⑲
テムズ川のほとり、ビック・ベンやタワーブリッジが見渡せる界隈で、ヒューはふと足を止めた。
狭い空間にいると息が詰まりそうで、出てきてはみたが。
ティナとこの場所を見たのはもう三日前――レストランでは美しく見えた夜景。
光の密度が濃すぎて、窒息しそうな心地になる。
小さく嘆息し、ヒューは胸元から帯状の紙を取り出す。
握手の際、父から盗んだもの。
ロンドンにあるオルゴール専門店『ノクターン』で売られている、オルゴールの曲を奏でるシートである。
シートに穴を空けることで、音符を刻んでいくそれは今はきれいな白紙。
一曲分――それも長い曲が作曲できる。
契約のためにやってきたノアがその身に持っていたもの。
作曲家としての単なる仕事道具には思えなかった。
心境を落ち着け考えたかったのだが、今夜はどうも頭が回りそうにない。
再び光の園へと視線を投じ――ヒューは息を呑んだ。
数歩先で、テムズ川にかかる桟橋にもたれる姿――思いがけないものに出会った。
シニヨンにまとめた蜂蜜色の髪。
仕事用のモスグレイのワンピースを着て。
考える前に、その名が口をついて出た。
「――ティナ」