「お駄賃」
今日の分、何とかお届け致します
ほっ・・・
早朝、未だ星々が燦めき、夜と言っても過言では無い頃、長年連れ添ってきた夫のことを気遣いながらそっと身体を起こす沙喜。
傍らに点る小さな常夜灯を頼りに、手早く着替え、洗面に向かう。
実家の母が小さかった頃は部屋中が冷え切っていて、この時が一番辛い時間だったと言う。
今はそうで無いだけましではあるのだが、それでも朝早く起きるというのは辛いこともある。いや起きること自体は苦では無いのだ、自然に目が覚めるのだから。
けれどもそのことと、身体を動かすと言うことはまた別なのだった。そしてそれは徐々に年を経るに従って、より多く感じていることなのだった。
だがこの家を支えるという気概が沙喜に力を与え、エプロンの紐をきゅっと締める感覚で、ぐっと背筋を伸ばすのだった。
別に女だから家の中のこと、男だから家の外のことをと、そう言った区別のつけ方を、沙喜は取り立てて考えることはしてこなかった。
ただ、自身の役割として、頽れるまで外で働いてくる家の男共を、なんとしても支え切るという思いで、少しでも寛ぎ、少しでも美味しい物を食べさせてやりたいと、天命とも感じつつ家事を熟しているのだった。
そんな沙喜の背中を見ている所為か、この家の子供達は男女の区別無く誰もが、手が空いていれば彼女のことを手伝おうとしてくれる。
良い子供達に育ってくれた、沙喜は常々そう思っているのだった。
さてその沙喜、この家に相応しく広々とした台所に向かうと、そこには昨晩、夜っぴて盛り上がった慰労会の名残が、それこそ山のように堆く積まれているのだった。
この家の習慣として、どんなに酒を飲み、どんなに盛り上がろうとも、必ず食器だけは下げると言うことになっているのだが、それがきちんと守られているのだった。
勿論それらを綺麗にし、片付けるところまでしてあれば言うことも無いのだろうが、そんなことを要求するほど沙喜も鬼では無い。
綺麗に残り物を片付けるというところまでやってあるのを見て、上出来ねと思わず頷くのだった。
「良し!」
そう気合いを入れると水栓を捻り、勢いよく流れ出る温水の下、果てしないほどの数の食器を洗うべく働き始めるのだった。
そして作業に取りかかること数分、何やら後ろから近付いてくる気配を感じる。一体誰がこんな早朝にと、訝りながら頭だけで振り返る沙喜。
「え?雨子様?」
そこに居たのはスエット姿の雨子様。沙喜は目を丸くしたまま、その場で固まってしまう。
「おはよう御座います。あの、何か御用事で御座いますでしょうか?」
幾秒か無駄にした後、漸く何とかそう口にする沙喜。
すると雨子様、にっと笑いながら言うのだった。
「む、おはようじゃな。しかし随分早い時間から精が出るの、沙喜」
「はぁ…、それで雨子様、一体何用で?」
すると雨子様、ぐいっと袖を捲り上げると言うのだった。
「何、手伝いに来たのじゃ」
「手伝う?」
沙喜には珍しく素っ頓狂な声が出てしまう。
「そんな、雨子様、どうかお許し下さい。神様に片付け物を手伝って頂くなぞ、とんでも御座いません。それ位なら家族の者をたたき起こして参ります」
そう言うとエプロンで手を拭き、その場を動こうとする沙喜に、必死になってしがみつく雨子様。
「ま、待つのじゃ沙喜、待てと言うのじゃ!」
流石に雨子様にぎゅうっとしがみつかれ、そこまで言われてしまえば、沙喜も待つより他は無いのだった。
そんな沙喜のことを呆れたように見つめながら、恐る恐る手を放す雨子様。
「全く以て沙喜も直情じゃな?」
雨子様の呆れ顔が堪えたのか、少し顔を赤くする沙喜。
「手伝うと言うのも本当のことなのじゃが、もう一つは、改めて沙喜に頼むと言うこともありこちらに参ったのじゃ」
「笹姫さんと次郎太さんのことで御座いますよね?」
「うむ、正にその通りじゃ。皆の手前一通りのことしか言っておらぬが、今一度心より頼もうと思っての」
そう言うと丁寧に頭を下げる雨子様。
それを見た沙喜は慌てて言うのだった。
