とあるメイドの独白による追想録
私が初めてエリオット様にお仕えしたのは、まだ陛下が七歳の春のことでした。
当時の陛下は、まるで陽光をそのまま形にしたような、透き通った金色の髪をなびかせ、庭園を駆け回る無邪気な少年でいらっしゃいました。
「メアリ、見て。この蝶、羽を怪我しているみたいだ。お城の庭師に頼んで、治してあげられるかな?」
泥だらけになった膝も気にせず、陛下は手のひらの中で震える小さな命を、壊れ物を扱うような手付きで見つめていらっしゃいました。
その碧眼に宿っていたのは、他者の痛みを自分のことのように慈しむ、あまりにも脆く、あまりにも高貴な善性。
私はその時、心から誓ったのです。この汚れなき魂を、一生をかけてお守りしよう、と。
「エリオット様、そんなに優しくなされては、蝶も離れるのが辛くなってしまいますわ」
「いいんだ。この子がまた空を飛べるようになるなら、僕は見送るだけで幸せだよ」
ああ……! あの時の陛下の、花の蕾がほころぶような微笑みを、私は今でも昨日のことのように思い出せます。
陛下は、自由を愛し、空を飛ぶものを愛し、誰かを閉じ込めることなど想像もできないほど、広大な心をお持ちだった。
けれど、その輝きが……。
学園の門をくぐり、あのお方――アメリア・ローズ公爵令嬢様という終わりの始まりに出会ってしまったあの日から、少しずつ、けれど確実に、冷たい影に侵食されていくことになるのです。
今にして思えば、あの学園での三年間こそが、エリオット様の人生で最後にして最大の「輝き」だったのかもしれません。
学園の制服に身を包んだエリオット様は、初夏の光をその身に集めたかのように眩しく、廊下を歩けば誰もが足を止め、その気高さに溜息を漏らしたものでした。
私は、エリオット様の身の回りのお世話をするために学園へ同行するたび、胸を張ってその後ろを歩きました。
「メアリ、今日の放課後は剣術の稽古があるんだ。君が用意してくれた新しい革の手袋、とても馴染みが良くて助かっているよ」
そう言って振り返り、少年のように目を細めて微笑む陛下。
その瞳には、未来への希望と、自らの力で国を良くしていこうという、清廉な志が満ち溢れていました。
アメリア様とのティータイムも、傍目には絵画のように美しい、完璧な婚約者同士の語らいに見えました。
アメリア様が、エリオット様の襟元をそっと直して差し上げる姿。陛下が、それに応えて優しく頷く姿。
私は、お二人の仲睦まじい様子を遠くから見守りながら、「ああ、エリオット様はなんて幸せな未来へ向かって進んでいらっしゃるのだろう」と、温かな涙を禁じ得なかったのです。
あの平穏が、アメリア様という巨大な蜘蛛が張り巡らせた、たった一筋の糸に過ぎなかったとも知らずに。
エリオット様が、アメリア様の完璧な微笑みの奥に潜む底知れぬ何かに気づき、一人で恐怖を募らせていたことにも……。
私は、気づいてあげられなかった。
ただ、エリオット様の幸福を信じて疑わなかった。
……だからこそ、あの日、サロンの扉の向こうで目にした終わりの始まりが、私の魂をあんなにも激しく引き裂いたのです。
その決定的な異変は、バルカン公国が内乱の炎に包まれたという急報が、王宮に届いた直後に生じました。
当時、学園での日々を謳歌されていたエリオット様は、隣国の惨状に深く心を痛めておられました。エリオット様は、人道的な支援と平和的な解決を模索すべく、閣僚たちへの働きかけを急ごうとされたのです。
……けれど。
事態は、エリオット様の預かり知らぬところで、既に完了しておりました。
「エリオット様、ご安心なさいませ。バルカンの内乱に紛れ、幼いリディア王女を救出するよう、既に軍に指示を出しておきましたわ。緊急事態ですので、わたくしの私兵だけではなく、王室の騎士団にもお願いして、救出のために動いていただけました」
放課後のサロン、いつものように穏やかにお茶を勧めるアメリア・ローズ公爵令嬢様。その口から語られた言葉に、エリオット様は手にしていたカップを落とさんばかりに驚愕されました。
軍を動かすのは、王族である陛下や国王陛下の聖域。それなのに、一介の令嬢に過ぎないはずのアメリア様が、王室の騎士団さえもその手中に収め、越権行為を行っていたのです。
「……アメリア。君が、軍に指示を出したというのか? 許可も得ず、勝手に爆発させた火種を消すために……」
震える声で問い詰めるエリオット様に対し、アメリア様は窓から差し込む陽光を背に、透き通るような微笑みを向けられました。
「あら。隣国の火種が燃え盛っておりますのよ?こちらへ飛び火するのを待つ必要がどこにありますの? エリオット様。わたくしが、わたくしの管理下で早めに掃除を済ませて差し上げただけですわ。……それに尊きお方の命を救ったのです。これ以上の方法は、他にありまして?」
