雨子様の憂い
葉子ねえの診察に付き合って病院まで言った雨子様と僕。
さてその状況が変化したのはしばらく経ってからのこと。
ふと気がつくといつの間にか葉子ねえの姿が無く、雨子様に聞くとつい先ほど診察室手前に有る、もう一つの待合場所の方へ行ったとのこと。
「そなた、姉が席を立ったことすら気がつかなんだとは、些かどうかと思うぞ?」
軽くでは有るが雨子様に怒られてしまった。
「おそらくはここに戻ってくるまでに小一時間は掛かるであろうとのことじゃったが、それは良いのじゃ」
そう言うと雨子様は少し顔を顰めた。
「何かありました?」
「ほれ、あそこの女を見るが良い」
雨子様が指し示す方向を見ると、一人の女性が沈んだ表情で俯いていた。
「あの女性がどうかしたんですか?」
そう聞くと雨子様は顔色を暗くした。
「あのもの、良くない気を放って居る。あのまま放っておくと自死するかもしれん」
「じしって?」
「自ら己が命を絶つことじゃ」
「自死か…。でもそれって穏やかじゃないですね、大丈夫なのかなあ?」
「ちっとも大丈夫ではない、じゃがどうしたものかのう?」
「雨子様はどうされたいのですか?」
「神と称するには余りに矮小なこの身なれど、目の前であのように深く落ちこんだ姿を見てしまうと何とものう」
「雨子様は適うなら何とかして上げたいと?」
「むぅ、そうなのじゃが…」
そう言うと雨子様は僕を見た。
「先達て我の神性を示すためにミサンガを外してそのままじゃろう?」
「そう言えばそうですね」
「じゃから少しばかりあの女の役に立ってやろうと思えばやれるのじゃが、じゃが我が身を支えるのはそなたの精じゃ。そなたの力はそなたの姉に使うことがまず一番じゃと思うのでの」
僕は雨子様の妙に律儀というか、義理堅いことに驚いてしまった。
「でも雨子様は既に葉子ねえに呪を施して下さっているじゃないですか?それに葉子ねえが病弱とか言うのなら話は別かも知れませんが、元々健康優良児みたいな人だし。そんなに大層なことをするのじゃないのですよね?」
「うむ、それほど大がかりなことをするつもりはない。我が行うのはほんの小さなきっかけを与えるようなものじゃ」
「なら良いのじゃないですか?」
僕にそう言われて雨子様も決心が付いたようだった。
「むう、ならば行ってくるとするか」
そう言うと雨子様はすくっと席を立ち、その女性のところに行って横に座った。
そして何事か言葉を掛けたようだ。
最初女性はぼんやりとした表情で雨子様を見つめただけで、雨子様が話しかけてもどうにも言葉が届いていないような、そんな様だった。
しかし雨子様が更に話しかけるにつれ、目を見開き、驚くようにしながらその言葉を真剣に聞き始めている。
驚き、強ばり、泣きそうになり、そして身をすくめていた。
そんな女性に雨子様は辛抱強く声をかけ続け、肩に手を掛け、優しく抱きしめもしていた。
時が経つうちに女性の表情は和らぎ、うんうんと頷き始める。
やがて何時しかにこやかな表情になって来た女性の背中を雨子様が優しくぽんと叩く。
その瞬間、その部分で何かが微かに光ったように見えたように思ったのだけれど、気のせいか?
