ。
どうやら騒ぎの原因は、第一王女スヌーヴェル姫とファリアが、エルゴノートについて互いに自慢話を始めた事らしい。
確かスヌーヴェル姫は勇者と別れたはずだし、ファリアだって今更エルゴノートを取り合うまでもなく仲がいいだろうに。なんでエルゴノートでいがみ合う必要があるんだ……?
見ればすぐ横で、立て巻ロールの金髪の束を揺らした姫が、頭二つ分も背の高いファリアを睨みつけている。一触即発、いつ掴み合いの喧嘩が始まってもおかしくはない状況だ。
「ググレ、ファリアを止めてよ! 鎮静魔法とか使ってさ!」
「誤飲。ファリアは、間違ってワインを飲んじゃったの……!」
「な、なんだ……と?」
俺の背後で、制服姿のレントミアと僧侶の正装姿をしたマニュフェルノが口々に訴える。確かにファリアの目が座っている。
そもそもファリアはああ見えて常識人で、姫様相手にケンカを始めるような事はしないはずなのだ。酒というのは人を狂わすものなのだな。などど感慨に耽っているヒマは無さそうだ。
「貴女はエルゴとたまたま旅を一緒にしていたただの同行者でございましょう!? わたくしと勇者は、海神の住まうビシャアン海溝よりも深い絆で結ばれておりましたのよ!」
美人を絵に描いたように端麗な容姿のスヌーヴェル姫が、つんと形のいいアゴを持ち上げてまくしたてる。綺麗に巻かれた金髪の束が肩の上でわさっと揺れた。
――物静かで夢想好きな妹君とは似ても似つかないな……。
俺は、つい先刻まで静かな会話を交わしていたメティウス姫の姿を思い浮かべた。
「姉が辛く当たる」という言葉が、なんとなく判った気がした。彼女の姉であるスヌーヴェル姫は、自分が常に一番でなくてはならない性分なのだろう。容姿端麗、頭脳明晰。男は超一流でなければ認めない。だから、不自由な体で夢想に耽るばかりの妹を、疎ましく思っていたのではないだろうか……?
俺のそんなモヤモヤとした思いを遮るように、ファリアが声を上げた。
「失礼だが、姫。私とエルゴは幼なじみだ。小さい頃から旧知の間柄だが?」
ファリアも負けてはいない。低く冷静な声でそう告げると、男でさえ震え上がりそうな鋭い眼光で姫をじっと見据えた。
「な!? ……だ、だからって何ですの? わたくしは恋人としてキス、いいえ! それ以上の特別な関係になっていたのですわよ?」
「な、なにぃい……!」
ファリアの顔に動揺の色が浮かぶ。今度は好機と見たスヌーヴェル姫が攻勢に出た。
「オーホホホ!? あら? ではご存じない? 臥所を共にしたとき、わたくし、エルゴの胸のホクロの数を数えましたのよ? 極北の柄杓のような、7つの英雄的な星座のように連なっておりましてよ?」
この世界でも北極星と、その周囲を回る星座があり、形こそ少し違うが北斗七星のような星の連なりもある。末世の余に必殺の奥義を携えて現れたという「伝説の英雄」の胸にあったとされる北斗七星は、子供たちのお伽噺としては知られた存在だ。
それが胸にあるエルゴノート・リカルの勇者属性は、やはり計り知れない。
「笑止。ホクロは八つだ」
ファリアが、フッと鼻で笑い、目を眇めた。
「な、なんですって!?」
「私が子供の頃、宮廷の裏庭でエルゴを裸にして木に縛りつて数えたからな! 柄杓の柄の部分の星は実は双子星で……二つあるのだ!」
ぐわっ! とファリアが目を見開いた。その迫力に思わずたじろぐ縦ロール姫。
――涙目で縛り付けられている幼いエルゴノート。その胸にある北斗七星のようなホクロを ひとおつ! ふたあつ! と指で指すファリア(子供時代)。って一体どんな遊びだよ?
