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泣きながらさらにむかむかしてきて、ティナは言い返す。
「わたしの元を去ったのがこのためなんて知らなかったんだもの。肝心なことが遅いのはどっち? そのつもりならそうと言ってくれていたらよかった!」
その肩を膝に横たえ抱いたま、ティナは怒り続ける。
「こっそりスマートにやろうとかあなたが余計なかっこつけなければこんなことには」
覆っていた手をどけ、じとりと、菫色の瞳が見返してくる。
「じゃなにかい? きみが店に応募に来た時点で、真の目的を告げて、さぁ僕はきみのために尽くしている、この愛に報いたまえとどや顔で言えというのかい? そんなのは僕の美学に反するね。まったく美しくない」
さらになにか言おうとして――ティナはふっと黙った。
漏れ出てきたのは、笑い。
転がっているのは、用をなさなくなった秒針。
「素直になれなかったことが導いた、時間切れね」
ティナの手を借りて立ち上がりながら、ヒューは言った。
「いや、まだ修正はきく」
「……え?」
耳を疑い、ティナは彼を見上げた。
次いで彼女を抱き起しながら、ヒューは宣言する。
「遠回りはしたが、今度こそ、堂々ときみを選ぶよ」
そして、舞台袖にいる二人に呼びかけた。
「オリーブ」
暗がりにたたずんでいた、現歌姫のその隣には、タキシード姿でたたずんでいる、父――。
「そして、父さん。あなたたちは契約書の『ティナ・チェルシーの身に害を及ぼさないこと』という項目を破った。だから契約は不成立だ」
胸元から契約書を取り出し、告げる。
「契約の掟は厳しく、どちらかが一つでも破れば不成立だったね」
オリーブはふっと微笑み、肩を竦める。
「あら。今度は妄想? あたしたちがいつ、彼女の身に害を及ぼしたというのかしら?」
だが、シャンデリアの光を受け、ボルドーにきらめく菫色は、揺らがない。
「天文時計の秒針をわざと落とした犯人は、あなたがた二人だ」
つきつけられた白手袋の指。
聴衆は押し黙る。
舞台はグランドフィナーレに差し掛かっていた。