最後に一言声がけした雨子様は、ゆったりとした歩調で僕のところへと帰ってきた。
その後を見送る女性が立ち上がると、雨子様の後ろ姿に深々と頭を下げる。
その時上げられたその顔は、とても清々しい表情になっていた。
「雨子様一体何がどうなったのです?」
「うむ、プライバシーというのが有るであろうから、詳しいことは話せぬが、要はあのものにかかっていた呪い(まじない)のようなものを解き、少しだけ運を手助けするような呪を施してやったのよ」
「うん、さっぱり?」
プライバシー云々は分かるけれども、まったく何が何やらで有る。
「むう、仕方ないのう。まあ言うて見ればそなたの精を使ったことでも有るし、説明義務が有ると言えば有るのかのう?」
少しばかり考え込んでいた雨子様だったが、やがて少しずつ話し始めた。
「あの者はのう、子宝を求めて居るのじゃがなかなか恵まれず、それでこの病院に来て居るのじゃ。じゃが何度望んでも得ることが出来ず、悲嘆に暮れて居ったのじゃが、我の見立てでは何ものかの呪いが邪魔をして居ったようなのじゃ」
「呪い?」
「うむ、それを掛けたのが何者かまでは追及せなんだのじゃが…さような手間まで掛けておれんからの…その呪いがあるが故にあの者は子を得ることが出来ないで居った」
「呪いって何時も雨子様が掛けているようなもの?」
「そうじゃな、非常に近しいものじゃが、呪はそなたら人から貰った精を我の中で変質させ、独特の構造式に設えたものなのじゃが、呪いはそなたら人の精が強い感情によって変質して偶然生まれる簡易版の呪みたいなものなのじゃ」
「じゃあそれを解いて上げたという訳なのですね?」
「むう、大雑把に言えばそうなのじゃが、じゃがこの呪いを解くためには式に絡まって居るあの者の負の思念を解きほぐさねばならんのじゃ」
「その為にあの人と色々話をしていたのですね?」
「そうじゃ」
そこまで話すと雨子様は急に咳払いをした。
「コホン、些か喋り疲れて居る。喉を潤すものが有ると良いのじゃが」
そう言いながら雨子様は待合室の隅に有る自販機の方をちらりと見た。
これはもう行くしか無いだろう。僕は自販機の前に行き何を買おうかと悩む。
おっと、雨子様の好きなとろり味の桃のジュースが有る。もしかしてあの距離からこれが見えたのかな?
さっそく買ってきて雨子様に渡すと、いそいそとプルタブを引き、ニコニコしながら飲み始めた。
「むう、要求したようですまぬの」
いやいや、明らかに要求してますって雨子様。
僕は苦笑しながらも偶然と言うことにして思ったことは口にしなかった。
半分ほど飲んで十分に喉を潤した雨子様は再び口を開いた。
「祐二も良く覚えておくが良い。人が何かを成そうとするときには、必ずそこに人の意思が働く。多くの場合はその意思の有る無しなど、結果の善し悪しに絡むことはまず無い。じゃがな、それでも中には有るものなのじゃ。その意思と言う僅かな力が行く末を変えることが。それは特に何かに迷うとき、この道を行くべきなのか、はたまたそれとは別の道を行きべきなのかと、思い悩むようなときにより強く働く。」
そこでまた桃のジュースを二、三口呷る。
「はたまた今度のように、新たな命が生まれるか否かのようなときの小さなきっかけにもなる。現実の世界に及ぼす力としては、物理的には無きにも等しいので有るが、物事が変化を積み重ねて動き、歴史を作っていくというのは、実はこの極小の力の積によるところが大きいのじゃ」
そう言いながら待合室の出口の方へと目を向ける雨子様。
そこでは先ほどの女性が雨子様に向かって静かに頭を下げ、病院から出て行く所だった。
雨子様はその女性に向かってにこやかに微笑みながら会釈してみせる。
「じゃからこそ、あの者には自身を肯定してくれる何かの力が必要じゃったのじゃ」
「それで雨子様は言ってみればあの人のことを上手く励まして上げて、更には呪いを解いて上げたという訳なんですね?」
「うむ」
雨子様は最後の一口を飲み干すと、自販機のゴミ箱まで自ら缶を捨てに行った。
「人はの、そう言った意思の積み上げで未来を築いていきおる。そしてそれらの組み合わさったものが歴史となっていく。適うなら良き意思の積み重ねで、より良き未来を築いてほしいものじゃの」
最後の部分、雨子様はどこか言い聞かせるかのようにしみじみと言っていた。
と、そこへ葉子ねえの声。
「おまたせ~」
見ると葉子ねえはどこか疲れた顔をしている。がしかし晴れ晴れともしていた。
「どうだったの?」
「順調だって、どこも問題は無いって」
「うむそれはよかったの」
葉子ねえの報告を聞いた雨子様は本当に嬉しそうだった。
僕は葉子ねえと雨子様が話している間にも父さんに電話を掛けた。
「父さん?今終わったよ」
受話器の向こうからは父さんが、分かったと一言言ってくる。
後は葉子ねえの精算が終わり、父さんがやってくるのを待つだけだ。
葉子ねえの診察に付き合って、待合室で待っているだけのはずだったのに、もしかすると思わぬところで人の人生と関わってしまったのかも知れない。
僕は何気に部屋の中を見回して思った。ここに居る人達が皆より良い未来を築けると良いのになあって。そんな風に思えるのは多分雨子様のお陰なんだろうなあ。
昨日はアップロードのミスにより、旧作品を二重上げしてしまい、申し訳ありませんでした。




