卒島水門の場合
どうしてお前がここにいるんだろう。
どうしてお前だったんだろう。
どうして、
俺が地獄の役人として働きはじめてからもう何年たっただろう。小説や漫画の中で天使だとか死神だとかいわれる役目についているという実感は未だにあまりない。ファンタジーな世界で起こるようなドラマチックな出来事なんてそうそう起こらない。俺は『送る人々のことを理解するため現世の人々に混じって生活すること』というなんだかわかるようなわからないような理屈の規則に従って現世で生活している。だから知っている人間を黄泉に送ったこともある。しかし『現世の人々と深く関わってはいけない』という規則(これはまあ妥当だと思う)に従い、深い関わりもなかったので他の人間と同じように接してきた。ときどき深く関わってこようとする人間もいたけれど、関わるなという態度をとり続けていたから深く関わるようなことにはならなかった。
ひどく味気ない毎日である。そんな無味乾燥な毎日にも、ごく稀に雫が落ちてくることがある。
なんて透き通った歌声だろう。
現世の人々に混じって通っている高校(学生に混じるのが何かと都合がいいのだ。学生というのは便利な身分である。)の文化祭で偶然耳にした歌だった。この高校は文化祭に生徒全員参加を義務付けていて、面倒くさいながらも俺はその辺をぶらぶらしながら時間をつぶしていた。歌の後に台詞が聞こえてきたから、演劇かミュージカルなのだろう。そんな風につらつらと考えながら歩いていると、急に人が飛び出してきた。
「おわ!?」
どうやらそこのカーテンから飛び出てきたらしい女子生徒は目に涙をにじませていた。二重の意味で驚いた。かつらをかぶっているのか髪は銀色である。劇の出演者なのだろう。女子生徒は驚きの表情を浮かべながらもバツの悪いような表情になった。
「…いきなり出てきてごめんなさい。」
彼女は涙を隠すためか下を向いてもごもごと謝罪する。
「ああ…。気をつけろよ。」
必要最低限のやり取りだけして立ち去ろうとした。が、制服のすそをがしっとつかまれてしまった。
「…何?」
迷惑そうな態度で応じる。少女は下を向いたままささやくような声で言った。
「あの、いきなりですみませんが、迷惑ついでに『お前はできる』って言ってくれませんか?」
いきなり何を言うのだコイツ。とは思ったが、服のすそを握ったまま離さない彼女を見て、軽く嘆息し、言った。
「お前はできる。」
すると彼女はうつむいていた顔を上げ、こぼれるような笑顔を俺に見せた。ただの通りすがりが適当に言った一言にすぎないのに。と、少女が(飛び)出てきたカーテンの向こうから声が聞こえた。
「アキー!出番!出番!早くっ!急いで!」
「はーい!」
彼女は返事をすると、再び俺に笑顔を向け、「ありがとう」という言葉を残し、カーテンの向こう側に消えていった。まもなく、あの透き通るような歌声が聞こえてきた。どうやらあの歌を歌っていたのは彼女だったようだ。
それにしてもずいぶんきれいな歌声だ。正直言ってこんな文化祭なんかにはもったいない。
文化祭からしばらくの間、学校全体であの歌声の持ち主の話題で持ちきりだった。何でもあの女子生徒は演劇部(あれは演劇部の出し物だったらしい。)の部員ではなく、助っ人だったらしい。しかもその助っ人をするに当たって、自分が誰かわからないようにしてほしいとのことで、関係者一同に緘口令が敷かれているらしい。極力顔を隠せるようにロングヘアのかつらとショールをかぶっていたとか。
クラスメイトから浮いた存在である俺のところまで噂が回ってくるほど、皆その女子生徒の正体に興味津々だった。だんだん彼女の噂話には尾ひれがついて、実は彼女はうちの高校の生徒ではなく宝塚音楽学校の生徒だとか、たまたま文化祭に来ていた父兄が芸能関係者で彼女のデビューを画策しているとか、はてはすでにデビューしているがまだマイナーなアイドルだとかいった根も葉もない噂が飛び交っていた。人の噂も七十五日とは言うが、二週間もたたないうちに噂は立ち消えになった。
彼女との出会いはちょっとしたハプニングとしてそのうち忘れてしまう、そのはずだった。
次も卒島視点でお送りしたいと思います。