◇ 3
まず向かったのは公園だった。子どもが好きそうな遊具は殆どなく、ベンチばかりが置いてある、中央の大きな噴水がシンボルの公園。その噴水の周りにあるベンチの一つに腰掛け、足を投げ出し、空を仰いだ。夕刻の空は真っ赤に燃え、灰色がかった雲が何筋も伸びていた。ふと、彼女と初めて会ったのも夕方の公園であったことを思い出し、私はゆっくりと目を閉じた。
あの日、私は公園のベンチに座り、一日を過ごしていた。毎日毎日、生きているという事実が重く圧し掛かり、息苦しくて、真綿で首を絞められるようにして、じわじわと世の中に殺されていくのだと思っていた。だから、私は物になりたかった。生き物ではなく、その辺に転がる石のような、無機質な、物。意思もなく、感情もない、生きてさえいない物が私の憧れ。公園のベンチでずっと過ごしていれば、いつか干からびて、無機質なミイラになれるのではないかとさえ思っていた。
そこへ彼女は突然現れたのだ。夕陽をバックに現れた黒い影は、まるで死に神のようにも思えたし、私の願いを叶える魔法使いのようにも思えた。彼女は、黒いブラウスにレースの施されたロングスカートを身に付け、ひらひらの黒い日傘を差していた。そして、私が座っていたベンチに腰掛け、しばらく私のことをじっと見つめると、不意に立ち上がり、そのまま去っていった。変な人だなぁと思ったことをよく覚えている――もちろん、人のことを言えた義理ではないことも自覚している。
その日の夜、満月が真上に昇った頃、彼女は再び私の前に現れた。彼女は夕方見たときと同じ服装のまま、ただし、日傘は畳んで右手に持った状態で、私の前に立つと、じっと私を見下ろした。私は彼女をじっと見上げ、視線が絡み合うことに、どこか緊張感を覚えた。
「ねぇ、世の中って腐ってると思わない?」
唐突に、彼女は私に問い掛けた。私はその抽象的な問いに、どう答えたら良いのか分からず、黙っていた――ああ、でも、世の中が腐っているのだとしたら、私のこの息苦しさは、そのせいなのだと言えよう。
彼女は私をじっと見下ろしている。しばらくの沈黙の後、彼女のたおやかな手が私へと伸びてくるのを見て、私はビクリと体を震わせた。彼女の指は、ゆったりと私の頬を撫で、唇をなぞった。
「腐ってるのよ、私も貴女も、世界さえも。分かるでしょ?」
彼女は嗤う。私の隣に腰掛け、優雅に足を組む。それから、私の肩に体を摺り寄せるようにして、彼女は私を見つめた。顔と顔の距離が近い。それでも、私は彼女から目を逸らそうともせず、距離を離そうともしなかったのは、きっと、彼女の何かに魅せられていたからなのだろう。彼女の薄い唇は弧を描く。
「――ねぇ、貴女。このままここで、朽ちるの?」
朽ちる? その言葉が何を意味するのか考える前に、彼女はふわりと立ち上がった。それから、私を見下ろして嗤う。手に持っていた黒い日傘で、私の顎をなぞった。
「貴女の眼、すごく息苦しそう。それはね、腐ってるせいなのよ。だぁれも世の中が腐っているなんて気付かないのに、貴女は気付いたの。すごいことだわ、素晴らしいわ、貴女。このまま、朽ちていくなんて、すっごく勿体ない。ねぇ、そう思わない?」
彼女は私の顎から日傘を離すと、今度は膝を、ベンチに座る私の腿の横へと乗せた。彼女の両手が、やんわりと私の頬を包む。コツンと額を合わせた。
「だから貴女、私のモノにならない?」
ハッと呼吸が止まる。時の流れさえ止まった気がした。その言葉に恍惚とする。魅力的、魅惑的。彼女はゆったりと口角を上げた。
「貴女の、物にしてくれるの?」
私がそう呟くと、彼女は嗤って手を差し出した。公園に吹く、夜の冷たい風の中、私は彼女の手を取った。
あの時に似た冷たい風が頬を撫ぜ、私は回想の海から引き揚げられた。ゆっくりと目を開けると映る、夜闇に染まりつつある公園。私はベンチから立ち上がると、フレアスカートを揺らしながら、彼女を真似た颯爽とした足取りで、公園を出て行った。