その声音に含まれた冷たい響きに、私はエリオット様の肩が微かに、けれど激しく震えるのを見ました。
……おいたわしや。
エリオット様はこの時、思い知らされたのです。
ご自身が学園で平和な通商や共存を夢見ている間に、アメリア様は既にこの国の軍を、経済を、そして隣国の運命さえも、その白い指先一つで操る準備を終えていたのだと。
エリオット様が聡明な婚約者と信じていたお方は、いつの間にか、王の権威さえも食らい尽くす、美しくも恐ろしい支配者へと変貌を遂げていた。
この日を境に、エリオット様の瞳から無邪気な光が消え、代わりに深い恐怖という影が宿るようになりました。
彼女の微笑みを見るたびに、その裏で誰かの運命が、陛下の預かり知らぬところで冷徹に掃除されているのではないか……。
そんな疑念に苛まれながら、それでもなお、エリオット様は完璧な婚約者として彼女の隣に立ち続けなければならなかったのです。
そして運命の日、王宮のサロンを包んでいた空気は、まるで嵐の前の静止した海のように、不気味なほど凪いでおりました。
私は、震える手でお茶の準備を整えながら、エリオット様の横顔を盗み見ておりました。
エリオット様は、先ほどから一言も発さず、ただ手元のカップを見つめていらっしゃいました。その瞳は、覚悟を決めた戦士のように鋭く、同時に、断頭台へ向かう死刑囚のように悲しく揺れて……。
やがて、エリオット様は顔を上げられました。
目の前で、一点の曇りもない微笑みを浮かべ、優雅に紅茶を嗜むアメリア・ローズ公爵令嬢様を、まっすぐに見据えて。
「アメリア・ローズ公爵令嬢。君との婚約を白紙にさせてもらう! 君のその、人道を隠れ蓑にした底知れぬ悪意が怖いんだ!」
エリオット様の叫びは、静まり返ったサロンの天井を突き抜けるほどに鋭く響きました。
それは、七歳の春からお側にお仕えしてきた私でさえ、一度も聞いたことのない王の叫びでした。
数年間に及ぶアメリア様の掃除という名の支配、隣国での惨劇、そして自分の周囲で静かに消えていった人々への、魂の底からの慟哭。
「……まあ殿下、おひどい。わたくし、常に平和と慈愛を重んじて行動しておりますのに」
アメリア様は、眉を八の字に下げ、本当に傷ついたかのように瞳を伏せられました。
その所作の完璧さが、かえって私を戦慄させました。エリオット様がこれほどまでに感情を剥き出しにしているのに、あのお方は、指先一つ、視線一つ、乱れがないのです。
「ああ、その通りだ! 先月の軍事大国バルカンの件はどう説明する!」
そこからは、エリオット様の命懸けの告発が続きました。
バルカンの崩壊、経済操作、王都の奇病、そして、昨夜の令嬢が「土として生きる」と宣言した奇怪な事件までも。
エリオット様が一つ、罪状を挙げるたびに、アメリア様は「わたくしですわね」と、まるで今朝の天気を肯定するかのように、さらりと認められました。
私は、サロンの隅で膝を突きそうになるのを必死に堪えておりました。
目の前で繰り広げられているのは、痴話喧嘩などではない。
一人の人間が、自らの正気と世界の命運を懸けて、巨大な悪意なき怪物に挑んでいる……そのあまりにも孤独で、あまりにもおいたわしい戦い。
エリオット様がガタガタと震えながら一歩、また一歩と後退していく姿を見て、私は胸が張り裂けそうでした。
エリオット様は叫び切ったのです。自分の自由を求めて。
けれど、アメリア様がゆっくりと、感情の光を失った瞳で「自由に行動できるようになりますわよ?」と囁いた瞬間……。
エリオット様の王としての輝きが、プツリと、音を立てて消え去るのを、私はこの目で見たのです。
「婚約破棄を、破棄する!! 撤回だ! 取り消しだ!!」
その叫びと共に、エリオット様がアメリア様のドレスの裾に縋り付いた瞬間、サロンの空気は「凍結」から「完了」へと変わりました。
アメリア様は、まるで迷子の子供を見つけた母親のような、この世のものとは思えないほど慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、エリオット様の金の髪を優しく撫でられました。
「ふふ……賢明なご判断ですわ、エリオット様。……愛しております。さあ、今すぐにでも婚約なんて状態から抜け出して、早く婚姻関係を結びましょう!」
そこからの展開は、まさに圧巻そのものでした。
翌日には挙式の準備が完了し、一週間後には国中の全教会で一斉に鐘が鳴り響きました。
エリオット様は、まるで糸の切れた人形のようにアメリア様に身を委ね、ただ言われるがままに誓いの言葉を口にされました。
