⑦
「目の前のいい男? 疲れ気味かしら。わたしの視力だとどうも、捕らえられない」
塩をかけられたナメクジのようにしおれる彼に、と。
後にティナは、この夜のことを、自分自身に弁解した。
今夜は少しだけ情けをかけたくなった――だけ。
「いい男かはともかく。どの事件も、あなたがいなけれは解決はなかった。それどころか、命すらあったかどうかも危ういものもあるわけだし」
すがめた目でちら、と彼を見やり。
そしてまた目を逸らして、ティナは告げた。
「何度も助けてくれた。そのことには感謝するわ」
ロンドンのまばゆい夜景とシャンパンの香りが、普段は努めて沈めているティナの中の線をつまびき、奏でだす。
「――そう。いつだってあなたは、助けてくれる人だった。わたしの人生では。あのときから、ずっと」
夢か幻か、非日常の魔法なのか。
ティナはシャンパングラスの中、風景が映るような気がした。
自分自身の人生の、パノラマ。
二十三歳で有名な音大を卒業後、イシャーウッド劇団に所属するがなかなか売れず。
そこへ座長――イシャーウッドに妙なことをもちかけられる。
目の前の彼と同じ、ストレートグレイの髪にかすかに混じった褐色。
そして――幻惑的な菫色の目をした、初老の男性だった。
彼は言った。その歌声を売れば、高額の退職金を出すと。
正直心揺れた。
田舎のコッツウォルズで両親も心配しているし、音楽を志す妹もいる。
実家に帰って手堅い職を得、妹を支える側に徹するべきではないかと悩んだ。
だが、それを引き止めた人物があった。
『妹さんは、それを喜ぶかな』
今目の前に座っている彼は、たしかに言ったのだ。
『妹さんがミュージカルスターを志したのは、きみの公演がきっかけだと言っていたね』
音大時代の学内公演で、クリスティーヌを演じた。
プロですらなかったときの小さな一幕。
何気なく話した想い出をそっと両手ですくいあげるように。
『きみの人生はきみだけのものだ』
『ぜったいに誰にも譲ってはいけない』
菫色の瞳は燦然と光っていた。
『神から与えられた一度きりの契機は全力で活かすべきだ』
ふらふらと蠢くシャンパングラスの気泡となって、過去の幻は消えゆく。
「ねぇ、あのときなんで、あんなこと言ってくれたの?」