◇ 9
今、私の目の前には、あのときの彼女が食べていたものと同じチョコレートケーキが置かれている。あのときの彼女と同じように、フォークで切る。そして、それを口に運ぼうとしたそのとき、目に飛び込んできたのは窓の外の黒い影。街中の孤高の黒。全身を黒い服で包み、颯爽とした足取りで街を進んでいく。それは正しく彼女。私が堕ちたいと願う彼女。待って……待って、待って――待って! ケーキを一口も食べることなく、私はカフェを飛び出した。
「待って!」
泣き叫ぶような声だった――叫んでいた。大声を出すことすら久しいというのに。そんな私の声に、彼女はふわりと振り向いた。そして酷く艶っぽく嗤う。久し振りに見た彼女の嗤い顔に、私は手を伸ばした。
「私を、置いて……っ」
行かないで! 私がそう言う前に、彼女は人差し指を唇に当てた。静かにしなさい、と無言で伝えてくる。それから、彼女はそのたおやかな手を私へと伸ばした。私は吸い寄せられるように彼女の手を取る。その瞬間、風を切るように走り始めた。
「貴女の顔、初めて会ったときより酷いわね。まるで腐った水に棲むお魚みたい」
ふふっ、と彼女は嗤う。彼女に引かれるまま、街を駆ける。頬を撫ぜる風は少しひんやりとしていて、流れる視界は留まることがない。
とあるオフィスビルの前まで来ると、彼女は足を止めることなく、けれどもスピードを緩め、そのビルへと入った。このビルには一度来たことがあるように思う。来た、と言うよりは、通り過ぎた、が正しい。外から眺めただけで、中に入ったことはない。このビルは“職場”だと彼女は言った。彼女の職場。ガラス張りで小奇麗な外観。中もイメージ通り、気味の悪い清潔さが蔓延っている。ここは異質。息苦しい。私は思わず、彼女に引かれていない方の手で、口を押さえた。
「息苦しい? 腐ってるのだから、苦しいわよね。私も、貴女も、ここも、この街も、世界さえ! でも、ここは腐ってるのに気付かず、綺麗であろうとしてる。だから苦しいの」
金属の冷たいエレベーターのドアの前まで真っ直ぐと歩く。彼女はエレベーターに乗り込むと、最上階のボタンを押した。その横顔は、どこか嬉々としていて、何故か儚い。彼女はふと、私に目線を送ると、微笑んだ。
「そのスカート、やっぱり似合うわね。それから、そのコルセットも」
エレベーターのドアが開く。彼女はまた、私の手を引いて、颯爽と歩いた。それから、非常階段を昇っていくと、突然視界が開ける――屋上。鮮やかな青い空が近くて遠い。白い雲が眩しい。不意に、彼女の手が離れた。くるりと、彼女が振り向く。
「私のお人形さんだという貴女。自由はいかがだったかしら?」
「……もう、自由は終わり?」
自由なんて、いらない。私はモノでありたい。彼女の、モノ。彼女の、物。彼女の、者? この息苦しい世界。彼女がいなくなってから、私はずっと彼女を求めていた。
「そうね、もう終わりにしようかしら。だって貴女――堕ちるでしょ?」
彼女の指が、私の頬に触れる。ゆっくりと滑り、私の首から顎へと回る。彼女は自信たっぷりに、艶やかに嗤った。
「貴女、もう私に堕ちるでしょ?」
もう一度、言う。自信満々な声音。そんな彼女の言葉に、私は小さくゆっくりと頷いた。
貴女に堕ちる。貴女を求める。貴女と居る。だから、私を貴女のモノにして。
彼女はゆったりと長い黒髪を手で払った。私は彼女をじっと見つめていた。不意に、彼女は屋上の手摺へと足を掛ける。ふわりと舞い上がるようにして、まるで何でもないことのように手摺の上に立ち、私の方へと振り向く。そして、艶やかな微笑み。
「私の大切なお人形さん」
青い空をバックに、彼女はそう囁く。それから人差し指を薄い唇に当てて、少し考えるように沈黙する。けれど、すぐにその沈黙は破られた。
「私に堕ちて、私の者になりなさい」
そう言って、広げられた両腕。全てを包み込むような黒。肯定の言葉なんか必要なかった。私は彼女に魅せられる、吸い寄せられる。彼女と私は異質で同じ、だけれど違う。世界は黒く、塗り潰されてしまえば良い。身を寄せ、包まれ、幸せな窒息。ぐらりと浮くのはモノクロの身体。
そして、それから……世界は反転、そして暗転。さよなら、腐ったこの世界――貴女に堕ちる、その為に。




