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「目の前のいい男? 疲れ気味かしら。わたしの視力だとどうも、捕らえられない」


 塩をかけられたナメクジのようにしおれる彼に、と。


 後にティナは、この夜のことを、自分自身に弁解した。 


 今夜は少しだけ情けをかけたくなった――だけ。


「いい男かはともかく。どの事件も、あなたがいなけれは解決はなかった。それどころか、命すらあったかどうかも危ういものもあるわけだし」


 すがめた目でちら、と彼を見やり。


 そしてまた目を逸らして、ティナは告げた。


「何度も助けてくれた。そのことには感謝するわ」


 ロンドンのまばゆい夜景とシャンパンの香りが、普段は努めて沈めているティナの中の線をつまびき、奏でだす。


「――そう。いつだってあなたは、助けてくれる人だった。わたしの人生では。あのときから、ずっと」





 夢か幻か、非日常の魔法なのか。


 ティナはシャンパングラスの中、風景が映るような気がした。


 自分自身の人生の、パノラマ。


 二十三歳で有名な音大を卒業後、イシャーウッド劇団に所属するがなかなか売れず。


 そこへ座長――イシャーウッドに妙なことをもちかけられる。




 目の前の彼と同じ、ストレートグレイの髪にかすかに混じった褐色。


 そして――幻惑的な菫色の目をした、初老の男性だった。




 彼は言った。その歌声を売れば、高額の退職金を出すと。




 正直心揺れた。


 田舎のコッツウォルズで両親も心配しているし、音楽を志す妹もいる。


 実家に帰って手堅い職を得、妹を支える側に徹するべきではないかと悩んだ。




 だが、それを引き止めた人物があった。




『妹さんは、それを喜ぶかな』




 今目の前に座っている彼は、たしかに言ったのだ。




『妹さんがミュージカルスターを志したのは、きみの公演がきっかけだと言っていたね』




 音大時代の学内公演で、クリスティーヌを演じた。


 プロですらなかったときの小さな一幕。




 何気なく話した想い出をそっと両手ですくいあげるように。




『きみの人生はきみだけのものだ』




『ぜったいに誰にも譲ってはいけない』




 菫色の瞳は燦然と光っていた。




『神から与えられた一度きりの契機は全力で活かすべきだ』




 ふらふらと蠢くシャンパングラスの気泡となって、過去の幻は消えゆく。




「ねぇ、あのときなんで、あんなこと言ってくれたの?」



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