⑩
顔を伏せ、ティナはただただ情緒的な哀惜に身を委ねる。
涙が止まらなかった。
顔を上げれば、レストランの壁には、今のイシャーウッド劇団の歌姫オリーブ・ムーアの華々しいデビュー公演が決まったという広告がある。
歌声を失った歌姫には、泣き声は許されている。
傷を負った仮面の人。
だからこその優しさだと思っていた。
ずっと。
「……どうして」
顔を伏せたまま、抱き起そうとする彼の力に懸命に抗って、ティナは言った。
「なんでそんなふうにぴたりと寄り添うことを言ってくるの。……あんなことがあったあとでも」
ゆっくりと顔を上げる。
涙を拭う暇など許されないまま。
「その優しい半面も、なにもかも嘘だというの」
――誰か。
――あの出来事は。
ティナはようやく自覚した。
歌声を失っても、ひび割れた心はずっと奏で続けていたのだと。故障したオルゴールのように。
――父親から自由の身になれたらば用はないと、彼がわたしの元を去っていったあのことはぜんぶ悪い夢だったのだと。そう言って。
でも、彼の笑顔の中の苦し気な歪みは増強していくだけで。
過去に零れた染みは消えてはくれない。
「……ティナ。きみが、僕を許せなくても。どんなに嫌いでも。やっぱり、僕は――」
ふいに口をつぐみ、ヒューはそっと顔を寄せる。
その胸を、ティナは押し留める。
新たな歌姫のポスターに、カップルが立ち止まって談笑している。
どうしても裏切られたときの傷が、消えない。
「だめよ。……わたしたちはもう、終わったの」
「――そうだったね」
吐息をつき、泣き笑いのように、ヒューは夜空を仰いだ。
「なんだか今夜は昔の夢に酔ってしまいそうになるな」
二人は同時に、笑った。
口にするには多すぎる傷を、立ち込めてきたロンドンの霧に紛らせて。
理由も、意味もなく、ただそこから顔を背けるために、都会の光に笑い声を響かせた。
かつて夢の世界を、舞台上にともに創り上げたように。