「恋いに至る…」
いよいよ本題かな?
「うむ、そうで有ったの。一番大切なことを聞かなくてはなら無いのじゃった…」
そう言うと雨子様は両の手で節子の手をそっと握り締め、笑顔に満ちているその目の奥を覗き込むのだった。
「我はそもそも第一義として、人の間に入って生活し、不足していた精を都合良く得るため、人間の身体というものを得始めたのじゃ。勿論、主目的はそうでは有ったが、我と拘わることで、万が一危険に晒されるかも知れぬ祐二を、見守ると言った部分も有ったのじゃがの」
そうやって話しながら雨子様は、吉村の家で初めて人型になった時のことを思い起こしていた。
「今をして思えば、外から見た人のことはともかく、実際その内にある様々なことなど、はっきり言って何も分かって居なかったに等しいの」
そう言いながらその時のことが、既に遠い過去のことであるかのように感じていた。だが、雨子様の神としての記憶は、特に意識することが無ければ、あらゆる情報がつい昨日のものの如く鮮明に残される。
現に、初めて節子が淹れてくれたお茶を味わった時の、鮮烈な驚きを今もしっかりと覚えているのだった。
「じゃがそなたらの好意により、この家に受け入れて貰い、共に暮らしていくうちに我は知ったのじゃ。人と言う存在が、日々の生活の中で起こる様々なことを、どれだけ生き生きと捉え、そしてそこから、どれだけの豊かな感情を想起させているか?と言うことをの」
そうやって喋り続ける雨子様のことを、じっと見つめ続ける節子。その瞳には愛情と、寛容と好奇心、そして理解を示しながら静かにその言葉を聞いている。
「事象を観察し、分析し、理解することが権能たる我なのじゃが、その時目にしている事柄の多くは想定外で有り、驚きであり、脅威でも有ったの」
そう言うと雨子様は少しの間押し黙るのだが、口角が時折上がるのを見るところ、色々楽しかったことでも思い起こしているのだろう。
「そのことは人の内面に踏み込めば踏み込むほどに、強く感じられることなのであった。それはまた、少しずつ本物の人の身を得つつあった我の内面にもまた、大きな変化をもたらし居った」
そこまで言うと雨子様は、それまでよりも少し強く節子の手を握り締めながら言う。
「我は借り物のような人の身体から変じて、本物の身体を手に入れていけば行くほどに、言語化出来ぬような様々な情報の奔流を得、時として溺れそうにすら成ったのじゃ」
節子は、そう語る時の雨子様の目に、ほんの僅かではあるが、揺らぎのようなものを捉えて言う。
「もしかして怖かった?」
微かに頷く雨子様。
「うむ、怖かった。じゃがそれは今をして思えばと言うことなのじゃ。当時は、この身より来る得体の知れぬ複雑な感覚。それが一体何なのかすら良く分かって居なかったと思われる。じゃがの…」
雨子様はそう言うと、嬉しそうに目を細める。
「確かにそう言った得体の知れない何かは、我を恐れさせもしたが、それよりもむしろ大いに喜ばせもしたのじゃ」
その言葉と共に雨子様は、節子の手をそっと放したかと思うと、その手を重ねて自らの胸の上に置いた。
「其方の振る舞ってくれた茶に始まり、様々な料理のなんと美味しく、感動を及ぼしたこと。我は今でもあの時の感覚を忘れはせぬ。そなたらのいと優しき思いや感情と触れあい、重なり合い、溶け合ったときの、一体何と言えば良いのじゃろうな?温もり?安心感?高揚?興奮?豊かさ?切なさ?潤びる思い?愛おしさ?怒りも悲しみも喜びも全てが、我の心を劇的に変化させていきおった」
そこまで言うと雨子様は大きく息を吸い込む、その後、熱く長く切ない吐息をゆっくりと漏らす。
「そして我は知ってしもうた、祐二への深く切なる思いを…」
その言葉の後、暫し沈黙を守る雨子様。
その雨子様の姿をただ黙って、けれども肌に感じられるかと思うくらい、暖かな愛情を持って見守る節子。
「一体いつから?何故に?我も自らその答えを追い求めはした。じゃがこれという明確な区切りは無く、気がついたら何時しか既にというのが実情じゃ。人と言うのは、良くもこの様に複雑で不安定で得体の知れないものを抱えて生きているのじゃな?」
そう言いながら苦笑する雨子様。
「それを抱えて生きるのは嫌だった?」
おそらく返ってくる答えを知っておりながらの、節子の質問だった。
勿論雨子様は素早く否と、首を振る。
