㉖
「あんたのいるその小部屋は、単独で切り離せるようになっている。夜の湖の中、一人旅の始まりだ。滝つぼ経由で、地獄行きといったところか」
追い詰められた心地で、ティナは鉄柵に手をかける。
「さようならだ、詮索好きの歌姫」
濁った目をこちらに向ける男の腕に、すがる者がある。
「話が違うわ、キース。ティナには、口封じの約束をさせるだけだと。危害は加えないと言ったわよね」
絶望が曇らせる頭で、かろうじて理解する。
やはり。ジャクリーンには、わたしの命までとらえる気はなかったのだ。
「黙れ。ミュージカリー・カップがほしくないのか。お前は言うことを聞いていればいい」
キースと呼ばれた男は手に持っていた鉄の棒を振り下ろす――刹那、ティナは叫んだ。
「人殺しーーっ」
コバエでも追い払うように男は顔をふる。
「小娘が。まだわからんか。この女とてオレと同類。音楽の才能を金で欲しているんだぞ。かばう価値もないわ」
震える全身を奮い立たせ、ティナはまっすぐに視線を正す。
柵越しに、捕らえられた身分で。
それでも。
歌姫たるものいついかなるときも、背筋を伸ばして。
美しく、堂々と。
「いいえ。ジャクリーンはそんな人じゃない。やむおえず悪事に手を染めるのは、大事な人のためよ」
かすかに緩めた表情を、路考茶の髪の、同じく震えている彼女に、向ける。
「そうでしょう?」
「ティナ……」
「ふん。敵にほだされるとは愚かな」
「望み通り、美しい友情のためその最期をとげさせてやる」
柵越しに、鈍くその目を光らせ、男は歪んだ笑みを浮かべた。
「さよならだ。――詮索好きの歌姫」
ぎゅっと、ティナは目を閉じた。
万事休すだ――。
だがそのとき、よく知った声は響いた。
「愚かな。ロンドン市民の宝である彼女を滝つぼに葬ったりなどすれば、イギリス中を敵に回すことになるよ。それでもいいのかい?」
ふだんと変わらぬ、おどけた口調。
ふだんよりかすかに低く抑えられた抑揚。
長い付き合いでなければわからないほどの変化だが、ティナは知っている。
これは彼が相当に怒っているときだと。