さんじゅう ぷらす よん。
煙を上げる軍艦から無事離れ、もう追いかけて来れないところまで行きますと皆さんは大声を上げて船内から酒樽や食べ物をどんどん持ってきます。
それはもう宴の合図と分かっていましたが久しぶりだったので少しだけ驚いてしまいました。
驚くことはそれだけではありません。
なんと船内からウェルダンさんが出て来たのです!
少し声を張り上げて名前を呼んだ私に振り返って、ニコリと笑みを浮かべながら歩み寄って来てくださいます。
「あぁ、貴女も無事戻れましたか。」
「はいです。ウェルダンさんも助かってよかったのです!でも、私のところへジークさんが来ていらしたのなら、ウェルダンさんはお一人で逃げられたのですか?」
「いいえ、もう一人ヴェルノの部下が軍には居るんですよ。その方に手引きをしてもらいました。」
「スパイ…!」
そんな方もいるのですね!アイヴィーさんを見上げましたら「本当は秘密なのよ?」と口元に人指し指を添えて悪戯っぽく笑います。
その後ウェルダンさんはすぐにどこかへ行ってしまい、私はお裁縫道具を持ってきてくださったアイヴィーさんにチクチクとお腹を縫っていただくことになりました。
服を脱いでお腹を見せた時のアイヴィーさんの悲鳴はすごかったです。
「あ?何だ?」
私が服を脱いだときにバサリと本が落ちました。
…あぁ、忘れていたのですよ!
ヴェルノさんが拾い上げて本を開きます。カルヴァートの部屋にあったものを持ってきました、と言うと「盗んだのか。」なんてニヤリと笑います。
違うのですよ。お借りしているだけなのです。…いつお返しするかは分かりませんが。
お腹を縫っていただいている間、ヴェルノさんはその本を熱心に読んでおられました。
アイヴィーさんは色々とカルヴァートに対して悪態をぼやきながらも慣れた手付きで丁寧に傷跡を直してくださいます。こういう時は痛覚というものがなくて本当に良かったのですよ。
十分程で終わったお腹を見ると縫った後なんて分からないくらい綺麗なのです。
アイヴィーさんに尊敬の眼差しを向けていましたら、横から伸びてきたヴェルノさんの腕に抱え上げられてしまいました。
それから日焼けした手でお腹の辺りを確かめるように触ったり、縫った後を指で触るのでとてもくすぐったいのです。
「問題ねェな。」
「当たり前でしょう?真白ちゃんだもの、綺麗に直さなきゃ。」
「あぁ、でも少し触り心地が違ェ。」
「…縫った後まで消せなんて無茶言わないでちょうだいね?」
気持ち呆れた様子でそう言うとお裁縫道具を持ったアイヴィーさんは離れてしまいました。
まだぺたぺたとお腹を触られてちょっと恥かしいのです。しかもせっかく作っていただいたお洋服はもう破れて着れないのですから、もったいないし、残念なのですよ。
丈の短いキャミソールにかぼちゃパンツ姿なのですが周囲にはヴェルノさんとアイヴィーさんしかいないので、よしとしておきましょう。
耳や手を触ったりするヴェルノさんは他に怪我がないのか確かめているようでしたので、私はされるがままに撫でくり回されます。
満足した様子で膝の上に下ろされ、私もようやく食事を食べることができるのです。
目の前に出されたお皿とフォークを見てあっと声を上げてしまいました。
買ったのに使われることのなかったあのニンジン型のお皿と青いお魚のフォークなのです。
ヴェルノさんが片手でお皿を支えてくれていたのでフォークで野菜の炒め物を食べると、お腹からキュルキュルグルルゥ~と大きな音がしてしまいました。
頭上から笑う声が聞こえます。
「そんなに腹減ってんのか?」
「うー、だって軍人さんのところではご飯が食べられなかったのですよ。」
ヌイグルミだからか食べなくても問題はなかったのですが、やはり食べた方が良かったのですね。
一口、二口食べる度にお腹に食べ物が落ちる感覚がするのです。
一生懸命食べる私にヴェルノさんは小さく笑って食べやすそうなパンや料理を渡してくれます。
お腹いっぱいになってフォークを置くとヴェルノさんがお皿を遠ざけてくださいました。
うとうとと眠気が襲ってきて、船を漕いでしまっていたようで笑い声がしたかと思うとそっと寄りかからせてくれます。
そのまま目を閉じてしまえば寝不足気味だった私はあっさり眠ってしまいました。
自分に寄りかかりながらグッスリ眠ってしまったヌイグルミの頭を撫でながら、ヴェルノは酒を仰る。
数日振りの柔らかく手触りの良い感触を楽しみつつ、やや間の抜けた寝顔を見て笑みを浮べた。
真白が持ってきたのは日誌だった。それも海軍の軍議などで話されている内容まで事細かに載っているものだ。
中身が読めるのかは定かでは無いにしろ、素晴らしい手柄である。
日誌には海軍の巡回航路から新しい武器についてなど、海賊としては欲しい情報が多く載っている。
ウェルダンと真白を取り返し、あの軍師のプライドを叩き潰し、気持ちもある程度スッキリしていたが、これで更に胸の空く思いである。
本当ならば殺してしまいたいくらいには苛立っていたが、真白の前で人を殺すことだけは躊躇われたのだ。
今までならば誰がいようが何を言われようが己のしたいようにしていたと言うのに、気が付けばこのヌイグルミの事ばかり気にするようになってしまっている。
そんな変化ですら嫌だと思わない辺り相当入れ込んでしまっているらしい。
冷静に己を分析し、ヴェルノは一度軽く空を見上げた。
少し遠くから聞こえて来る部下の騒ぐ声と、すぐ腕の中で規則正しく繰り返す呼吸音に耳を傾け、何時も通りの日常に戻った事を確認する。
風が吹くと腕の中のヌイグルミが小さく唸りながら擦り寄ってきた。
色気の欠片もあったものではない下着姿を視界に映し、これでは寒いだろうと肩にかけていた上着で包んでやれば気持ち良さそうに自身の腹部に顔を寄せて、また寝息を立てる。
……起きたら洗ってやんねェとな。
以前よりも少し手触りの落ちてしまった、けれども相変らず質の良いふわふわとした頭を撫でてやりながらヴェルノはグラスに残っていた酒を一気に飲み干し、彼女の初の大手柄である日誌へ視線を落とした。