「確かにこれは、時に不安をも呼び起こすものかも知れん。じゃがこれは我の得る喜びと表裏一体。最近になってそのことを、ようようにして分かってきたように思うの」
そう言う雨子様に節子はふふふと笑いかけながら言う。
「雨子ちゃんもいっぱしに恋する女の子になったのね?」
「そうかや?」
そう言ってはにかむその姿は、正に節子の言う通り、恋する女の子そのものなのだった。
「じゃが問題は、そこからまだ先があったと言うことじゃの…」
そう言うと雨子様はふっと溜息をつく。
「胸の奥を満たす何とも言えぬ甘酸っぱき思い、それだけならまだ良いのじゃ。そこから先、愛おしいと思う相手を望むこの思い、この感覚はどうしたことじゃ?」
雨子様はそう言いつつ口を少しへの字に曲げる。
「勿論これが子を増やすという、種の宿命に繋がって居ることは、頭では分かって居る。じゃが理として知って居っても、理解にはほど遠い。そんな我の心が、身体が、時に悲鳴を上げるのじゃ、彼の者と一つになりたいと…」
雨子様の視線が頼りなげに宙を彷徨う。
「おそらく何度か、我は暴走しかけて居ったに違いない。にも拘わらずあの者は我が無茶をすることが無いよう、きちんと自らを律してくれて居った。うむ、今の我なら分かるのじゃ、そうで有ったとな?」
そう言う雨子様の言葉にうんうんと頷く節子、そして心中で思うのだった。偉いぞ祐二と。
「じゃから、そんな誠実な彼の者に、我もまた誠実さを以て応えようと思うた」
「それは?」
雨子様の言葉に疑問を持った節子が、短く問う。
「うむ、我なりに色々と考えたのじゃ。そしてそれこそが何時か、彼の者のために子を産んでやろうという決断なのじゃった」
「そうなんだ…」
「その為には、これまでの様にただ形を整えると言うだけでは、余りにも不十分じゃった。故に我は本気でこの身を作り替え始めたのじゃ。彼の者の子を為すに相応しい身体となるようにの」
固く決意に満ちた表情をする雨子様のことを、節子は実に美しいと感じた。
そしてこの様な女性に愛して貰える祐二のことを、幸せ者だなとも思うのだった。
「そして、そして…その、それが出来た暁に、初めて我は、そのぅ…」
耳から顔から腕から足に至るまで真っ赤に染まりきった雨子様は、身体を丸め、俯き、絞るように吐息を吐き、やがてそっと節子を見つめる。
「…」
節子は優しく言う。
「なあに雨子ちゃん?」
雨子様は丸で消えゆくような小さな声で言う。
「良いのかな?我はそう成っても良いのかな?」
不安で不安でどうしようも無く、今否定されれば消え失せてしまいそうな雨子様。
そんな雨子様の身体にそっと手を回し、強く抱きしめて上げながら言う節子。
「馬鹿ね雨子ちゃん、何をそんなに不安がっているのよ?もっと…もっと自信を持ちなさい」
そう言う節子の言葉もどこか震え、その始まりがいつからなのか分からないままに、熱い涙を零し始めるのだった。
「人の子がただ恋するのとは、訳が違うものね。でも大丈夫よ、何が有っても私は貴女の味方よ。祐二のことだって敵に回すわよ?」
そう言う節子に、泣き笑いしながら雨子様は言う。
「困ったのう…。これでは節子が一体どちらのお母さんなのか、分からぬでは無いか?」
そう言うと一人と一柱の女性達は目を合わせ、ボロボロと涙を零し合いながらも、漏れ出てくるおかしさ、笑いを抑え切れないのだった。
そうやって暫しの間、言葉を越えた思いを交え合い、何とか落ち着くことが出来た二人は、何処か晴れ晴れとしか表情をしながら、共にティッシュで顔を拭い、ちんと鼻をかむ。
そのさまを自ら思い浮かべて雨子様は笑う。
「本当じゃの、我もすっかり人の子かもしれん」
「あらあら、妙なことで実感しているのね?」
「くふふふ、全くじゃ」
そう言う雨子様に節子は言う。
「いよいよ本題なのね雨子ちゃん?」
対する雨子様は、一瞬きょとんとしたかと思うと、呆れたような顔つきをして言う。
「もう適わぬのお母さんには。一体どちらが神なのか人なのか分からぬの?」
「恋するのに人も神も無いって事、今分かったばかりじゃ無い?」
「確かにの。そして正にこれこそが、我の聞きたかったことなのじゃが…。母に成ると言うのはどう言うことなのじゃろうの?」
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