「ファリア……おま……」
エルゴノートが俺の隣で白目を剥いてしまった。もう、ここらへんで手打ちにしないか? 俺は助け舟を出す事にした。
「――僭越ながらご提案がございます。勇者を巡るこの勝負、互いに腕を引っ張り合い、奪ったものの勝利……、という事でいかがででしょうか?」
俺は眼鏡をスチャリと直すと、そのまま手を天にかざしてメタノシュタット国王やスヌーヴェル姫、そして修羅場を取り囲んでいた野次馬達に聞こえるように提案した。
「それは妙案じゃ!」
「おぉ、流石は賢者殿……!」
「我々では思いも寄らぬ、まさに歩く知恵袋と呼ばれたお方よ!」
俺の妙案に拍手と感嘆交じりの溜息が沸き起こった。今回、ようやく俺のターンが来た気がするな。
「いいだろう」
「望むところですわ!」
とファリアとスヌーヴェル姫が鼻息も荒く、半ば意識が朦朧としている勇者、エルゴノート・リカルの腕をそれぞれ掴む。
「むにゃぁ?」と鼻ちょうちんの勇者は状況が飲み込めていないようだ
だが、この勝負どうみても体格差で圧倒する女戦士ファリアが有利だろう。
巣穴に逃げ込もうとした十メルテを超える巨大蛇を、引きずり出した事のある豪腕にかかれば、エルゴの腕ごともっていきかねない。
対するスヌーヴェル姫は華奢な体で手を掴んでいるが、勝負にならない事ぐらい判っている筈だ。それでも決して諦めないという気迫が伝わってくる。
そこで俺は再び声を上げる。魔法は既に指先で自動詠唱済みだ。
「――粘液魔法!」
途端に、魔法効果の対象としたエルゴノートの両腕から、ヌルヌルとした粘液がにじみ出た。
「ぬぅう!?」「きゃ!?」
ファリアと姫が勢いあまって尻餅をつく。だが、すぐに立ち上がると、またエルゴノートの腕を掴む。
だが賢者特製の粘液は「よい潤滑油」として働き、エルゴの腕を覆っていて、つるんつるんとつかみどころがまるで無いのだ。
「フゥハハ、愛を得ることは……困難に満ちた戦いの末に得られるものなのだ」
昔の詩人の受け売りだが、周囲の観客たちから声援と笑い声が沸き起こった。
「なんの! もう一度」「負けなくてよ!」
二人は互いにキッ! と睨み合うと再び勇者の腕を掴んだ。しかし幾度試しても、エルゴノートを引っ張り倒すことが出来ない。酒に酔い、立っていてもフラフラする勇者の身体は、中央の立ち位置から動きはしなかった。
ちゅぽっ、ちゅばっ、「あっ!?」「ぐぬっ!」
ちゅぷっ、ちゅるっ、「くっ!?」「きゃ……!」
湿った音と美しい姫二人の、ハァハァという荒い吐息が聞こえた。
ぬるぬる粘液女相撲の様相を呈する二人の息遣いは、いつしか「は……はは」「ふ……ふふ」と笑いの篭ったものに変わりはじめた。
最後の挑戦とばかりに思い切り掴み、やはりズデン! と転んでしまったスヌーヴェル姫の目の前に、すっと大きな手が差し出された。
「……ぁ」
それは、ファリアが差し出した手だった。晴れやかな顔で、口元は弧を描いている。
姫は一瞬、ぽかんと目を丸くしたが、フ……と口元を緩めると、自らも粘液を高級なドレスの裾で拭き去って、その手をしっかりと掴んだ。
「見事でございました、スヌーヴェル姫」
「貴方も……。ルーデンスの姫、ファリア」
ファリアが力強く姫を引き起こし白い歯を見せて微笑むと、姫もそれに応えるように静かな笑みを浮かべた。
「なんという光景じゃ!」
「二人の心が通ったのじゃ……!」
「奇跡だ……我々は今、賢者の奇跡を見ているのだ!」
パチパチ! と周囲から拍手と歓声が沸きおこった。
相変わらずエルゴノートはフラフラしているが、天国にでもいるかのような穏やかな顔つきで、気持ちよさそうに目をつぶっている。
「ググレ、お前らしい……知略だな。いい、肉体言語だった」
ファリアが爽やかな笑みを俺に向ける。
