⑪
首をかしげていると、笑顔を深められた。
「よくつけていただろう。『ジョーマローン・ロンドン』のフレグランス」
「――ああ」
すっかり忘れていた。
現役女優時代、ロンドンの香水ブランド『ジョーマローン』のジューンベルの香りを好んでつけていた。
「よく覚えているわね。」
「繊細な甘さ。きみそのものだからね」
自ら手折ったうえに投げ捨てた花を繊細と愛でる酔興男の長し目をスルーしていると、チュチュがティナの前に躍り出た。
「ちょっと、さっきからなに? お兄さん、お姉ちゃんの知り合い?」
警戒心ビンビンで、さながら全身の毛を逆立てたこねずみだ。
「ああ、歌姫クリスティーヌに恋焦がれる、怪人ファントムのようなものさ」
ぴくりとチュチュの丸い耳が揺れた気がしたのは錯覚か。
いやそうではないかもしれない。
子どもならではというべきか、野生の勘のよさを、彼女は発揮したのだ。
「お姉ちゃんを悲しませたのって、あなたなのね!」
「えっ」
びしっと人差し指をつきつけたかと思うと。
「わっ」
繰り出された上段蹴りに、
「うっ」
ヒューはあわてて仮面をガードする。
その後も野生の攻撃をかわしつつ、ヒューがティナに小声で訊いてくる。
「確認だが、彼女はどこまで知っている?」
とくにとめもせず、ティナはにっこり笑顔で答える。
「詳しくはなにも。あなたに裏切られた直後、極度の落ち込み状態だったわたしを見て、恋愛関係でなにかあったと勘づいているの。賢い子でしょう?」
「そのよう、だね。……あはは」
「ファントムお兄さん! これでどうだ!」
「まぁ、待ちたまえ」
チュチュの頭突きを、とっさに飛び退ってかわし、ヒューは告げる。
「僕は二度とお姉さんを傷つけないし、このバロタン・ボックスについての真相も必ず明らかにしてみせる。ついでに」
ふりあげられた足を、ぱしりと受け止めて、彼は微笑んだ。
「きみとは友達になりたい。これから時々、三時のティーブレイクに、きみを招待しよう。どうだい? これで許してはくれないかな?」
「……」
「クロテッドクリームたっぷりのスコーンもつけるよ」
「……」
チュチュはそっと右足を下ろす。
昔ティナからきいていた彼女の大好物を記憶にとどめていたことが身を助けた。
どっと疲れて、ヒューは片手を上げる。
「昼休みの時間のようだ。せっかくだ。姉妹仲良く、コヴェントガーデンで昼食でもとってきたまえ」
そして、相変わらずにこにこと微笑んでいる助手に告げる。
「ティナ、午後からさっそく調査だ。始業は一時きっかりだよ」
「承りました、ボス」
敬礼とともにくるりと回したその手を、ティナはそのまま、ソファから立ち上がった妹の背にあてた。