第二王女――コーティルト・メティウス姫
王立図書館の書棚の迷宮の奥で、俺と車椅子の少女は、互いに数歩の距離を置いて静かに向かい合っていた。
俺達以外に人の気配は無いが、パーティの喧騒が遠くから微かに聞こえている。
図書館の二階に居たということは、警戒用の結界や施錠魔法をすり抜ける事のできる魔法の指輪などを持った王族だろう。
「それは……、私が考えた……おとぎ話……」
「おとぎ話……? 俺が?」
少女の漏らした言葉に俺は、その意味を尋ねるが、彼女は蜂蜜色の髪の先を指で落ち着きなくいじりながら、目線を泳がせている。
「……えぇ……。物語の中で……あなたを知っている」
聞き逃してしまいそうなほどに小さな、肯定。
私の物語? つまり、俺を自分の夢想する物語の登場人物か何かと混同しているのか?
「俺は、君の物語の登場人物じゃない。現に、ここに居る」
「……それが本当なら、多分、奇跡みたいに素敵な事……」
俺は、深遠な宇宙のような輝きが少女の瞳に宿っている事に気がついた。
吸い込まれそうな底知れぬ美しさに、少しゾッとする。
どこか浮世離れした不思議な存在――。それが俺の第一印象だった。
怯えと好奇心交じりの顔つきで、静かに俺の様子を伺う少女は幾つだろうか?
綺麗なフリルのついた水色のドレスを身に纏い、髪にも同じような色合いのリボンを結んでいる。労務とは無縁と思われる細く華奢な身体に、透けるような肌の色。
身体は小さいが胸元の開いたドレスから覗く胸元は、思わず目を奪われる程にふくよかな印象で、年の頃は15、6歳に見えた。
拙い美しさを秘めた顔の輪郭と、桜の蕾のような唇。長いまつげに彩られた青い宝石のような瞳は、銀河の煌めきを内に秘めている。
――って、俺は今、きっと怪しい顔をしているよな……。
俺は自省し、慌ててふるふるっと小さく首を振ってメガネを直す。何かを言わねば、と焦り、
「こ、ここは良いところですね」
と、自分でも呆れる程気の利かない言葉を発する。
だが、少女は逃げるわけでもなく、叫び助けを呼ぶわけでもない。そのまま車椅子の車輪にかけた手の力を緩めると、本の壁をゆっくりと見渡しながら、消え入るような声でつぶやいた。
「本は……好き?」
ここにいる俺が実は幻か幽霊で、次の瞬間、消えてしまわないか……、それを確かめるように慎重な声だった。
「あ……、あぁ! 好きだ。一日中読んでいても飽きない。太古の世界の記録、失われた国の魔法の話、歴史に埋もれた英雄譚、小説にハゥトゥ本、どれも楽しい。何よりも……手に持った時の重さ、感触、紙をめくる音、そして古いインクの匂い……全部いい!」
思わず一息に熱く語ってしまってから、あ……! と俺は失態を演じたかと悔やむ。口元がひきつるが、少女は以外にも、
「……私も……」
と唇をほころばせ、表情を緩めてくれた。
俺はふと、さっき検索妖精が消えた書棚に視線を向けた。一番上の棚の左から7番目の本。比較的汚れていない背表紙の本を取り出してみると、『社交界での作法、ダンス編』と古めかしい文字で書かれていた。
俺が検索した「ダンスのハゥトゥ」に近似した言葉を検索妖精は探し当て、本の中に消えたのだ。本の裏側にある「位相の違う世界」へ飛翔したのだろう。
現に、俺の目の前に浮かんだ検索魔法の結果表示ウィンドゥには、この本のタイトルと内容の一部が映し出されていた。
「ダンスのハゥトゥ。……今日はお城のパーティだから俺はこれを探してみた。検索妖精の導きがこれを」
俺は本を、少女の方に差し向けた。
「あなたも……検索妖精が、みえるの?」
意外な事を口にする。だが、メタノシュタット王家の者は元来魔術師だ。強大な呪術の力で国を治め、時には呪い、神に願いを捧げ、人々を導いてきた血筋だ。
その起源は、千年も前の失われた古代文明の「始まりと終りの光」と称される、ア・ズーの国の王家に端を発するとさえ言われている。
「『賢者』である私の力の大半は、検索妖精達から借り受けているものです」
「すごい……、あなたが本当の賢者……ググレカス」
俺はようやく口を開き始めた少女、メティウス姫の前に片膝をついて、恭しく頭を垂れた。聞きたいことが山ほどあるが、ようやく確信が持てた。
――この姫様こそが、あの詩を書いた本人、そして、預言者ウィッキ・ミルンだ。
「はじめまして、メタノシュタット王国第二王女――コーティルト・メティウス姫」
少女の瞳が驚愕に見開かれる。小さな唇を開くが、細い指先がすぐに口元を覆い隠した。
「どうして……、私のことを?」
「姫があちこちに書き記した『詩』を辿って参りました」
「そんなことが……貴方にはできるの?」
「えぇ……」
俺は騎士の様な姿勢で、ひざまずき、顔だけを僅かに持ち上げて頷いた。
「メティウス姫、貴方の……『物語』を聞かせてもらえないでしょうか?」
姫は俺の質問に僅かに目を眇めると、目を伏せて考え込んだ様子だった。
そして、躊躇いがちに語り始める。
「賢者――ググレカス、あなたは、笑わない?」