「賢者さま、恐れ入りました……全てを私の物にしようという……思い上がり、それがあの人を遠ざけてしまっていたのですね。恥じ入るばかりです」
「エルゴノートと姫は、愛し合っておられたのではないのですか?」
「私と勇者さまは確かにお付き合いをしておりましたが、私は……、勇者様のお傍に居たいと、ずっとそばにいてほしいと、束縛を……それで、私は」
姫の美しい顔がくしゃくしゃと泣き顔に変わる。
高慢でわがままで、全てを手に入れたい、縛り付けたいという願いが、勇者エルゴノートの心を遠ざけてしまったのか。
「違う、違うよ、スヌーヴェル」
「エルゴ……」
「俺が別れようと言ったのは、……君を嫌いにあったからじゃないんだ!」
両手から透明な粘液を床に滴らせながら、勇者エルゴノートが真剣な顔で姫に近づき、姫の肩に手をかけた。
酔いも覚めたのか、凛々しい顔と、見る物をとりこのする瞳には黄金の光が宿っている。
「俺には、まだやらなければならない事があるんだ。まだ魔王の残党は闇に潜み、遠い異国では暗黒に堕した魔道師が人々を苦しめている。だから……もう少し、もう少し待って欲しいんだ。そしたら必ず……君のところに戻ってくるから」
スヌーヴェル姫の顔にほんのりと朱がさす。とげとげしかった顔は、気品のある美しい本来の表情へと変わってゆく。
「はい! 勇者……エルゴノート!」
「スヌーヴェル」
ネトネトとした両手で抱きしめあう二人の周囲から、わぁあああ! という大歓声と拍手が沸き起こった。
「……なんなの……これ」
「淫猥。ググレ君の粘液……わたしも……欲しい」
呆れたようにジト目で俺を眺めるハーフエルフと、いつものニヘラとした顔つきに戻ったマニュフェルノに、俺は親指を立てて見せた。
やれやれだ。これで全て丸く収まったのか?
「見事であった、ググレカス殿……!」
大柄な体躯を揺らしながら、メタノシュタットの王、コーティルト・アヴネィス・ロードが上機嫌で手を打ち鳴らした。
「今宵は、本当に楽しい、よい夜じゃ!」
俺は頭を垂れて、王に礼をした。
「あぁ……この賑やかな場に……あの子がいてくれたら、さぞ喜んだであろうが」
王は、目じりの皺をより深くして、それまでの陽気な笑顔が嘘のように瞳の中に翳りを宿して黙り込んだ。
「あなた……」
王妃がそっと窘めるように、先ほどよりも年老いて見える王の背に手をかけた。
「あぁ、すまぬ。はは、言うまいと思っていたが、ついな。今日は……あの子の……五回目の命日なのだ」
――あの子?
ゴゥン……と耳の奥で、くぐもった音が聞こえた。
「メティウス……。可愛そうな……我が娘よ」
太い節くれだった指先で目の端を掻きながら、王は酷く遠い目をしながら呟いた。
――何を……、何を言っているんだ?
俺はよろめくのを堪えながら静かに礼をし、ざわめきの中に紛れ込んだ。
メテイゥス姫――。
図書館に五年間も幽閉され続けた、哀れな姫君。メタノシュタット王家の第二王女。王宮の闇に飲み込まれ自由を奪われた可憐な少女。
命日? ばかな! そんな――!
あの時、俺の手にそっと触れた指先は暖かく、確かに血の通った存在だった。
不法の来客である俺に驚き、恐怖と戸惑いの表情を浮かべ、そして徐々に心を開いてくれたあの姫が……死んでいる、だと?
ありえない。
嘘だ。
嘘をついているのだ。
――だが……どっちが?
血の流れる音が、鼓膜の裏側でゴゥゴゥと嵐のような唸りをたてた。
周囲のざわめきも俺の耳には既に届かなかった。
「さぁ、皆の者、ダンスを……とびきり楽しいダンスを踊って見せるがよいぞ!」
王は再び豪快な笑みを顔に貼り付けて、パーティ会場全体に響く声で高らかと叫んだ。
そして――、陽気な音楽が、楽団により奏でられ始めた。
<つづく>