「あ、雨子様、どうかおつむをお上げ下さい。大恩在る神様にその様に頭を下げられましたら、沙喜は一体どうすればと、心底困ってしまいます」
生憎、沙喜はつい昨晩も雨子様が頭を下げていたなど、露ほども知らないのだった。
ゆっくりと上げられた頭を見ながら沙喜は言う。
「雨子様…、どうか沙喜の寿命を縮めないで下さいまし」
「縮んだか?」
「はい…」
沙喜がそう言うと、雨子様はその沙喜と目を合わせる。そして二人しておかしそうに笑い始めるのだった。
「くっくっく、まあそのような沙喜であるからこそ、我も安心して笹姫達を預けられるのじゃがな」
楽しそうにそう言う雨子様に釣られて、沙喜は次第に心が和んでいくのを感じていた。
そうやってゆっくりと肩の力の抜けていく様を見た雨子様、今一度口を開くのだった。
「それでじゃな、笹姫達を預けるにあたり、その駄賃を払おうと思ったのじゃ」
そう言いながら何とも悪戯っぽそうに、目をくりくりと動かす雨子様。
「駄賃で御座いますか?」
少し呆れたように笑いを浮かべつつ沙喜が問う。
「うむ、その駄賃がつまり、此処の手伝いという訳なのじゃ」
そう言って周りを見渡す雨子様に、嫌々と頭を振りながら沙喜は言う。
「あのう、雨子様、そのご意思は変わらないものなのですね?」
「うむ、変わらんの」
雨子様は笑いながらそう言う、そして更に付け加えるのだった。
「案ぜずとも良いのじゃ沙喜。我は吉村の家でも常々台所仕事を熟して居る」
苦笑しながらそれに応える沙喜。
「それはもう、以前に吉村に家に滞在させて頂きました折りに、何度も目にしましたから…。でも雨子様、それでも私には畏れ多いのですよ?」
そう言いながら沙喜はわざと唇を尖らせてみせる。
「くふふ、沙喜よ、もう落城間近じゃな?」
沙喜は思わず頭を下げ、笑いを堪えながら言うのだった。
「もう、雨子様には適いません…。分かりました、どうかお手伝い下さいますか?」
「任せるのじゃ!」
無事この場の女主たる沙喜に許可が貰えると、雨子様は喜び勇んで今一度袖を捲り上げる。
そして沙喜と肩を並べると、楽しそうに洗い物を始めるのだった。
それが実にリズミカルで、且つ正確で、嬉々としている。
聞こえてくる鼻歌に乗せられ、沙喜まで仕事がはかどってしまうのだった。
本当に山のようにあった片付け物が、見る見る内に綺麗に成り、指図もしていないのに見合った棚へと仕舞われていく。
「驚いた、雨子様、大ベテランですね?」
沙喜がそう言うと、雨子様は少し得意げな顔をしながら言うのだった。
「むっふぅ、あくまでこの領域だけじゃがな?見立てと正確さと速さ。これに関しては我は神じゃからな?」
「はぁ…」
どう答えて良いか分からない沙喜、何とも曖昧な感じで答えを返す。
「じゃがそれも、ことこう言う片付けに関する限りじゃ。料理を作るとなると、切る剥くなどのことならともかく、味付けをしたり適時熱を加えたり等、其方や節子の技には遠く及ばぬ。日頃一生懸命に手練手管を伝授して貰っては居るのじゃが、まだまだ道半ばと言ったところなのじゃ」
雨子様のその話を聞いた沙喜は、思わずにっこりと微笑んでしまう。
「それもこれも皆祐二さんの為なので御座いますよね?」
「む?むぅ…。分かってしまうのかや?」
そう言うと顔を真っ赤に染める雨子様。
「まあそうですね、普段から仲睦まじい様が良く分かりますし。誰かからそう命じられているのならともかく、自然な思いでそう有るのなら、とても良いと思いますよ?」
「うむ、加えて言うなら、節子にも祐二にも本当に世話になって居るしの…」
「それはまた特上のお駄賃に成るのかも知れませんね?」
沙喜のその言葉に暫しもの思う雨子様。
「これもまた駄賃、かの?そう言えないでも無いか?くふふふ」
柔らかくそう笑う雨子様のことを、沙喜もまた柔らかく見つめ続けるのだった。
今でこそ屋内は何処も暖かくなってきていますが、嘗ては本当に寒かったであろうと思いますね
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