③
「レインの――パーヴェル音楽学校の友達の才能が、このバロタン・ボックスに閉じ込められちゃったかもしれないの! お願い、レインの才能を戻して!」
というのが音楽院に通う若干十一才のティナの妹、チュチュ・チェルシーの依頼であった。
「チュチュちゃん、落ち着いて。順を追って説明しましょ。カレシのレインくんが大切だっていうのはわかったから」
宝石の描かれたソーサーとティーカップをテーブルに置きながら、やんわりと言うティナに、チュチュはぎょっと小さな身体を逸らせた。
「かっ、カレシじゃないってば」
「あら~? いつも彼のこと話してるのに?」
ティーポットから紅茶を注ぎつつ、ティナはその肘で器用にチュチュの腕をつつく。
「そりゃ学校で同じクラスだもん。必然的に話には出てくるでしょ」
ゴールデンドロップをカップに落としたあと、ティナはほうっと頬に手をあてた。
「演技のレッスンで相手役をやることもあるんでしょ~? ロマンスの予感ね」
わざと夢見るように吐息をついてみると、ヒューが目を瞠ったのがわかる。
「驚いた。こんなお茶目なきみは長いこと見ていなかったな」
「もーっ、お姉ちゃんは自分の恋愛にはシビアなのに、あたしのこととなると途端にロマンチストになるんだからー」
むくれる妹に、そうだけどなにか? と思わずひらきなおってしまいそうになる。
今の自分が見れる夢は妹の恋や未来のみなのだから、いいではないか。
チュチュももう大人への階段を上る年齢なのだから、あまり過保護なのもいけないと、田舎の両親にはたまに釘をさされるけれど。
さりげなく話題を変える意味で、ティナはその視線をテーブルの中心に鎮座している品物に転じた。
「でも、ずいぶんかわいいバロタン・ボックスね」
バロタン・ボックスとは、チョコレートを入れておく小さな仕切りのある箱の総称である。
たいがいが安価な段ボールなどの使い捨ての箱で、目の前にある陶器でできた本格的なものは稀だが。
卵型の白い陶器の正面と後ろ、左右の四点に描かれた桃色のバラを、水色の波型のリボンがつなぐクラシカルなデザインだ。
球体の中心に通った金の輪に手をかけぱかりと開けると、宝石箱のように三つの四角い空間が三列並んでいる。
全員がそれを確認すると同時に、バロタン・ボックスは、音楽を奏でだした。
ステップを踏むような軽やかなメロディーだ。
曲はミュージカル『メリー・ポピンズ』の中の『最高のホリディ』。
本来なら物語の舞台である、五月のロンドンの花盛りの公園が浮かんでくるような曲。
たがその音は明らかにくぐもり、割れている。
ロンドンの公園もこれでは曇り空だ。
しみじみとバロタン・ボックスを観察したヒューが口を開く。
「高価ではないが、職人が作った精密さだね。最近ポート・ペロー通りに店舗をかまえた『フォルマシオンデイズ』のものらしい」
思わず聞き流してしまいそうになったが、彼の口から滑り出る単語のかすかな違和感をティナはかろうじてとらえた。
「フォル、マシオン? ハルマシオンではなくて?」
首をかしげるティナにヒューは頷く。
「王室御用達の有名なエナメル細工専門店『ハルマシオンデイズ』に尊敬の念を込めて、店主がより安価に遊び心ある品をとはじめた店さ。ミュージカルの曲を入れた実用性のあるオルゴールが中でも目玉商品らしい」
フォルマシオンとは、フランスで主流の音楽教育法のことで、学科から技能までまんべんなく音楽を学ぶことを目的とした方法のことである。
音楽に関連する用語と高級専門店の名前をかけあわせた、店主の遊び心が窺がえる店名である。
卵型のバロタン・ボックスにヒューの愛おしげな眼差しが降り注ぐ。
「これもまた、その一つだろう。音楽を志す者には魅かれる品だろうね」
「チュチュちゃん、だめよ。おこづかいは計画的に使いなさいって、いつも言ってるでしょ?」
「ご、ごめんなさい」
小言を言う姉と、素直に頭を下げる妹。
「彼女を叱るのは早いよ、ティナ」
そんな姉妹のあいだに、ヒューはやんわりと一石を投じる。
「よく聴いてごらん、音こそ割れてしまっているが、メロディーはすばらしい」
バロタン・ボックスをそっとティナの耳元に近づければ、その表情がかすかに和らぐ。
「それは、まぁ……」
ヒューの視線はすでに、ソファで縮こまるチュチュをとらえていた。
「大舞台から降りて、自分のために働こうとあくせくする姉に、少しの休暇くらいは楽しんでほしいと考えた。そうだね」
ぴくりと身体を震わせ、チュチュが丸い瞳を上げる。
「五月生まれのお姉さんに送るにはぴったりの品だ。きみはセンスがいい」