「ググレカスで結構です。何を笑うのですか? 私はどんな物語でも、詩でも、歌でも、それを生み出した著者に敬意を払い、その世界を夢想し心躍らせます」
無表情に感じるメティウス姫の顔から、少なくとも警戒の色はもう無い。感じられるのは、春先の雪解けの陽射しのような、安堵した気持ちに近い雰囲気だ。
夢想や妄想なら俺も負けはしない。
一人図書館で本を読みふけり、妄想を膨らませて生きてきた俺にとって、メティウス姫の物語とやらがどのような物であれ、笑ったり茶化したりするはずもない。
同士――。例えるなら、厨二妄想という共通点をもった同士だと俺は感じていた。
そういう意味でもマニュフェルノも「同士」なのだろうが、方向性と趣味嗜好が違い過ぎるというか相容れないというか……。
「あ、あのね……、私が考えたお話の『賢者さま』は、『向こう側の世界』から来たの」
恥ずかしいのか、青いドレスの裾をぎゅっと握りながら目線を伏せて、話しはじめる。
声は小さいが、鈴を転がしたような声は耳に心地の良い。
向こう側――か。やはり俺の事なのか? 疑問を抱きつつも、俺は静かに耳を傾ける。
「その世界は、世界の裏側にあって……私達の考えの及ばない魔法の力で動く鉄の馬車が地上を走ったり、羽の生えた船が空を飛んでいるの。それに、信じられないけれど『人間だけ』が暮らす国があって……とても綺麗で平和な『一つの清らかな世界』なの!」
メティウス姫は、徐々に感情を高ぶらせながら話し始めた。普段使わない舌が、ようやく動き出したかのようだった。
「賢者さまと同じ黒い瞳に黒い髪をもった人々が、同じ服を着て暮らしていて……ううん、これはきっと『学舎』ね、そこで賢者さまは、敬われながら暮らしていたの」
あぁ……と、俺は心の中で呻いた。
俺の世界を幻視したのか? それとも本当に夢想しているだけなのだろうか? あるいはその両方か。姫の語る「賢者の世界」は当たっているようで、どこかが違うのだ。
「でも、この世界はずっと混沌として、綺麗なものも、そうでないものも全部交じり合ってしまったの。死と生はいつも紙一重で、富と飢えは心の壁をつくる。そこからやがて『闇』が生まれて、世界を覆ったわ……」
――魔王、デンマーンの事か。
しかし混沌なる世界なんてものは、俺の居た世界も同じようなものだ。むしろ、俺にとってはこの世界の方がよほど魅力的に映るのだが、隣の芝生は青く見えるものなのか……。
「やがて『光』が集まって、『闇』と戦うために冒険をするの! 勇敢で素敵な勇者様! とても強い女性の戦士! 賢く美しい魔法使いに、優しい癒しの僧侶、あぁ、可愛い剣士様も忘れてはいけないの」
次第に熱を帯びた頬が僅かに色を帯びる。いつの間にか、指を胸の前で絡み合わせ、俺に嬉々として話す姿は、あのメモ書の『詩』で感じた、天真爛漫な少女そのものだった。
「それは……俺達、ディカマランの英雄の物語なのですか?」
「ううん、違うわ。だって、これをわたしが考えたのは……10歳のときよ? もう……5年も前に考えた英雄たちのお話なの。子供っぽくて……おかしいかしら?」
俺は静かに首を振った。
俺の様子に安心したのか、口元が小さく微笑んだように見えた。
気が付けば俺は姫の不思議な瞳から目が離せないでいた。
「だけど――勇者達だけでは闇を打ち倒せないの。だから……私は考えたの。異世界からやってくる、無敵賢者さまの事を」
ざらついた感触が首筋を這う。消えた姫メティウスの物語。闇、光、英雄たち、異世界、そして――賢者。
「あなたが……俺を……呼んだのか?」
俺の呻きにも似た問いかけに、メティウス姫は形の整った輪郭を僅かに傾けて、質問の意味を測りかねているようだった。俺はすぐに質問を変えた。
「メティウス姫、あなたは……、どうしてここに?」
俺の不意の質問に、瞳をまたたかせて、一段と小さな声で、
「……私は……、ここから出られないの……」
「足が、不自由だからですか?」
「それもありますが……出ることが禁じられています」
――軟禁か。
俺はそこでようやく理解した。この場所に張られた結界は、外からの侵入を拒むものじゃない。内向きに展開された、もう一枚の結界、つまり閉じ込める為のものだと。
王家の闇に隠された、第二王女メティウス。五年前を境に王家の記録から消されたこの姫に、一体何があったというのか? だが、初対面で僅か数分だ。これ以上の詮索は、今はよそう。
レントミアが指輪で繋がった魔力糸を通じて、そろそろ帰ってきたほうがいい、と合図を送ってきている。
どうやらここで時間切れのようだった。
姫、預言者ウィッキ・ミルンがここに居ると判ったことが最大の収穫だ。居場所がわかった以上、またチャンスはあるだろう。
「姫のお話し、俺はとても楽しかった。だが……申し訳ないが、時間が来てしまったようです。……またここへ、図書館へ来てもいいだろうか?」
俺はゆっくりと静かな声で告げた。
姫は俺の言葉に息を飲んだように押し黙り、やがて悲しそうに目を伏せると、ドレスの裾をぎゅっと握りしめたまま、小さく頷きながら呟いた。
「また……図書館で……」
<つづく>