民衆は「これぞ真実の愛」と涙し、歴史家は「王国の新たな夜明け」と筆を走らせる。けれど、祭壇の横に控えていた私にだけは見えておりました。誓いの接吻の際、アメリア様の白い腕がエリオット様の首筋を、二度と逃さぬ蛇のように、ひどく美しく、ひどく強く抱き寄せていたのを。
そして……。
婚姻という名の永久管理が始まってから、一年と経たぬうちに、王宮に産声が響き渡りました。
それも、一度ではなく、二度。
お生まれになったのは、エリオット様とアメリア様、それぞれの特性を完璧に分け合ったかのような、光と闇の双子でいらっしゃいました。
兄、アルフォンス様。
アメリア様譲りの透き通った紫の瞳を持ち、生まれた瞬間から泣き声一つ上げず、まるでこの世界の理をすべて理解しているかのような、静謐な瞳で周囲を観測していらっしゃいました。
妹、リリアーヌ様。
エリオット様そっくりの金髪と碧眼を持ち、天使のような無垢な笑顔で、周囲のすべての愛を吸い込むように笑う、眩いばかりの光の化身。
エリオット様は、産着に包まれた双子を抱き上げた時、その震える唇から、祈るような、あるいは呪うような言葉を零されました。
「……ああ、なんて……なんて残酷なほどに、美しいんだ……」
それは、ご自身の容姿がリリアーヌ様に受け継がれ、ご自身を追い詰めたアメリア様の知性がアルフォンス様に受け継がれた、その運命への絶望だったのかもしれません。
アメリア様は、そんな夫の背後に影のように寄り添い、二人の子供と、一人の夫を、その広大な愛の檻の中にまとめて閉じ込められました。
「ふふ、ふふふふふ! 見て、エリオット様。私たちの愛が、こんなに素晴らしい形になったわ。あの子たちが、わたくしたちの築いたこの『完璧な世界』を、永遠に守り続けてくれる。……もう、何も怖がることはございませんわ。あなたの血も、魂も、すべてわたくしがこうして、次の世代へと正しく受け継がせて差し上げましたもの」
おいたわしや。
エリオット様がかつて求めた「自由」は、この日、二人の子供という名の「決して断ち切れぬ鎖」へと姿を変え、彼の人生を永遠に、この幸せな地獄へと繋ぎ止めたのです。
お生まれになった双子が成長し、お城の長い廊下や庭園を小さな足取りで駆け回るようになられた頃、私はかつてない平穏と、それを遥かに上回る戦慄の中に身を置いておりました。
「リリアーヌ、危ないよ。……ああ、大丈夫。昨日、庭師に命じてこのエリアの凸凹はすべて削り取らせておいたから。君が転ぶ確率は、今や限りなくゼロに近い」
幼いアルフォンス様が、転びかけた妹のリリアーヌ様の肩を支え、淡々とそう告げたあの日。
かつてエリオット様が、傷ついた蝶を救うために泥だらけになって膝をついたあの庭園は、一晩にして石畳の平野へと作り替えられました。
おいたわしや、エリオット様……。
あのお方の慈悲深い血は、アメリア様という強固な器によって、他者を効率的に、徹底的に管理するための知性へと書き換えられてしまった。
庭でそれを見届けていたエリオット様が、震える手で顔を覆い、「……私の庭が……消えていく……」と力なく呟かれたあの横顔を、私は忘れることができません。
アメリア様による永久管理は、年を追うごとにその密度を増していきました。
エリオット様には、もはや一分の自由も残されておりません。
召し上がるもの、袖を通すもの、今日語るべき言葉、そして夜の安眠さえも。すべてはアメリア様の白い指先と、緻密に計算された愛の処方箋によって管理されている。
けれど……。
そんな、檻の中で日に日にその輝きを「おいたわしく」曇らせていく陛下を、お側でお守りし、お支えし続けていたある日のこと。
私は、自分の中に、決して抱いてはならないはずの熱」宿っていることに気づいてしまったのです。
「メアリ……、……疲れたよ……。……私は……いつまで……、……この……幸せな……夢を……見続けて……いれば……いいんだ…………?」
深夜、アメリア様のハーブティーで半分夢心地になられた陛下が、私の袖を弱々しく掴み、そう零された瞬間。
私は、お守りしようと誓ったはずの主人のその弱り果てた美しさに、あろうことか、魂が震えるほどの【悦び】を感じてしまったのです。
「……おいたわしや、エリオット様」
私は、アメリア様の隣で表情を失った陛下を見つめ、何度も心の中でそう繰り返しました。
かつて蝶を逃がしたあの温かな指先は、今やアメリア様が淹れたお茶のカップを握るためだけに存在している。
私が守りたかった、あの汚れなき善性。それが、あのお方の手によって、一滴残らず絞り出され、代わりに静寂という名の毒で満たされていく……。
――ああ、なんて美しいのかしら……。ああ、なんて……。なんて、素晴らしく、無惨な光景なのでしょう!
守りたい。お守りしなければ!
そう思うたびに、私の背骨を、名状しがたい悦楽が駆け抜けるのです!
陛下のあのおいたわしい瞳……。自由を渇望しながら、同時にアメリア様の愛に依存し、膝をつく屈辱。このおいたわしさこそが、今の陛下を形作る、最も尊く、最も耽美な輝きなのではないかしら……。
ああ……私は、陛下を救いたいのではない……。
この世界一美しい絶望を、誰にも邪魔されず、最前列で、永遠に眺めていたいです……。
忠誠心? いいえ、そんな綺麗な言葉ではありません。
これは、あのお方――アメリア様さえも知らない、私だけの「横領」です。
アメリア様が陛下を支配されるたび、私はそのおこぼれの「絶望」を、心という名の瓶に、一滴ずつ、大切に、大切に貯めて参りました。
瓶はもう、溢れんばかりに満たされています。
叫びたい。
この、喉の奥までせり上がってきたドロドロとした熱い想いを、どこかへ叩きつけたい!
アメリア様の管理が行き届いたこの静かな城内で、私だけが、狂おしいほどの熱量で陛下を「鑑賞」し続けている。
このままでは、私が壊れてしまう。私は、この胸の内に溢れる不敬極まりない、けれど誰にも止められない情熱を発散させる場所を求めました。
だから……私は……。
深夜、月明かりさえも遮った部屋で、震える手でペンを握りました。
誰のためでもない、私の異常を証明するために。
私が夢見た、理想の「おいたわしき王」の物語。
夜、陛下が眠りにつき、アメリア様がその隣で満足げに微笑んでいらっしゃる間、私は自室の机に向かい、一心不乱に筆を走らせました。アメリア様から盗み取った陛下の悲鳴を、一文字一文字、魂を削るようにして紙に刻みつける。
これは不敬ではありません。これは、私が陛下の一部を……アメリア様の手の届かない物語の中に、永遠に隠匿するための……【私だけの略奪】なのです!
――そうして、狂気の中で産み落とされたのが、あの本でした。
自由を奪われ、愛という名の鎖に縛られ、もはや自分では呼吸の深ささえ決められない、この無力な王。
自由を求め、けれど愛に、システムに、そして自分自身の血筋に、永遠に閉じ込められていく男の悲劇。
――タイトルは、『孤独な氷の王と、彼を檻に閉じ込めた永遠の姫君』。
書き上げた原稿を、私は身分を隠してとある出版社へ持ち込みました。
「不憫すぎる」「王の屈服が美しすぎる」と、一部の好事家の間で爆発的な……けれど、ひっそりとしたニッチな需要を呼び、その本は瞬く間に重版を重ねていきました。ああ……心が洗われるようでした。私の思いは間違ったものでは無かった……そう言われた気がいたしました。
本の作者が、自分であることは、墓場まで持っていく秘密。
私は鏡の中の、エリオット様にそっくりな金髪を持つリリアーヌ様を見つめ、そしてその奥の、寝室で管理されている陛下を想います。
おいたわしや、エリオット様……。
陛下、あなたの絶望は、今や一国の平和を支える礎となりました。
しかし、あなたの自由は二度と戻りません……。ええ、私が断言いたします。
けれど……その代わりに、あなたはこうして、永遠に語り継がれる「愛の物語」の主人公になられたのです。
そして私は今日も、愛用のペンをエプロンの奥に隠し、世界で一番おいたわしい王の、最も完璧なメイドとして微笑み続けるのです……。




